岡山城下町の北西、半田山ふもとにあり、東は旭川を隔てて中島村・南は三野
村、北は原村と接していた。川土手を周匝(すさい)往来が通っていた。
地名は、中世山陽道が旭川を渡る三野の渡しで結ばれていたことにより、なんらかの旅宿
の機能を持つ集落があったことに由来すると考えられる。
貞享元年(1684年)の「萬高差引帳(よろずたかさしひきちょう)」(池田家文庫)による
と村高の内訳は朱印高451石余、又高(まただか)124石余、「萬荒引高((よろずあらひき
だか)」95石余、天和3年(1683年)の改め出し高12石余、侍手作高などとなっていて
、実高は差し引き合計496石である。
枝(えだ)村に三軒屋(さんげんや)・小室(こむろ)があった。
「備陽記」などには村高451石2斗、田畑26町5反4畝、家数67軒、人口
448人、渡し船一隻、池6カ所と記され、さらに文化年間(1804~18)の「岡
山藩領手鑑((てかがみ)」では直高((なおしだか)658石余、家数76軒、三軒屋17軒、
小室7軒、半田6軒、人口532人となっている。(平凡社「岡山県の地名」)
とくに文文化年間の直高に家老池田和泉ほか6人の給地が含まれていることからすると、
貞享以後宿村及び枝村に新たな給地割りが行われたようである。
また半田村が枝村として成立するのも、それ以後のある時期のことと思われるが、詳細は
明らかでない。
「備前九郡之帳」(池田家文庫)には「柴山小」「草山小」とみえ、採草地の恵まれなかった
ようである。
そのためだろうか、宝暦9年(1759年)には隣村の畑村・原村両村との間に草刈場をめぐる
入会相論が起きている。
発端は宿村の者が畑村・原村の草刈場に入ろうとしたところ、大勢の畑村百姓が山留めを
強行したことにあったが、翌年の藩の吟味に対して、宿村は先年半田山が藩のお林になっ
て以来、草刈場にこと欠き、畑村・原村の山内で刈って来た旨を主張している。
いっぽうこれに対し畑村・原村は、宿村の入会場への入り込みは、宝暦9年(1759年)に
新たに始まったもので、前々から2、3人ずつ盗み刈りに入ったのを追い散らした事実がある
ことを述べ、反論している。
藩はこれら3村の言い分を吟味した結果、宿村に入会の権利がないことを認めつつも、
宿村に草刈場のないことを理由に、新ためて船山谷・磯尾谷を3カ村の入会場とする裁定を
下している。
明治22年(1889年)三野村・北方村などと合併して御野村となり、大正10年(1921年)に
は分離して牧石村に牧石村に編入された。牧石村は昭和27年(1952年)岡山市に編入合
併された。
同48年の住居表示事業で、一部が宿本町・半田町・法界院・三野本町・理大町となった。
新町名の半田町は枝村や山の名からとり、理大町は岡山理科大学にちなんだ。
現在、同大学や陸上自衛隊三軒屋駐屯地などがある。
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