座主川用水 慶長3年の絵図では、笹ケ瀬川の水源が旭川と読めぬこともない標記がある。この時代は、小早川氏の治世であり、地理の整備が整っていなかったのだろう。元禄13年ともなると、旭川から笹ケ瀬川に流れ込んでいるのが分る。しかし、農業用水としては、座主川のほうが価値が高かったのではと考えてしまう。
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野殿の大川 慶長3年には大きく蛇行して東にながれているが元禄期には、西側にも流れがあり島となっている。寛永9年(1669)治世が池田光正に移り、1670年ごろには、津田永忠が登用されて、やがて笹ケ瀬川改修が行われたようだから、洪水のたびに流れが変わったのであろう。明治30年の地図では、既に三日月湖の形をしている。昭和34年の修正版でも三日月湖であり、昭和40年の改修工事により、埋め立てられている。
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今保 慶長の頃も元禄の頃も今保は、海岸線に有る一種の岬である。岡山藩の藩港として運営されていた事はうなずける。其の後池田家による干拓が進み陸地が段々と南に進んでいくことになる。時代が下って、明治になると、今保の河川敷は東に広がり、笹ケ瀬川は、左岸に沿ってながれている。昭和12年から笹ケ瀬川の改修工事が始まり,:ながれも現在のように右岸近くを流れるようになったのだ。御南中学校の前の道路が、旧堤防であり、田中の旧水門が今も残っている。更に敗戦後、今保地先とされていた。廃川地が埋め立てられて、御南中学校一帯が完成した。
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