御南の由来 -2-


 前に、御南の由来について書いた。そのときは、御南中学校ができ、そのとき初めて御南が使われたと思った。つい先だって、今村にお住まいであった佐藤勲先生が昭和24年にお書きに為った、あけゆく郷土 −岡山市西郊 − 御南4個村の曙 という小冊子を拝見した。以下、その文章を拝借して示す。

 この小冊子は、題して“南備四ヵ村の曙”とした。吾が住む御津郡今村は、大野村芳田村白石村と一致協力し“御南四ヵ村ブロック”ともいい太平洋戦争終了後新学制がしかれるや直ちに4ヵ村立御南中学校設立したこの四ヵ村こそ切離出来ぬ存在にあり、兄弟姉妹にあるものである。以下省略



 さて、 昭和24年当時、御南四ヵ村ブロックといわれていたそうですが、戦争中にブロックという敵性語が使われていたとは考えられませんので、敗戦後に使われだしたのかとも思います。いずれにしても、中学校ができるまでに既に、この地域に御南と言う言葉が使われていた事は事実です。少し調べなおす必要があります。 どなたかご教示いただければと思います。    

 さて、この小冊子には、古い昔この一帯が海であった頃、今保に島があり、貝塚があったと書いておられます。私は、貝塚の話は、別の佐藤先生のご著書で拝見していましたが、数年前に下水道工事があったとき,今保の現場で貝の地層を見ました。そして、思ったのは、あまりに広い貝殻層の広がりに、貝塚ではなく、貝殻が浜辺に打ち上げられただけなのではと思っていました。しかし先生が書かれている内容は,土器や獣骨の出土もあったとありますから、これも考え直す必要があります。出土品が今どうなっているのかも是非知りたいものです。これについてもどなたか、是非お教えくださればと思います。

 文責 佐藤芳範

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