平野から延友に通ずる道路の西側、用水路に架けてある樋門のある小さな石橋を「三升橋」という。藩政時代に直ぐ南に川港(船溜り)があり、足守藩木下家・浅尾藩蒔田家の米蔵があった。ここから帆船により上方へ積出された所である。昔、馬の背に3〜4俵の米俵を載せ、足守領から3里余の道を運搬して来て、この橋まで来ると、もうすぐ御米蔵へ到着するので、運搬料(1俵に付き3升)が馬子の手に入る。そこで馬子が「3升になったわい」と言ったことから、三升橋の名が起こったという。
※三升橋付近まで船溜りが広がり、雁木や足守藩、浅尾藩の米蔵が並んでおり、大阪までの帆船用の港「井手浜」の跡である。 |
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自然石の台に高さ178cm×幅78cmの自然石に毘沙門の線彫りの碑がある。隣の自然石台上に石造祠があり、南に瓦製祠が並んでいる(七福神)。 岡豊前守が足守川の築堤をした一期工事の南端といわれている。なお、道角に小ぶりの道標があり「左 なつか王(わ) くらしき道、右 に王(わ)せ いなり道」とある。
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延友村の氏神。本堂棟札に享保五庚子(1720)とある。天正14年(1586)、岡豊前守が堤防築堤の際の出城跡と言われている。(注:高松城水攻めは1582) 本尊に「貞享(じょうきょう)四年丁卯(1687)九月廿日」と墨書あり。
古い三体の御神像は、築堤後大水で流れてきたのを祀っていたものと言われている。なお、奉納の絵馬などに「当村子供中」の名のものが多数あり、子供を大切にする地域であることが判る。
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