比美葦原について考える


  •  笹ケ瀬川に関心を持ち、地域の歴史を勉強する中で、大安寺伽藍縁起并流記資材帳に書かれている比美葦原について関心を持った。資材帳は、747年に記録を集め作られた。この集められた記録の中に天平十六年(744年)には次のように書かれているという。即ち、【備前国 壱百伍拾町 開廿参町、未開壱百廿七町>(中略)御野郡五十町 長江葦原 東丹比真人墾田西津高堺 南海 北石木山之限(中略) 津高郡五十町 比美葦原 東堺江 西備中境 南海 北山并百姓墾田堤之限】である。これは、「吉備の中山と古代吉備」の中に薬師寺慎一氏が書かれている。
     それでは、この記述にある未開壱百廿七町の内、比美葦原の位置はどこかということを後世に推定した報告は少なく、私は、これまでに三つの記述を見たに過ぎない。一つは、薬師寺さんの著書の中で紹介されている、岡山県通史の中に永山卯三郎氏が示されているという白石村に当たるという記述である。二つ目は、佐藤勲氏が「あけゆく郷土」の中に書かれている記述であり、それには、白石と久米の境までを南限とする南北に長い地帯(図1)を示されている。最後のものは、東昇氏が「村人が語る17世紀の村」 に示されている推定図(図2)である。東さんは、大安寺流記資材帳の記述を尊重し、考証した推定をされている。その冊子の23ページに書かれている内容から、彼は、その論拠を寛永年間の検地帳と、明治20年の地籍図に拠っている。しかし、その考えに対して疑念が残る。そこで佐藤流に推測することにし、色々と考えた。その結果は、後に述べるが、永山さんの白石村(=白石の集落)を当てるのが正しいと考えるに至った。

      1. 東さんは、2つある条里制の南のひとつを比美葦原の一部としている。では葦原が耕地に変わったとき、何故50町全部でなく一部だけに条里制を敷いたのか。
    2. 流記資材帳によれば、北は山、西を備中境としている。しかし、備中備前の境は、吉備の中山の南側では、境目川である事(もっとも奈良時代に境目川がどの辺りまであったかという検証は必要と考えているが、) 備中境の北側が山だった事は、確かなのだ。東さんは、備中境が西の端であり、吉備の中山の山上を考えられていたのだろうか。葦原が山の中まであるはずがない。北側に山があったということを無視している。
    3. 百姓墾田堤を無視している。堤防の南に葦原があるとすれば、堤防沿いに用水があるはずなのだ。又、百姓が干拓したところを条里に組み入れたとは考えられない。
    4. 敢て言えば、尾上,花尻、白石が、何故集落として分かれているのか、いつごろ分けられたのかについて考えていない。これらの集落は、夫々に開拓の時期が異なり、この地域に多く示されるように用水で区切られている。と考えるのが良いのではあるまいか。
    等の点についてである。

    又、つい最近 北長瀬の坪井章さんと話した折、私が想定している地域は、奈良時代は、まだ海であったという図面を紹介していただいたが、取敢えず今回の考察の資料としては無視することとした。葦原が浅海というのは仕方がないとしても、条里制が奈良時代に既にあったと考えたいからである。その方がうまく説明が付くし、多くの先学の主張と近くなるからである。

図1

図1 佐藤勲氏推定の地   

図2

図2 東昇氏の推定 比美葦原


条里制についてweb siteを調べると次のような記述に行き当たった。

【条里集落】 条里制の下の集落は条里区画の1里すなわち36坪の耕地を経営する集落が1坪を宅地とし、これを4行8門の道をもって32に等分し、30個の宅地とし、残りの2個分を社寺地とした。その典型例として滋賀県粟太郎十李村の集落を初め、畿内の盆地の集落をあげられる。しかし十里村のような計画的集落は、理想的な集落形態であり、条里制の集落は各地方において必ずしも集落をなしていなかった。(http;//www.tabiken.com.histry/doc/j/j027L.100.HTM)より

この記述を基に考えれば、図3のような当時の条里制の姿や百姓墾田、比美葦原が浮かんでくる。そして、流記資材帳が書いている百姓墾田提の跡も、用水を境にした、尾上と花尻の境と重なってくると考えた。白石と久米の境、久米と今保の境も用水であり、当時の干拓の様子が見えてくるような気がした。笹ケ瀬川が少し、東によっていて、西の境を境目川とし、北の山を.車山古墳の有る山塊とし東を新たに考えた笹ケ瀬川西岸とすれば、南の海は自然と決まってきて、花尻と白石の境をもって当てたい。当時の笹ケ瀬川がどんな姿であったのかは分らないが、多分河口に近い海であり、大水のたびに姿を変えていたのではないかと考えている。
何しろ野殿は川の西岸の津高郡の一部だと書かれている記録もある。
1町=109m×109m これが36町集まって条里をなす。50町部を計算すると同じく図4に示した地域が比美葦原と推定される。現在の笹ケ瀬川西岸の白石分が約40町であり、10町分を東に川を動かそうと考えた。図4は、明治34年の国勢地図であり、この頃の地図には、野殿は、川の東側に為っているが、江戸初期の地図では、島に描かれていることもある、幾たびもその流れは変わっており、奈良時代の或る時期私の想定に近い形をしていたのかもしれない。少なくとも中川や砂川は、現在より東側を流れていたことが条里跡からも容易に推定できる。

図3

図3 佐藤が補足した 条里と百姓墾田

図4

図4 佐藤推定の比美葦原


文責 佐藤芳範

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