過日、座主川用水について学区の見所などに載せた。この時、一度読んでいながら引用を忘れていた文献があったので、座主川用水 その2として紹介する。サイホン(底樋)の施工にかかわりのあることなのです。 |
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7−1 古代から流れる用水
水下の五ケ村用水 尾上村の田はどこから水を引いていたのか。それは以下の申(寛延5年力)7月の「口上」(2383)から伺える。 一、津高郡口尾上村花尻村白石村久米村今保村以上五ケ村用水、御野郡万成村悪水抜樋〆笹ケ瀬川江落シ馬屋郷井手〆尾上村江水取込五ヶ村用水ニ仕来り候処、笹ヶ瀬川砂埋り四十年余水越不申候ニ付、其節ヨリ花尻村白石村久米村今保村以上四ケ村ハ右水筋ヲ尾上村と分り備中御他領之内余水を羅(正しくは、口に羅)居申候処、近年ニ而御他領余水も無御座難儀仕申候 用水は尾上村と以南の4ケ村で「五ケ村用水」組合を作り、御野郡万成村悪水抜樋より余水を一度笹ケ瀬川へ流し、それを馬屋郷井手から取り込み使用するものであった。この口上には笹ケ瀬川が砂で埋まり余水が来なくなり、尾上以南の4ケ村は備中から余水をもらっているとある。尾上村は矢坂の悪水を分木を打ち取水していたことが分かる。 また宝暦5年の「奉窺上」(1726)では、(佐藤注:1755年) (端裏) 「宝暦五亥三月五ケ村用水筋御野郡矢坂樋〆取候村ニ披仰付候分御裁許状願上」 奉窺上 一、
津高郡口今保村久米村白石村花尻村右四ケ村用水中ニ仕御百姓中及困窮難義仕御嘆申上候所、去ル未(寛延4)(佐藤注:1751年)ノ六月井上佐平太様寺崎茂左衛門様御見分之上、御野郡矢坂之悪水抜分木ヲ打同前石樋〆馬屋之郷井手之内底樋〆尾上村江水取込、同村共先年之通五ケ村一郷被仰付水御極、尤井手之内埋所御普請毎年被仰付候取続御百姓一等難有奉存候 今保村名主 平六郎 右之通承届相違無御座候御書付頂戴可被為仰付候哉奉窺上候以上 |
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