久米 蟹八幡宮


 平成21年8月の初め、北長瀬の坪井さんに久米の地名の由来を聞かれ、町内の西村さんから蟹八幡について聞いた方があった、という話を聞いた。同じ日に同じような内容のことを聞き、インターネットで、久米について調べることにした。
 Yahooで、検索していると、久米蟹八幡という記述に行き着いた。中山太郎氏の著述で日本巫女史に記載されていた。参考文献として、岡山新聞大正7年が載っていた。早速県立図書館に出かけて、新聞を捜したが所蔵されていなかった。職員の勧めもあり、久米郡史をみたが、蟹八幡には、行き当たらなかった。ついでにと思って手にした久米町史下巻にその記載があった。
 そのお宮は、現在の津山市宮尾にある八幡宮で、近年郷社といわれ、古く豊前の宇佐八幡の分霊を勧進したものであると書かれていた。明治5年までは宇佐八幡宮といわれていた。御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)のほか9柱の神様が合祀されている。
 亦、この町史には、蟹八幡についての謂れも書いてあり、以下に紹介したい。

 当八幡宮には「蟹八幡」の別名がある。何か蟹にまつわる縁起でも有りそうで 興味もあるのであるが、此の八幡の分霊を奉じて九州の宇佐八幡宮から当地に戻ってきた定平家直系の話によると、自分は先年宇佐八幡宮に詣り、分霊が宮尾村に祀られたものである点について質したところ,たしかにまちがいないことを確認したとのことである。
 さて蟹八幡であるが、自分の家で語り伝えられているところによると時代はわからないが自分の祖先は(古くは貞広と言っていた)は宇佐八幡宮の分霊をいただいて久米上村の自宅に帰りついた。宅には庭に現在もある「鈴の御前」と称する祖霊社があってこのお社に二,三日の御休憩を願ったものである。しかし、自家の祖霊社にそう長くお留り願う事は恐れ多いことなので、幸い自宅の近くの谷尻(たんじり 地名)にお森様と称する荒神様の小祠があった。このお宮は後のことであるが大正7年ごろには一間四方の拝殿もあり,神輿庫もあり、太鼓もある程度のお宮であるが、当時は規模も小さかったろうが、此の「お森様」に御神体を移し奉って、宮尾村の地に新しく八幡神社の社殿が出来上がるまで仮に「お森様」に鎮座ましましたのである。「お森様」のましますところの地名が「谷尻」と言われるように谷の端にあたり、小さな溝川も流れているので付近に蟹もいる事は居たにはちがいないが、八幡様とは何の関係もなく、「仮八幡」と称したもので、これが転化して「蟹八幡」となり、なにか蟹に関する縁起でもありそうなことになったものであろう。とのことであった。
 蟹八幡の史実はこのようなものであろうがそれとは別に蟹八幡の伝説はあるのであってそれは「伝説」のところで述べることとする。

 
 久米町史下巻856ページには、その伝説が記載されている。しかしこの伝説は、岡山市北区久米の蟹神社に伝わるものであり、町史の編集者が誤って取り上げたものと考えられる。                
これまで調べていて、私の胸になにかしっくりいかないと言うか、もっと何かがあるのではという気持ちが湧いてきた。
                  
 1.同じ久米という地名の産土神のお社が同じ蟹八幡と言われている。
 2.郷土民俗学者貝原ガ(王に我)璋さんの書かれた「鬼と小娘」では、久米からはるばる県北まで、ヒイラギの木を探しにいっている。
   二つの久米の間になにかつながりがあるのではないだろうか。
 3.二つの神社のご神体は、岡山久米は、応神天皇 久米の宮尾は、誉田別命と同一の神である。
  何故蟹八幡なのか。応神天皇・誉田別命・阿弥陀如来と、蟹とはどんなかかわりがあるのだろうかと考え出した。

 前述の中山太郎氏の日本巫女史の中でも、蟹は、古代の民族に崇拝されていた動物のひとつであると紹介されている。それは、蟹が脱殻することである。脱殻の度に新しい生命を得ると考えられてきたこと。月の満ち干きに併せて、蟹の身がやせたり太ったりする不思議さ、蟹の形状から来るものと説明している。

 岡山市北区久米にある蟹八幡の縁起として、貝原さんが書き残した伝説では、ある朝、蟹の甲羅の形の小高い丘が現れたとか、蟹が地割をした後、南の海に消えたとかが伝えられている。蟹を瑞気として示している。


 そして、応神天皇・誉田別命・阿弥陀如来と蟹との関係をweb siteで検索すると、かなりの数の関係が示されている。
例えば、以下に示す言い伝えがある。

大御饗(おほみあへ)を献る時に、その(むすめ)矢河枝比売(やかはえひめ)に大御酒盞(さかづき)を取らしめて献りき。ここに天皇、その大御酒盞を取らしめながら、御歌よみしたまはく

この蟹や いづくの蟹 百伝(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ いづくに至る 伊知遅(いちぢ)島 (み)島に(と)き 鳰鳥(みほどり)の (かづ)き息(づ)き しなだゆふ 佐佐那美道(ささなみぢ)を すくすくと 我が(い)ませばや 木幡(こはた)の道に 遇はしし嬢子(をとめ) 後方(うしろで)は 小蓼(をだて)ろかも 歯並(はなみ)は 椎菱(しひひし)なす 櫟井(いちひゐ)の 丸邇坂(わにさ)(に)を 初土(はつに)は (はだ)赤らけみ 底土(しはに)は に(ぐろき故 三栗(みつぐり)の その中つ(に)を 頭著(かぶつ)く 真火(まひ)には当てず (まよ)(が)き (こ)に書き垂れ (あ)はしし (をみな) かもがと (わ)が見し児に かくもがと (あ)が見し児に (うた)たけだに 向かひ(を)るかも い(そ)るかも

【通釈】「そこ行く蟹さん、どちらの蟹さん?」「遠い遠い、敦賀の蟹だよ」「横歩きして、どちらへお行き?」「伊知遅島、美島に着いたら、カイツブリみたいに一息ついて、楽浪(ささなみ)へ向かう道を、どんどん俺が歩いて行ったら、木幡の道で、出逢ったお嬢さん。後ろ姿はすらりとして楯のよう。歯並びは真っ白で粒揃い、椎か菱の実のよう。櫟井の丸邇坂の赤土を掘るだろ、初め出て来る土は色が赤っぽくて、底の方の土は黒っぽいので、真ん中の良い土を、頭を突くように、直火にはあてずに炙(あぶ)って、黛を作って眉を描いて、濃く切れ長に描いて、俺様とばったり出逢った美女よ。ああもしたいと思って、俺様が見たお嬢さん、こうもしたいと思って、俺様が見たお嬢さんと、いま楽しい宴の席で、向かい合っているんだよ、寄り添っているんだよ」。

【語釈】角鹿(つぬが) 今の福井県の敦賀。伊知遅(いちぢ)島・美島 不詳。鳰鳥(みほどり) 「かづき」の枕詞的修飾句。鳰鳥は「にほどり」とも。カイツブリのこと。しなだゆふ 不詳。「ささなみ」の枕詞的修飾句か。佐佐那美道 楽浪(ささなみ)へ行く道。琵琶湖の西を通る。木幡(こはた) 京都府の宇治に地名が残る。櫟井(いちひゐ) 今の奈良県天理市の櫟本(いちのもと)にあたるという。丸邇坂(わにさ) 原文は「和邇佐」。坂あるいは峠の名か。天理市に和邇の地名が残る。三栗(みつぐり) 「中」の枕詞。うたたけだに 難解。原文は「宇多多氣陀邇」。「うたた」は「うつつ」に通う語か。

【補記】古事記中巻。近江国行幸の時、応神天皇は木幡村(山城国宇治郡)で美しい少女に出逢った。名を問うと、宮主矢河枝比売(やかわえひめ)と名乗った。天皇は「明日帰って来たら、お前の家を訪ねよう」と言った。比売が家に戻って父にこの話をすると、父はその人が天皇であると察知し、家を飾って饗宴の席を設けた。翌日、天皇は約束通り矢河枝比売の家を訪問した。比売が盃を献ると、天皇はそれを受け取る前にこの歌を詠んだ、という。その後、二人は結婚し、宇治若郎子をもうけた。

 古く、蟹は、八幡様のお使いとして認められていたのではなかろうか。
 現在津山市宮尾にある八幡様にお参りし、可能ならば土地の人のお話を聴いてみたいという思いが強まってきている。
 

文責 佐藤芳範

学区の見所のメニューにもどる