座主川用水


座主川用水に興味を抱いて、御野六丁樋から今保水門までを歩いたことがある。その記録は、CDとして残してある。常々私は、いつごろに座主川用水ができたのか調べたいと思っていた。
 最近北長瀬に住む坪井章さんが色々話を聞かせてくださり、その中に、大野村誌とか、真野行治さんの書かれた“矢坂界隈”とかという情報を見せていただいている。これらを拝読し、佐藤流に納得の行く判断がしたいと考え続けていたが、最近、岡山大学サイエンスカフェで池田家文庫の古地図を拝見したり、県立図書館二階郷土資料のコーナーに足を運び、県立図書館に所蔵されている備前国図を拝見して、考えが少し纏まりかけてきた。まだまだ調べなくては為らないことが沢山残っているが一度まとめておきたい。

 座主川の名称の由来としては、金山寺が天台宗であったため、天台座主に因んだ命名であるということらしい。ウエブサイトで金山寺の歴史を見ると、康治元年(1142年)に現在地に再建されており、1169年に至り栄西が護摩堂などを建て、宗派も天台宗になったとある。そして文亀元年(1501年)松田氏に改修に抵抗して、焼き払われたとある。天台宗と関連があるとすればこの頃(1169年ごろから1501年ごろまで)のことと思われる。或いは、宇喜多や池田が支配するようになって、備前国の寺社総監・備前国天台宗総管となっている。1837年〜1842年に書かれた東備郡村志にもは。その名前が出ないが、江戸時代前後には、座主川と呼ばれていたのかもしれない 
 前述のように、県立図書館二階に郷土のコーナーがある。そこに“御野郡今昔物語”著者丸山赳志郎という小冊子がある。その中に座主川用水は、西坂に至り篠ヶ瀬川には入るとあり、更に、座主川用水は、三野川或いは、小野川と呼ばれていたとある。次のページには、東備郡村志より写したと書いてある地図がありその中に小生川とも記述している。この事は、吉備の穴海と呼ばれていた頃、旭川が笹ケ瀬川へ流れ込む水路があったことを思わせ、その水路を利用して、条里制の田畑が作られていたことをも推定される。
 平成21423日 改めて県立図書館に行き、東備郡村志(出版年 1837年〜1842年の推定)を読んだ。三野川については以下の記述があった。【三野より大河を分ち整流して西坂に至りて篠ケ瀬川に入る。】この時代(江戸後期)座主川でなく三野川と言っている。座主川とも言われていたのだろうか。又、笹ケ瀬川については、【水源は、津高郡菅野村の山渓よりで吉宗横井中原を経て御野津高の界を流れ西坂村に至りて三野川に合い南して海に入長二里余】とある。しかし、小野川という言葉は出てこない。又、東備郡村志より写したとされる古地図は有ったが、川の名前は書いてなく、今昔物語を書いた丸山氏の書き入れたものであったと考える。西坂より約二里(8Km)で今保の辺りに至る。この天保年間には、まだサイホンができていなかったと考えるべきなのか。

写真:備前国絵図

この地図は、県立図書館が所蔵している、備前国絵図であり、1687年〜1961年ごろに作成されたものと推定されている。私の技術では、パソコン上に取り込むことが出来なかったので、部分的にデシカメで写して、取り込んでいる。県立図書館のご許可は得ている。
これらの絵図には、備中側は、他国であり書き込んでない。これを見ると、旭川より、笹ケ瀬川にひと筋の川が流れ込んでいる。又別に項を改めるが、野殿は、島になっている。今保は、この当時、海岸であったことがわかる。
 このほかにも1603年、1701年、1765年、1852年頃の絵図が残っていてこれらの絵図を眺めていると色々のことがわかったり創造できて楽しい。

           

 現在笹ケ瀬川は、万成の外れ(西坂)で、対岸へサイホンで渡っているものと、矢坂の分木でサイホンで対岸に渡り、更に、みのるゴルフガーデンの北側を対岸に渡るサイホンがある。この2つのサイホンも、出来上がった時期は、異なるのだろうか。前者は、大野村史(1956年)に載り、後者は、同誌によると、笹ケ瀬川に流れ込むとある。しかし現状は、矢坂にもサイホンがある。但し、矢坂の分木は、3っあり、野殿方面への取水口 サイホンへのもの 笹ケ瀬川への放水路であり、サイホンに触れていないだけの可能性が高い。サイホンは、2007年ごろ改修されているがその前のものも鉄製であったとの事で、最初のものは、木製であったように聞いた。それらから考えると3っのサイホンは略々同時期に作られたのではあるまいか。
 先に示した、備前国絵図を見ると、今保から南は、海であり、座主川用水は、笹ヶ瀬の辺り(西坂か)で、笹ケ瀬川に合流している。そして、慶長3年の国絵図でも見られるように海岸線が今保にあったことがわかる。大安寺流記資材帳(天平19=747)には、花尻、久米、今保や、北長瀬、西長瀬、田中あたりは、海であったと推定できる記述があるから、850年ほどの間に干拓が随分進んだことを示している。
 これらの絵図が現在私が見た一番古いものであるが、過日友達と話していたら、太閤検地の記録がないのかという話が出た。是非一度見てみたいと思う。

 
 座主川(或いは小野川)が、笹ケ瀬川に合流する地点を西坂としているが、現在笹ケ瀬川は、天井川であり浸水対策設備としての万成揚水ポンプ場がある。これは、この200年ほどの間に土砂の沈積があったことを示している。現在サイホンがある場所の近くに堰と用水があるかどうか調べたい。笹ケ瀬川から水を取り入れていた場所があるはずだ  

文責 佐藤芳範

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