東日本大震災に思う


 今回の大震災は地震・大津波が発生したために多くの人が亡くなられ、多くの方の住む家が壊れ、流されてしまった。その上に原子力発電所で起きた事故があり発生から20日余り経過した現在もかろうじて残った家に帰れない方が多いと聞く、誠に悲惨のきわみであり、亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、被災者の皆さんに御見舞いを申しあげる。                           


  さて、翻って私達の住む岡山市南部では、地震によるなどの災害に対してどのように考え、どのように対策を立てるべきか、考え直す機会ではないかと思う。
以前にも書いたが、備前県民局が作成した昭和南海地震・安政南海地震の記録によれば、震源地のマグネチュ−ドは、8以上であるが岡山南部では、震度゛5強か、震度6弱である。ゆれより恐ろしいのは、液状化現象でこれで倒壊する家屋が多いのが過去の地震の特徴である。

 このたびの震災報道を見て感じたことを以下に綴ってみたい。

1.避難所
 @.耐震構造 私たちの住む御南学区では、避難所指定のある建物は、小学校中学校の体育館、、公民館、コミュニティハウスである。公的支援が得られるということで、大切な意味があると考えてはいるが、例えば授業が行われている昼間仮に地震が発生して、子ども達が被害にあったとして、その親が避難する体育館だけが耐震構造になっているという発想が理解できない。教室をなぜ耐震化しないのだろうか。それとも教室は充分な耐久性があるのだろうか。避難するのに体育館である必要はなく教室でも充分なのではないか。

 A.食べ物 今回の避難所での生活をテレビで見ていると、温かい食べ物が得にくい状況があった。周辺には、たくさん木質の燃料があるにも拘らず、冷たいものを食べて我慢している映像が多かった。
 避難所に釜戸、大釜、薪、鋸、鉈。マッチなどがあれば多くの人は、暖かいものが食べられたのではないだろうか。我々の避難所には、それらの用意をして欲しいと願う。この準備があれば、電気が来なくても炊き出しが出来る。
 飲み水も不足しているという映像が多かった。特に放射線の漏れ出した地域では、大変だったと思う。
 私の住む町内では、消防団の活動が立派に行われていて、河川水を浄化する設備も供えているが、今回の震災に際しての新聞報道の一つに、ペットボトルで3,4日間は水道水が保存できるという記事もあった。ペットボトルよりも大量貯蔵できる容器に蓋ののところまで水を張り、塩素濃度を10ppm程度になるように加えて密栓して置けば緊急用水として長期保存が可能なのではあるまいか。災害時にはそれを沸かして、昔のように砂濾過して飲めば、数百人規模の集落では、緊急用水として有用だと考える。この方法なら電気が来なくても動かすことが出来る。

B.寝るところ 避難所の床に敷くものもなく毛布一枚で寒さを我慢している情報が伝えられていた。
その日のうちに毛布は配布されたのだろうか、硬いいたのまで寝ると冷たいし痛いし大変だったろうと思う。梱包用の発泡ポリエチレン材を用意して置けば大分違うのではなかろうか。

C.防潮堤 宮古市田老にある防潮堤は高さが10mある。この度の津波は、この防潮堤をゆうに超え甚大な被害をもたらしてしまった。御南学区では、津波よりもむしろ、笹ケ瀬川の洪水による水害が心配されている。昭和14年に出来た堤防が現在も使われている。当時に比べると、ヘドロの堆積が進み洪水に対して弱体化している。堤防から水漏れしているところも点々とある、準備していても被害は起きる。いつもこのことを忘れずに対策を考え、洪水に備えたい。唯洪水は、津波のように突然来るのではなく必ず前兆がある。注意深く生活し、緊急時の対応について対処方法を考えておこう。
 暖房がなく寒い寒いという声も多かったように思う。何しろ外は、真冬の気候なのだから気の毒に思った。ブロックが10枚ほどと、薄い鉄板が1枚あれば、屋内で釜戸

をストーブ代わりに使うことも可能なのではあるまいか。

D.要介護者支援 もう3,4年前 久米の町内で緊急時に支援が必要な要介護支援者調査を行ったことがある。次の年岡山市が、同じ調査をされ、色々の注文やクレームがあり、其の後何もされないままになっている。災害は何時来るかも分らない。平時に緊急災害時に供えて準備をしておきたいものだ。

E.農畜産物 テレビで放映されているのをみると、洗えば殆ど無くなる線量の野菜を食べてはいけないとか、原乳の出荷停止だとか、余りに短絡的な行政の指示が我慢できない。緊急時そうでなくても被害を受けた農家が、少しでも助けになるように考えては貰えないのだろうか。チーズに加工して半減期を待つとか色々と考えれば知恵が出てくるのではないだろうか。悲しい。

      

 最後のつぶやき
 私の先祖は、4代前までは、岡山県の西北部の山間部に生活していた。家譜によると、鎌倉時代に山の天辺に住み始めたようで、今も私の親族の中には、その一帯に生活している方々がおられる。何故山の上に生活していたのかと考える。生活の糧が得やすかったのか、河川の氾濫を避けていたのか、どうしてなのかと思う。
 便利を求めて、高地から平地へと移動し、私は飛鳥時代には吉備の穴海といわれていた海を埋め立てた干拓地に生活している。わが先祖と私とどちらが豊かな生活なのだろうかと考える。

 
    文責 佐藤芳範