座主川用水 その2


過日、座主川用水について学区の見所などに載せた。この時、一度読んでいながら引用を忘れていた文献があったので、座主川用水 その2として紹介する。サイホン(底樋)の施工にかかわりのあることなのです。

地域資料叢書 1  村人が語る17世紀の村

               岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書

  この報告書は、東昇氏により書かれている。東さんは、九大大学院に移る前、岡山大学に在学し、その当時、足掛け3年の現地調査を実施され。その結果をまとめられたものである。この報告書の、P25〜P29に亘り、座主川用水と5ケ村用水についての記述がある。別にそれらに関する資料も添付してある。以下原文から引用する。

7−1 古代から流れる用水

 水下の五ケ村用水

 尾上村の田はどこから水を引いていたのか。それは以下の申(寛延5年力)7月の「口上」(2383)から伺える。
(佐藤注:壬申であれば、宝暦2年=1752 申戌であれば、宝暦4年=1754年である。寛延は、3年=1750年まで、亦、伺うは正しくは、窺う)
   口上

 一、津高郡口尾上村花尻村白石村久米村今保村以上五ケ村用水、御野郡万成村悪水抜樋〆笹ケ瀬川江落シ馬屋郷井手〆尾上村江水取込五ヶ村用水ニ仕来り候処、笹ヶ瀬川砂埋り四十年余水越不申候ニ付、其節ヨリ花尻村白石村久米村今保村以上四ケ村ハ右水筋ヲ尾上村と分り備中御他領之内余水を羅(正しくは、口に羅)居申候処、近年ニ而御他領余水も無御座難儀仕申候
 一、尾上村ハ御野郡矢坂ノ余水ヲ羅(口に羅)瀬取続居申候、尤水羅(口に羅)候節者矢坂ノ悪水川分木打同村石樋門〆馬屋郷井手内ヲ通シ尾上村江取込申候(後略)

用水は尾上村と以南の4ケ村で「五ケ村用水」組合を作り、御野郡万成村悪水抜樋より余水を一度笹ケ瀬川へ流し、それを馬屋郷井手から取り込み使用するものであった。この口上には笹ケ瀬川が砂で埋まり余水が来なくなり、尾上以南の4ケ村は備中から余水をもらっているとある。尾上村は矢坂の悪水を分木を打ち取水していたことが分かる。

また宝暦5年の「奉窺上」(1726)では、(佐藤注:1755年)

(端裏)

「宝暦五亥三月五ケ村用水筋御野郡矢坂樋〆取候村ニ披仰付候分御裁許状願上」

   奉窺上

 一、 津高郡口今保村久米村白石村花尻村右四ケ村用水中ニ仕御百姓中及困窮難義仕御嘆申上候所、去ル未(寛延4)(佐藤注:1751年)ノ六月井上佐平太様寺崎茂左衛門様御見分之上、御野郡矢坂之悪水抜分木ヲ打同前石樋〆馬屋之郷井手之内底樋〆尾上村江水取込、同村共先年之通五ケ村一郷被仰付水御極、尤井手之内埋所御普請毎年被仰付候取続御百姓一等難有奉存候
一、去夏日照ニ而所之用水不自由ニ而干損所も御座候得共、御野郡井手懸り用水不自由成義無御座、尤津高五ケ村共用水取続申候、右御両所様御裁許被為仰付候御趣御書付頂戴仕度旨御百姓共奉願上候、於後々ニ何ヲ以用水筋之覚ニ可仕様無御座候、乍恐嘆ケ敷奉存候被為仰付候ハ々、五ヶ村御百姓一等難有可奉存候以上

                               今保村名主 平六郎
                               久米村
                               尾上村名主 文七郎
                               白石村   吉太夫
                               花尻村   源太夫

  右之通承届相違無御座候御書付頂戴可被為仰付候哉奉窺上候以上
                                                      大庄屋尾上村与四郎

軽部園次郎様
 先ほどの備中から取水していた以南4ケ村を、「先年之通  五ケ村一郷](五ケ村用水)にしてほしいというもので、取水方法は御野郡矢坂に悪水抜分水を打ち、矢坂石樋より馬屋之郷井年内の底樋より尾上村へ取込むとある。矢坂の分水は図10の安永31774)年の「野殿村北道繕之義大安寺村矢坂より故障申出双方得心済書付控」(2734-16)の絵図にも記載されている。                            

この「馬屋郷井手」は、寛文131673)年4月「口上之覚」(1705-1)に「一馬屋之口井手先年ハ御野郡と口津高と寄合之井手ニて両分出合関申候」とあり、馬屋口井手で御野と津高の間の水論が起こっている。「馬屋郷井手」の跡は近年残存していたが、石組が撤去されてしまった。また「馬屋之郷井手之内底樋」は享保141729)年7月「手形之事」(2389)に「一津高郡用水樋万成村後有来り之樋ニてハ用水通り不申ニ付、此度底樋願上度存候」とあり、水下の津高郡の名主中が用水がこないので底樋を作らせて欲しいと、御野郡の用水水上の津島・万成村へ送付している。先の申7月「口上」には「一五ケ村水分ケ口之義八番水ニ仕五ケ村相談之上尾上村喜四郎承届申分無之様ニ仕せ候様ニ被仰渡候此外被仰渡候義無御座候」と五ヶ村用水は御野郡の用水の余水・悪水を使用していた。水下であったので慢性的水不足であり、分水・底樋・番水を行って有効に利用していたが、時には水論が起こる状況であった。 資料の画像

さて、上に示した文書の出典がはっきりしない(引用文献に出てこない)が、1752年に書かれたと推定される口上と、1755年の奉窺上の記述を見ると、前に記述した座主川用水の中で引用した東備郡村志(出版年 1837年〜1842年)と大きく異なる点がある。それは、後者は、西阪で笹ケ瀬川に入ることになっているが、前者は、1750年代既に、万成まで続いているとしたり、矢坂まで続いているとなっていることである。地元に残る記録のほうが信頼性が高いと考えれば、1750年ごろには、座主川用水が西阪より更に下流域にまで灌漑の役目を持っていたようだ。
そして、注目すべきは、馬屋郷井手より尾上村に底樋経由で、用水を云々という記述がある。即ち、「馬屋之郷井手之内底樋」は享保141729)年7月「手形之事」(2389)に「一、津高郡用水樋万成村後有来り之樋ニテハ用水通り不申ニ付、此度底樋願上度存候」とあり、1729年から数年後には、底樋が出来たと思わせる記述がある。サイホン=底樋がいつ出来たかという疑問に答えてくれる文書を見落としていた。そして、石造り構築物で有名な、津田永忠は1707年に亡くなっているから、その後継者が築造したものと考えられる。

文責:佐藤芳範

 

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