【備前国南西に三野評が三野国造によって出来る】 「評」は、国造のクニを分割・再編しながら、大化・白雉年間(645~654年頃)に全国的に実施されたと推測されている。 それまで国造や県主だったり、部民や屯倉を管理していた地方豪族のうち、有力者が評家(こおりのみやけ)を建て、評の官人(評造・評督・助督)となった。 藤原宮などの発掘によって大宝律令制定以前に書かれた木簡の表現は全て「評」と記されており、逆に「郡」表記のものが存在しないことが明らかとなった。 古代、旭川は、現在の岡山市北区玉柏・中区祇園付近で複数の河道に分岐していた。その分岐した複数の派川およびそれによって生まれた複数のデルタ地帯の西部一帯を郡域としていた。現在の岡山市中心市街地は御野郡にあたる。 また、旭川本流は現在の流れも今より東寄りを蛇行しながら流れていた。 備前国の国府は時代によって変遷しているが、御野郡に所在していたこともあり、『和名抄』にはその旨が記載されている。 旭川の川の流れの変化や、干拓による海面の陸地化により、時代により郡域が激しく変化している。特に江戸時代に行われた吉備の穴海の大干拓事業により南部に広大な新田が開発され、郡域が大幅に広がった。 延喜式神名帳には、8社(石門別神社・尾辻神社・天神社・伊勢神社・天計神社・国神社石門別神社・尾治針名真若比女神社)が記載されている。 飛鳥~白鳳時代の評名地図 【御野郡の中の御野郷】 和名抄では以下の6郷が同郡に属している。
1878年(明治11年)7月22日、郡区町村編制法により郡役所を巌井(石井)村に置き、また岡山区が同郡より分立した。
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江戸時代までも御野郡は変わらず、岡山城は備前国御野郡にあった。 1871年 廃藩置県後も御野郡は変わらず。
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【御野郡から御津郡へ】
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