三 野 村

(現 北方2丁目・三野1~3丁目・三野本町・半田町・法界院・宿本町)



 
   岡山城下町の北に位置する村で、東は旭川で限られ、対岸に中島村がある。
  「みの」の地名については、素盞鳴尊(すさのうのみこと)が、雨のあがった当地
 で蓑笠を脱ぎ捨てたことに由来するという伝えがある。
   
   古代の御野郡御野郷の遺称地で「日本書紀」慶雲3年(706年)の条には「御野」
  とみえる。

   旭川に面して標高80メートルの妙見山(明見山)がある。

   中世山陽道は、対岸の今在家の堤防下から中間の川原を利用して妙見山の
  ふもとに船渡しをしていたとみられている。

   地形がわん曲して、ちょうど鑵子(かんす)のつるのようになっていたことから
  「釣りの渡り」(温故秘録)、「鑵子の釣の渡」(和気絹)、「つるの渡り」(備前名所
  記)などといわれていた。


   渡し場に身投げ石(いわ)」と称される岩場があって、下は深い淵をなし、ここで
  身投げをするものが絶えなかったという。(温故秘録)

   旭川沿いの土手は周匝(すさい)往来が通り、土手上には池田光政が納涼の
  ため「三野の御涼所」をつくったこともあった。(前掲書)

   妙見山には明見山城、あるいは「鑵子釣城」という城跡があり、永禄
(1558~70)
  のころ、須々木四郎兵衛の居城であったが、明禅寺合戦ののち宇喜多氏によっ
  て召し上げられたという。

   のちに山頂に「明見宮」が祭られた。明治2年
(1869年)天津神社への改号を経
  て、天神社となった。(「神社明細帳」ほか)


   
貞享元年(1684年)の「萬引高差引帳」(池田家文庫)によれば、村高は朱印
  高252石余、又高110石余、「萬荒引高」23石余という内訳で、差し引き実高
  339石余、枝村法界寺とある。

   のちの「備陽記」などでは、高252石5斗6升、田畑16町9反8畝、家数53軒、
  人口309人とされ、更に文化年間(1804~18)の「岡山藩領手付鑑」では直高
  384石余、家数50軒、人口226人となっている。

   正保3年(1646年)「備全国九郡の帳」(池田家文庫)に「草山小」とあるように、
  草刈
場にはあまり恵まれない村であったが、灌漑用水は御野郡の北から西の
  笹が瀬川の注ぐ座主川の取水口清水堰(六挺樋)が整えられて豊かであった。

   なお座主川用水は古代条里の地割に沿っていることから、その成立は古いと
  みられている。

   枝村は法界寺には真言宗御宝派の遍照寺法界院がある。天平勝宝年間(749
  ~57)に報恩大師によって創建されたと伝えられ、本尊聖観音立像は国重文で
  ある。

   明治22年(1889年)宿・北方・南方・広瀬町・八番町・万町の一部と合併して
  御野郡(明治33年から御津郡)御野村となり、大正10年(1921年)岡山市に編
  入、合併された。


  
 その後昭和48年(1973年)の住居表示事業で、一部が北方2丁目など多く
  の町に分かれるにいたった。

   岡山大学・岡山理科大学に近く文教地区であり、現在、市水道局三野浄水場、
  半田
山、植物園、三野公園などがある。

  

749~57年に創建

昭和48年の住居表示事業で多くの町に分かれる。