平成26年度 加茂健康づくりウォーク記 by三垣  
 

3月14日(土)加茂地区、高松農高、花房知行所巡りコース

 高校健児の春舞台となる選抜野球の組み合わせが昨日あり、岡山代表の理大附は千葉代表の木更津総合との対戦が決まり、キャプテンは「強豪を引く」という役割を果たせたと笑顔を見せたという。頼もしい限りだ。平成26年度の我われの活動もきょうで最後になる。6時の起床の時点では静かに降っていた雨も、幸にも8時過ぎには曇り空ながら止んだ。行く途中の足守川の川原には、珍しく上陸した鴨が忙しげに何かを啄ばんで群れている。

 8時半、公民館に23名の者が集合。例の如く準備体操の後、コース確認をして出発。
  

→公民館を出て、
岩崎用水沿いの市道を南下する。100メートル程進んで左折し、西門から農高の校庭内に入る。学校園の中の道を東進する。畜舎の周りには散布された石灰の紛痕が目に付く。鳥インフルエンザ被害予防の跡であろう。創立100周年を記念して建てられたグリン色の瀟洒な屋根の同窓会館に着く。更に東進して、近代建築の文化財に指定されている旧堆肥舎に出る。現在は、学校資料の保管・農機具の展示などに使われている資料館である。明治42年に建てられ、創立80周年の記念事業で茅葺の屋根に葺き替え内部を改修したという。フランス積みというレンガ造といい、漆喰仕上げの壁といい、堆肥舎というイメージとはかけ離れて華麗な姿に見える。入口のガラス戸から数名の者が内部を覗く。建物の横には大形の水車が併設展示されている。周辺一体は農高の記念物の敷地となっている。大正6年、昭和5年、昭和23年と変遷した校歌の3歌碑や創立90周年記念の翼を立てた造形の「翔け若人よ」の碑などがあるのを見て通る。
  

  

→本館近くの一角に創立
80周年記念に際して卒業生の藤田晴海氏の寄贈による花崗岩の青雲の碑が建っている。「青雲」とは「青年が希望をもって将来に向けて雄雄しく伸びて行くように」という意味だと聴く。正門側に廻ると塔頂に鷹の像を掲げる方錐の行幸記念碑が建っている。この碑は終戦時には解体され校外に保管されていたが、昭和33年に現在地に復元されたものだそうだ。ちょうど挨拶に出てこられた教頭先生から説明を受ける。この玄関前のシンボル塔を背に記念写真を撮る。そして、両側が樹木園になっている正門への道を通って郊外に出る。
 
        

地蔵院前から原古才筋を東進して、旧花房高松知行所管内を行く。東門があった所から旧馬場道に入り、陣屋址に着く。広大な陣屋址の空き地に祀られている2社の稲荷宮を見て陣屋内を横断する。農高との境の小道を通って岩崎用水に架かる小橋を渡って南下し、三本木町内にはいる。花房分家の津寺知行所の在所範囲は定かでないが、運よく代官所跡の地目名の田圃の所有者・F氏が菜園作業をされているのに出くわし、その概略を聞くことができた。僅か百数十年の経過でも、はきりとした記録がないと史実が分からないものが多いなとつくづく思う。



  


→帰路につく。年度替りの道路工事が進んでいる道を工事業者の人に断りながら通り抜けて行く。長田町内に入って
950分、にわか雨にも遭うこともなく公民館に帰り着く。予定通り10時から、年度末総会を公民館の一室を借りて開く。歩数、5,500歩余り。
 

 来年度に向けての協議会も会員の協力により、限られた時間内で新しい年度計画を作成することができた。長年続けると同じところより新しい土地の見聞を広めたい気持ちにならざるを得ない。来年度は少々遠隔地が多くなったが、会員各自が健康を目指して頑張って何らかの成果を上げることができればと思う。



27日 最上稲荷・奥の院、竜泉寺コース

 中東の過激派「イスラム国」のテロ行為や和歌山県での小学生殺害の痛ましい事件等が続発する穏やかならざる世情ではあるが、立春を迎えてから何処となく春らしい気配を感ずるようになった。「きょうの瀬戸内は、午前中は全般に晴れ、午後は雲が広がるだろう。気温は9度から10度くらい。」との予報。昨年ほどの暖かさではないが、薄手のジャンパーを重ね着して家を出る。 集合場所の高松城址駐車場に着くと、昨年同様ボランティアの人達が懸命に早朝の清掃活動に励んでおられる。ふと「<そうじ>は創自なり」と言っておられた矢掛「大通禅寺」の和尚さんの言葉を思い出しながらも、奉仕の精神には頭が下がる。作業を終えて帰る人の中に市議会議員のH氏の姿もあった。

 9時、23名が集合。準備体操の後、コース確認をして出発。


→駐車場を出て和井元・平山の地から流れる天井川に沿って北上。文英石仏と僧文英が住職としていた
福成寺跡を経て、平山の団地中を抜ける慕田道に入る。団地の家並みがきれた所から足を止めて南東の方角にふり返り、枯れ草に蔽われた二段築成の円墳妙義山古墳を望む。尾根道を進んで、いつものように宮谷小池の堤道の先を折れ裏道から「お稲荷さん」の境内に出る。先日執り行なわれた「豆まき」の桟敷は跡形もなかった。暫らく本殿・霊光殿前で休息の時間をとる。岡山大学からマラソンで参拝したという体育部員30名ばかりが大会参加の祈願だろうか、ちょうど本殿での祈祷を受けに参殿しているのを見かける。


→鐘楼横の石段から
霊応殿前に上がり、高松城水攻めの戦禍で荒れていた霊跡を旗本花房公が復興したことに触れる。本殿の左右に第十四代花房職補(もとみつ)公寄進の灯篭もある。


→奥の院に向う登山道に入る。ケーブル跡の石段から左右に曲がりながら上へ上へと息を弾ませながら進む。「八畳岩へ」の標識から道を折れ一旦は上ってやがて下り、先ず報恩大師が孝謙天皇の病気平癒を祈願された
岩窟前に降りる。大師の姿を想像しながら窟内を覗くが凡庸には薄暗くてはっきり見えない。八畳岩の上に廻ると眼下に高松城址を中心に広い範囲が靄がかりながらはっきりと見渡せる。思わず感嘆の声を出す。


→再び参道に出て急坂を登る。家族ずれの下山客に会う。若い仲間は話し合いしながら軽やかに進むが、年々登坂の厳しさを感ずる。やっと
ケーブルの終点広場跡について休憩。セーターを脱いでリュックに詰める。全員の回復を待って出発。参道左右に立つ題目石の銘文を追いながら奥の院境内に入る。例年より少し遅れた時刻になっているので、本殿参拝もそこそこに、鐘楼に上がる道から山上の林立する題目石群道を貫って車道に出る。下りのこの坂道は、いつもながら軽快に足が運ぶ。談笑の愉悦を覚える坂か。瞬く間に市道に出る。


竜王池入口のゲートをくぐって池畔の道を巡って進む。イノシシの荒らした跡が随所に続く。気温も上がり山上の冷気も心地よい。真新しいあずまやの前を過ぎて横道から竜泉寺境内に入る。拝殿の屋根瓦の細工を仰ぎ、唐破風と神殿式の重層の権現造りに改めて惹かれる。参拝をして寺務所に来訪の挨拶に向う。「休憩所」に通され接待を受ける。毎年ここでの休息を楽しみにして、この難路コースを続けることができている。早速弁当を開き昼食を摂る。食後は来年度の候補地のアンケートを提出してもらう。


1245分、休憩所を出て「御滝」の竜口から落ちる流水をバックに写真を撮らせてもらう。撮影後帰路につく。例年通りユルギ岩太閤腰掛岩紅葉坂を経て、「竜泉寺の自然を守る会」の保存の標識案内を見ながらサギソウ湿地の前を通り、大宝塔身代わり地蔵尊鯉岩地蔵尊群こいいわ湿地等を経て門柱の立つ出口から登山道に通ずる坂道を下る。気温も上がり、杖をもつ手には手袋はない。軽やかな足取りで話も弾む。一気に下り正面参道との交差地点に到達。暫らく休息。


→ケーブル跡の急峻な石段に気を配りながら下りる。道を左にとって
稲荷荒行堂境内に入る。後続の人を待って坂道を下り、途中から左に折れ坂道を上り展望台広場へと出る。広場入口に「秀吉本陣跡」の新しい石碑が建っている。以前、ここは信長の四男「秀勝の陣所跡」と聞いていた所。自分の記憶の不確かさを悔いる。広場の中央に立つ日蓮上人像は、昨年夏、ベンガラの再塗装がなされていて法華経流布の風貌が一段と映えて見える。八畳岩より近距離だけに城址周辺がはっきりと見渡せる。


→坂道を下って宗治信奉の
妙見堂に寄る。ここにも新しい説明案内板が立てられている。更に下って稲荷山妙教寺の山門をくぐる。トイレ休憩を兼ね本堂や境内の諸仏・イチョウの巨木をたずねて廻る。


→帰路の道順を確認して、境内を出る。参道の改修された
仁王門には耳を立てた白弧と金色の仁王様が参拝客に目を光らせている。参拝客の少ない仲店は静寂な佇まいで少し寂しい。西池池畔に出て西廻りに南下する。平山神社を過ぎると、高松城址の松林が見えてくる。自転車道に合流し、新しく舗装拡張された農道を西進。三宝荒神社の横を通って城址駐車場に無事帰着。全員の集合を待って、来月の予定確認の後、3時ちょうどに解散。歩数22,000歩余り。



 このコースは、我々にとっては最大の難関コース。しかし、いつも天助もあって気持ちよいウオークを楽しむことができている。解散時の意見では、全員が来年度も実施コースにしていいと言う。

身の締まる厳しい体験経ると、物事を完遂した歓びがいっそう充実するのだろう。貴重な一日を過ごせたことになったようだ。





 

110日 吉備津神社コース(定番)

 新年の平穏と健勝を祈念したいところだが、朝刊1面トップに、7日に起きた仏週刊新聞社銃撃事件の容疑者が「パリ郊外で立てこもり」をしていることを報じていて寒心この上ない。しかし、きょうは吉備津神社では「十日えびす」のお祭りの日。そして、小寒に入って五日目だが平年並みの気温(9℃)で、「中国山地沿いは雪か雨になるかもしれないが、瀬戸内沿岸は晴れ」の予報。明け方の空は快晴で、寒中にしては絶好の平穏なウオーク日和を迎える。

 午前9時、加茂小学校校庭に20名のものが集合。準備体操の後コースを確認して出発。


→校門を出て一路東進して国道
180号を渡り吉備津地区に入り、板倉川沿いに南下して板倉の町筋を通って吉備津神社の参道筋に出て、再び180号の交差点を渡り松並木の参道を直進して駐車場に着く。 早々「えびす祭」の大型の福箕を担いでいる人を見かける。


→トイレ休憩の後、打合わせで神社境内でのコース・集合時刻を確認して自由行動に移る。
手洗い舎で身を清め、石段を上り北隋神門をくぐり拝殿前に進む。元日の雑踏ではないが参拝者の脇を掻き分けて賽銭箱に小銭を投じて手を合わせる。お札の授与舎・御神籤堂の前から本殿横手の広場に廻る。会社の団参の一団が三々五々談笑しながら祈祷の順番を待っている。本殿の横亀腹には例年の如く「開運招福」の大絵馬が建てられていて、参拝者が絵馬を背に記念写真を写している。


→本殿裏から学問・芸能の神
一童社にあがり手を合わせ、石段を降りてえびす宮前に出て、社殿前の石段を上がり拝殿に額ずく。千田組の献酒を枡に汲みご相伴になる。社殿前の広場にはテント張りの仮設の授与舎があり。えびすばやし「商売繁盛で笹もて来い」の呼び声に迎えられて、列を成してお札や縁起物の吉兆笹を授かっている。石段を降り回廊を廻り、お竈殿の前に出る。殿内では巫女さんが三名ばかりの祈願者に応接をされていた。時刻を気にしながら催広場に向う。そこには例年の如く植木市と金物店や衣類店の屋台が立ち、会員の姿があちこちに見かけられる。そして広場の南側には「奉納備中神楽」の舞台が設けられ、数十名の観客や取材のカメラが待機している。しばらく広場を巡って、記念写真の撮影場所を探す。「十日えびす祭」の雰囲気を出すため「えびす宮」をバックにしたかったが、広場からでは不可能に気づき、約束の時刻1030分も迫り、急遽神楽の舞台をバックに撮ることに決める。神楽も10時半開演らしく太鼓の音とともに「猿田彦の舞」がはじまる。参拝の若者にシャターを切って貰う。


→神楽の太鼓の音を背に西入口の鳥居を通って、「神池」の小橋を渡って
宇賀神社に参拝。ここは「備中一の古社稲荷」といわれる。対岸に架かる蓬莱橋を渡って普賢院境内に入る。寂厳和尚が修行されたお寺としても有名であるが、頼山陽筆になる戒壇石や屏風その他の文化財が多数寺宝として残されている。仁王門を通って市道に出る。岡田屋熊二郎邸跡から西進して藤井高尚旧宅跡に寄る。入口が鎖で閉ざされているので、「松の屋」の話などで瞥見に終わる。


→市道を北にとって旧参道「鯉山小」前の往来」に出て
栄西禅師生誕地に着く。昨年は800年の遠忌を迎える整備が京都の庭匠によって進められていたが、茶碗形の石碑も磨かれ、二段の石の壇上の中央に栄西を象徴する原石の石碑がたち、前面に白い砂利が敷かれ、竹編みの塀沿いに吾妻屋調の資料置が設けてあり、パンフレット等を置いて来訪者の案内を図っている。吉備津参道の松並木が借景として映る。しばらく聖地を探勝して近くの妹尾太郎兼康の供養塔地に入る。立石囲いの塔地の石段を上がって驚く。何年も見慣れてきた供養塔は二基が真新しく据え替えられている。昨年春以降に陶山道勝氏古縁の人が先祖を慮って祀り直したのであろう。太郎兼康の「十二ケ郷用水」事業の偉業を思うとき地域の者達はその恩恵を肝に銘ずるべきだろうが、この早替わりには頭が混乱する。


→往来に出て国道
180号線を渡り板倉川沿いに旧山陽道筋に出て町筋を西進して行くと、整然と東進する百名ばかりの「市民ウオーク」の列に遭う。挨拶代わりに声をかける。西進を続けて板倉宿本陣跡(鯉山コミュニティハウス)に着く。吉備津宿の本陣は寛文・延宝年間に宮内からこの地に移されたと伝えられている。コミュニティハウスの玄関に掲示してある「江戸時代の板倉宿場図」を見て、往時の板倉宿場の様子を知り関心を深める。


→真金十字路に出て国道
180号沿いに北進して東加茂の交差点を横断して加茂地内に入る。年末から始まった道路の拡張工事も正月の通行を考慮してか工事中止の貼紙を掲げている。対抗する車が普段と違って次々に続く。1145分無事小学校に帰着。次回及び年度末の予定を連絡して解散。歩数12,530余歩。

 新年早々世界中がフランスのテロ事件等の突発する政情不安に襲われているが、初詣を兼ねての恒例の我がウオークでは、幸い温暖な天候に恵まれ予定通りのコース運びができたと思う。この先高齢の駄馬に鞭打ちながら、健康・安全で他と協力する一年を送るべく努力することを心掛けたい。



 
 

126日(土) 造山、黒住コース

 日本列島が冬型の気圧配置に覆われ、「中国山地沿いでは雪が降るところもあるが、瀬戸内沿岸部はおおむね晴れ、昼間の気温は7度から8度の真冬並の寒さ」との予報。防寒の衣装をまとう。

 午前9時造山古墳駐車場に24名のものが集合。厳しい天候と常道コースのため参加者が少ないのではないかと心配もしたが、好成績の参加者で内心ホッとする。例によって準備体操の後コースを確認して出発。

→希望者は蘇生会発行の「造山古墳ガイドマップ」を手に後円部への近道を進む。途中最近新聞紙上で紹介されていた
「吹きガラス三垣工房」に立ち寄る。あいにく工房主の正太郎さんは倉敷市のアイビースクエアーの展示会場に出張とのこと、折角だからと父親の千秋氏が工房内を案内して製作工程の概略を紹介してくださる。片隅の棚に陳列しある「吹きガラス」作品の変幻自在さに魅せられる。

→工房を後に
後円部への細道を登る。ロープを頼って墳頂部に上がる。北東の突先に出て高松城址方面を伺うと、稲荷の大鳥居や城址の森影がくっきりと陽光に映えて見える。今回の記念写真をここで庚申山をバックに撮ることにする。撮影後、後円部を一周して新庄沖の耕地整理や新庄車塚古墳を話題にして頂部を下りる。

前方部に祀られている三宝荒神社の境内に出て、刳り抜き式阿蘇凝灰岩の石棺にまみえる。長さ193cm、巾75cm、深さ58cmと記録にある。荒神社裏手の杉の木の根元に無造作に石棺の蓋の遺物が置かれている。内部のベンガラ朱や微かに見届けられる直弧文の線刻を覗き、神社の石垣に使われている蓋の破片を探る。

→古墳の稜線に沿って下ると、ここにも葺石が草叢から露出して見える。古墳の端に出て
二号墳の前に立つ。遊歩道拡張中の平成9年に発見された埴輪列について話題にする。当時の現地説明会の様子を今でもはっきり思い出せる。その時私有地で調査未実施の所を新たに調べることはできないのかと切に思う。ゆるい登り道を通って一号墳に廻り、下草を分けて墳頂に上がる。盗掘に遭った後の窪みに水が溜まっている。この古墳から出土されたといわれる「馬形帯鈎」について話す。

→墳丘から道なき斜面を下って遊歩道に出る。三号墳、四号墳に廻らずに、
五号墳・千足装飾古墳に上る。墳丘には調査継続中の覆い屋が建ち、ブルーシートが敷かれたままになっているが、案内板のある後円部に廻り、「発掘調査概要報告書」の記述を基に現況を紹介する。そして岡山市文化財課の取組みの「築造期の古墳復元」事業の成功を祈念しながら後円部を下る。

→旧山陽道に出て六号墳には廻らず、千足町内を東進して江田町内との境界に立つ「庚申道と毘沙門道」を指す
道しるべに寄る。十数年前にはかなりの人々がこの毘沙門道を辿って日差山の毘沙門様に参拝をしていたが、車で参拝できる迂回道の利用者が多くなり、今は参拝道が荒れて通行が困難になっている話が出る。

→途中の「コンビニ」に寄ってトイレ休憩をとり、県道真金清音線に出て東進。峠を超えて左折し黒住町内に入る。車の通行もなく、地域町内の話題に花を咲かせながら南面した温暖な町内の佇まいを愛でながら足取り軽く
甫崎天満宮に着く。手摺のある整備された約70段の石段を上り、拝殿から鐘楼を経て裏手の本殿横の境内に廻る。休憩を取りながら、高速自動車道建設により移築された時の「記念碑」や「六角塔石」を読む。

→参道を下り足守土手道に上がる。高速道の橋脚の下を向場に向けて山際の道を西に進む。いわゆる穏地で日当たりはなく今朝の冷たさが身を襲うが、暖機運転をしている体にはそれほどには感じなくなっている。雑談をしながら造山駐車場を目指す。時間の都合で途中の西平先生の工房前では、昨年のご好意を思い出しながらも無礼通過になってしまう。
11時半無事帰着。市保健管理化推進の「健幸ポイントプロジェクト」の話や、次回のコース・日程を確認して散会。歩数9,520歩余。


 今年一番の寒気に見舞われた日和ではあったが、参加者は昨年を上回り満足できる成果があったものと思う。同じコースを辿るとなると新鮮味が薄らぐ難点がある。マラソンともなると記録の更新を目指す自己目標が設定でき、覚悟ができる。ウオークの場合は、同じコースであれば「健康増進」「良識の拡充」「親睦向上」のささやかな価値を求めながら「継続は力なり」の信念に委ねるしかないのかなと思う。参加してもらえる会員に感謝しながら次回を期待したい。



 

117日(金) 瀬戸内市餘慶寺コース

 暦の上では「立冬」のきょうではあるが、三四日前からの好天続きに恵まれ、日本列島の南岸を北上している台風20号は全く影響ない快晴の絶好のウオーク日和になる。

 午前9時高松駅集合。体操の後、922分発の電車に乗り、岡山駅で赤穂線954分の電車に乗りかえ1015西大寺駅に着く。構内のトイレで用をすませて、駅前に出る。通勤通学の時間帯を過ぎているために、駅前の広場は閑散としている。

→県道24号線を東に向って進む。沿道には新しい大型の店舗が並んでいる。安定所前の交差点から右側の歩道に移り、緩やかな上り坂を進んで雄川橋に出る。前方の山上には目指す余慶寺の三重塔が遠望できる。足もとには吉井川の豊かな流が映る。「さすが県下の三大河川。大きいなー」の声。橋を渡り終え、道を射越橋の交差点から東に向け県道69号に出る。三叉路の標識には「竹下夢路生誕の地7km」の文字がある。道は余慶寺のある山塊の麓に沿うが、参道入口は南にあるので大きく迂回して進むしかない。南下する途中から市道に入り、県道226号線に移り参道入口に着く。

→お寺の参道にしては道幅がかなり広い。生活道路としても使われているのであろう。坂道を下ってくる車に出くわす。道路拡張のために削られた崖面には、灌木の紅葉が続き目を楽しませてくれ、3km余り歩いた足には活力になる。ゆるやかに蛇行する坂道の旧参道らしき所に「遊歩道入口」の標識がある。そう言えば一時荒れていたこの「上寺の森」は、地域の人達が「絆の森」として大切に管理していると聞く。

→木立が途切れた所に出ると、下手近くに旧参道の隋神門がみえるが、今は参門としては使われてないのでやや寂しい気もする。一同しばらく佇んで遠目に見る。向きを変え前方を見ると、広々とした境内に林立する堂塔伽藍が神聖な感覚で目に入る。惹きつけられるように境内に入ると、視界が開け西大寺の市街が眼下にパノラマのように拡がって見える。大型の「境内案内」板の前に立ち、全山の聖地を概観する。

→納経所余慶寺会館に行き、訳を話してビデオを視聴させてもらう。報恩大師のご開山の天台宗のこの寺は1250年以上の歴史があり、本堂、薬師堂等々の堂宇に加え、塔頭6院があり、指定文化財も数多く、年間数々の祭礼が営まれていることなどを知る。館内には、朱印帳・お守り・掛け軸等も売られており、朱印納経の仕事をされている寺職の方が交代で務められている。

→時刻も正午近くになり、地蔵堂前のベンチを借りて昼食を摂ることにする。温暖で快晴に恵まれ、静かなたたずまいの中で歓談しながらの食事は幸せに尽きる。

→食後は約1時間かけて、個々のペースで境内を散策しながら見学することにする。先ず、先ほど会館詰所で頂いた「境内案内」のパンフレットを見ながら、寺域諸仏の概略を確認する。

→広場そばで屋根に唐破風のある袴腰の鐘楼に行き、後ろ側まで廻ってみる。梵鐘は県指定文化財で、宇喜多秀家が九州での戦で持ち帰り寄進したものだと伝わっている。楼上に上がることはできない。

本堂に廻り参拝する。かつて、中国三十三観音巡拝で来た時の記憶は全く薄れていて、様子は思い出せない。室町時代の建物で国指定重文。正面の唐破風の屋根は後補らしい。本堂には像高167.8cmの聖観音菩薩像が奉られている。廊下の床を踏むとその古さが伝わってくる。

八角堂の格天井には真新しい寄進の「花の天井絵」があり、志納金一枚15万円とある。つづいて十三仏堂に参る。階段を下り地階にあたるところに、石造の十三仏が左右に分けられて奉られている。

「阿閦如来」の像の前で、お互い「阿閦」(あしゅく)の文字が読めなくて「分からんなー」と口惜しがる。

→江戸後期の建築である総高22mの三重塔を仰ぎ見ながら、その奥にある薬師堂に上がる。賽銭箱の上の天井から滑車に吊るされた大きな数珠の輪があり、数珠を引くと「カチカチ」と音を出して珠が落ちてくる仕掛けになっている。あたかも神社で拍手を鳴らすのと同じだ。「百八個あるのだろうか」と探求心旺盛な二人が数えてみたが、二人とも九十数個にしか数えられないので頭をひねる。堂内に祀られている薬師如来坐像は、国指定重文であるが、薄暗くてお姿が判然としない。

→堂前に並び立つ作庭家岩本俊男氏の石組に見惚れながら、神仏習合の豊原北島神社の鳥居をくぐって拝殿に詣でる。鰐口を鳴らし、二礼二拍手一礼をする。先日の大社参拝の「二礼四拍手一礼」を思い出す。境内の参道脇に国指定重文「五色威甲冑」の標柱が目に止まったが、このことはどのパンフレットにも記載されてない。

→いずれかの塔頭に参詣したくて、「圓乗院」、「定光院」と巡るが、入口が閉ざされていて入ることができない。更に坂を下って恵亮院を訪れる。門をくぐって本堂前の庭に入らせてもらう。大きな石の手水鉢が据えてある。園芸の行き届いた庭に見惚れ庭木の剪定のことなど話し合う。庫裏を叩いて、住職に疑問であった「阿閦如来」のことや「数珠の数」について教えてもらう。

→見学の時間もなくなったので元の広場に戻り、記念写真の撮影場所を相談する。三重塔をバックに並んで写真を撮る。

→撮影の後、会館内の女性の職員に礼を告げて、大富駅を目指して下山。下りは足取りが軽く、鈴なりの柿に冗談を飛ばしながら、難なく今城幼稚園脇につく。校門脇の電柱に「海抜1.6m」の告示標識板がたっている。想定される地震津波の警告板であろう。つづく今城小学校の校庭の金網の塀には、案山子十数体が並べて懸けてある。

1407の電車に間に合いそうなので急ぐ。大富駅は無人駅であるが、先頭が駅に着いた所で電車は入構。諦めかけていると、電車の運転手が我われを見かけて親切にも電車を停めて待っていてくれる。後尾のものを大声で呼んで車内に飛び込む。

1432岡山駅に着き、1453の吉備線の電車に乗り、1513高松駅に帰着。予定していた1531より1電車早く着くことができた。歩数14,687歩。

 山陽新聞社刊行の「吉備の国寺社めぐり」には、「一山寺院と神仏習合、県下屈指の大伽藍」と記されているが、上寺山餘慶寺へのウオークは、快晴温暖に恵まれ所期の成果を得た。天台宗の教に「一隅を照らす」とあるが、「本当の心の豊かさ」を求める姿にあらためて共感を覚える。


 
 

104日(土) 鬼ノ城コース

 御嶽山噴火から1週間。戦後最悪の火山災害で、いまだに行方不明者が16名を上回るだろうと報じられている。此のところ日本全土で種々の自然の脅威に晒される事象が頻発している。人類としてはこれらの災害から学びながら、防災の術を編み出さなければならないのだろう。
 南海上襲来の台風18号の影響で風はあるものの秋晴れの好天。午前830分鬼ノ城駐車場では肌寒い気温。新鮮な山の空気を一杯に吸いながら参加者22名(内小学生1名)がラジオ体操をすると、居合わせたよその登山者も参加してくれる。きょうのコース予定を確認して出発。

9時の開館を待ってビジターセンター内を見学。15分ばかりをかけてビデオの視聴をしたり、展示物の説明を読んで、予備知識を得たところで登山に移る。

→整備された登山道の道端には、竹杖がたくさん備えられており、その恩恵を受けるものもあり、来訪者に対する総社市民の手厚さを感ずる。

→板橋道を通って
学習広場に出ると、眺望が開けて吉備の山野がまばゆいばかりに映る。暫し眺望を楽しむ。遠方に連なる山々を名指して歓声が連発。

→来た道を引き返して頂上を目指す。背負ったリュックの重さで体が温まってくる。
角楼の直下を過ぎて西門に出る。年々風格が出て周りの風景にマッチしてきたようだ。三階に設けられた楯の意匠について資料に記述されていることを紹介する。

→門外に出て露出した
版築の土塁を見る。見学用の木製の階段を上って、城壁の上部に出る。雨水によって崩れるのを防ぐための敷石の道を進む。築城に携わった人達の知恵と労力に感動の声頻り。

→進んで
高石垣の所に出ると眺望がすばらしい。眼下に山並みが伸びる。「鬼ノ城ゴルフ場は」、「国際ゴルフ場は」などの声あり。→水門の所に来て、水門口の見える崖下に降りる。石垣の高いところにある水門口に納得の声あり。

南門を過ぎ再び高石垣に出る。大きな垣石の先端に立って、周りをはらはらさせる者が出る。第三水門を過ぎ、磨崖の千手観音菩薩像前に着く。以前より像前が広く整備されているたように思う。朝日を受ける荘厳な姿が拝めるのだろう。

→突出した高石垣で眺望を楽しんだ後、山の中に迷い込んだかに思える道をゆくと、真向かいに
屏風折れの石垣が見えてくる。石垣上の広場の岩に分かれて腰掛け、水筒で口を潤し休息をとる。持参の望遠鏡を覗く者、歓談をする者、眺望に興ずる者、と暫しの安らぎに浸る。

1045分再出発。来た道を折り返し、鬼ノ城山の中央突破の道を行く。鍛冶工房跡を訪ねるべく小屋建物を見かけて立ち寄るが、新設の展望休憩小屋と分かって失望する。後で気付いたことだが、来る時うっかり東門や工房跡が見える道を通らず違えて進んだようだ。残念ながら何回も来ておりながら不覚を取ってしまう。

→城中で一番「広い沢」に出る。湿地にはびっしりと青草が生い茂っているが、つい無知の目で足早に過ぎる。

→上り勾配の坂道を折れ、
礎石建物群の標識板前に出る。全員が集まった所で礎石建物の概略を告げる。礎石の上に立って「高床倉庫」が建っていた当時のことを想像しながら建造作業のきびしい労動を話し合う。

→そこからもと来た道に出て、左上手の
管理棟建物跡に入る。新設の案内板を読み見学。

→道を登って外周道に出て、北に向け下りの坂道を進み
北門に着く。門を望むと、道からでも門道に「暗渠排水溝」が口を開けているのが目に付く。城内側から城外側へ向って進むと門扉の角柱の穴が目に止まる。前方に目を向けると、真向かいに犬墓山の頂上が高い位置に見える。案内板が岩屋に通ずる道を指している。

→城壁跡の道を折り返し、しばらく進み、もとの遊歩道を通って、鬼ノ城山
第一展望台に着く。周辺は草が刈られ、点々と時期はずれのワラビの群生が広がっている。展望台内部の壁面の写真パネルを頼りに遠くの山並みを眺望する。「讃岐富士」の方角を辿るが今日の天気では見届けない。ちょうど予定通りの時刻になり、昼食を摂ることにする。気温も上がり、建物の陰に敷物を広げてグループで会食歓談。

→食事を終えたところで
角楼に下り、西門をバックに記念写真を撮る。

→下山に移る。比較的ゆったりとしたペースのウオークで終わりを迎えたので、最後まで皆の足取りが軽い。正午過ぎビジターセンターに帰着。次回の予定を確認し解散。館長に挨拶をして帰路につく。歩数
9780余歩。

 年当初の計画では、「岩屋・犬墓山」を回ってから鬼ノ城を一周することにしていたが、4年前に実施した時より、会員が高齢化してきていることを考慮に入れて、今回は急遽、前半の「岩屋・犬墓山」めぐりを割愛し、時間を短縮し安全を図った。そのため、起伏のある道ながら、山中の道をお互いに談笑を交わしながらの余裕のあるウオークができた。出会った登山客は、数人連れで概して若者が多かったが、この山は錦秋の頃ともなればずっと賑うことだろう。楽しかったウオークの一日をふり返り、これから益々健康市民の多からん事を願う。

 
 


 

9月6日(土) 津山方面

昨日、
17日間続いた「広島市の大規模豪雨土砂災害」の救助隊が解隊式を終えたと新聞が報
じていた。天候も落ち着いて秋の気配が感じられてきた。

 朝
5時、ラジオの「現在、津山線は落石事故のため一時運休」のニュースを聞いて大慌て、駅の案内所の諸管轄に電話をするが応答が得られない。時間が経過するので、仕方なく急ぎ朝食をとる。毎朝、4種類の目薬の点滴などで、1時間近く時間をかけている自分には、難行大慌て。

7時前に高松駅に飛び込み駅員に聞くと、津山線は平常通りの運行とのこと。一先ず胸を撫で下ろす。やがて、「事故」のことは知らず、次々に遠出の旅立ちを期待する笑顔で、会員が集まってくる。 

集合7:20、参加者22名(途中乗車2名、計24名)。準備体操割愛して、1番ホームに出る。

:42乗車、岡山駅8:04着。9番ホームの津山線8:07発の電車に乗りかえる。通勤通学時刻の電車のため法界院駅までは満席。多数の乗客が降りて車内はガラガラ。分散していた会員同士が呼び合い隣り合わせで1時間半ほどの電車の旅を楽しむ。「落石事故」は、何も無かったように鈍行電車は行く。このところ気ぜわしい日常に追い立てられているので、山あいの民家や稲穂の続く風景には気持ちが癒される。かつて津山までは、車で国道53号線を走っていた身には、周りの風景が目新しいことばかりに感ぜられる。電車が誕生寺の傍を通過した時、初めてこんな近くを走っていたのかと気付く始末。左右に揺れながらゆっくり進むディーゼルカーは、9:37無事終着津山駅に着く。地下道を通って改札口を出る。 駅前で「津山観光ボランティアガイド」の末澤氏の出迎えを受ける。挨拶、出発準備完了。

9:40頃からウオーク始動。駅前から吉井川に架かる「今津屋橋」を渡って北上。電柱の無い市道「鶴山通り」は見通しがよく、なだらかな登りの歩道を進む。外堀跡などの説明を受けながら「城北通り」を横断して「美作高校」の横を通ると、路下に校庭が見え数点の掲示ボードが建てられ、生徒の歓声から「文化祭」の準備をしているのが窺がわれた。10時過ぎ衆楽園表門前に着く。案内板の前でこのの説明を聞く。二代藩主森長継公が仙洞御所を模して、明暦3年(1657)造営した池泉回遊式大名庭園で、後楽園よりも古いとのこと。

→説明を聞いた後、園内に入る。池には今を盛りにスイレンが可憐な花をつけて競うように大葉の身を広げている。池と反対側の通路沿いには、北アメリカ産の三葉の「大王松」の巨木が聳えている。地面に落ちている松葉を拾い上げてみると長さは
15cm余りもある。 園内一巡ではあるが、「衆楽茶屋」前のベンチに腰掛けて、しばらく休憩をとりながら「余芳閣」、「迎賓館」等の説明を聞く。

→「山口誓子の句碑」、「滝」、「曲水の流れ」、「霧島」、「中島」、「風月軒」、「蓬莱島」等の説明を受け、「紅葉島」に渡る。「皇太子(大正天皇)お手植えの松」の碑が建っているが、100年以上経った今では松は見上げる高さに聳えている。島を横断して先刻来た道に出る。三葉の松葉を拾い、「糸桜の春」の再来を想いながら園外に出る。

→ 来た道を引き返し、西洋の神殿造りを模した「文化センター」前に着き、「薬研堀」、「本丸に伸びる舗装道」、「城内の樹木」等の説明を受け、かつての「馬場」を通って、
津山城表門側に廻る。

→大手門に行く登城道の傍らの石垣下には、「忘れられた石」、「案内説明板」、「森忠正公像」が続いてある。「切符売り場」で
300円の入場券を求めて、市の文化財課が発掘調査をしている「表門」脇を上って「三の丸」に出る。有名なこの城の「桜の木」が広がる。次に、折れ曲がる登城道を経て、この規模の城にしては、かなり幅広の石段を通って「二の丸」広場に上がる。復元されて建つ「備中櫓」を仰ぎ見ながら、なぜ美作の地にあって「備中」の名なのかの由来を聞く。そこから曲輪の北東に出て、眼下に広がる城下の市街を眺望する。上の本丸辺りからは、かすかに風に乗って今夜と明日あるイベントの楽器練習演奏の音色が響いてくる。

→本丸段に上がり正午前にもなったので、頃はよしと藤棚のベンチに腰掛けて弁当を摂る。

12:30備中櫓の見学に移る。「復元工事」、「内装」、「広さ」、「柱のヒビ」、「棟の瓦」等々、一階から二階までタタミ敷きの部屋を廻って説明を聞く。

→外に出て天守閣跡に上がる。新聞等で目下宣伝されている「名護屋山三郎と出雲阿国の恋愛」を象徴する「ハート型」の石垣の石の前には二人の「顔出し」看板がある。天守台の上から市街を眺望しておると、突然にわか雨が少々降ってくる。

→下りに移り、今回の記念写真の適地の場所に移動する。三の丸の「鶴山館」の近くで、末澤さんに「備中櫓」をバックにシャッターを切ってもらう。

→表門跡から「表坂」をくだって「津山観光センター」に弁当ガラを返しに寄る。

→トイレ休憩の後、「津山郷土博物館」の前を通って宮川沿いに
出雲街道に出て、番所跡から宮川に架かる「大橋」を渡って城東地区の見学に移る。クランク形に折れる街道を進み、「苅田酒造」の旧宅前に来る。建造当時としては三階に部屋のある珍しい建物。酒屋業だけに建物・敷地は広大である。

→「城東町並み保存地区」の看板の前に、傍に「半鐘櫓」の立つ「作州城東屋敷」がある。屋敷の中の奥に「だんじり展示館」があり、県指定文化財の
4台が置かれておる。館見学を終えて出雲街道に出ると、循環の「ごんごバス」の西進に出くわす。車内に人影が見当たらないのが気になる。

→カギの手の通りを行くと、国指定史跡「箕作阮甫の旧宅」がある。阮甫が
14歳まで過ごした生家で、1976年に当時の商家を忠実に復元したものであると言う。中を見学して勝手口から「津山洋学資料館」前に出るが、時間の関係で残念ながら今回館内には入らず、「洋学者の銅像」6体を見て、市指定観光休憩所「和蘭堂」に入る。みやげ物が所狭しと陳列してある。会員が冷たい飲み物を一斉に求めるので、2人の店員さんは大忙し。他の来客も無く十二分に休息をとる。

→店を出て、最期の見学場所「城東むかし町屋」(旧梶村邸)に寄る。敷地面積約
1,082平方メートル。庭園、2つの蔵、座敷、付属屋、茶室、裏座敷、洋館等のある町屋敷。江戸後期に建てられた母屋や昭和初期の西蔵などが改造・増築されてきたもので、建物の歴史を語る貴重な遺構。急ぎの見学ではもったいないが、素通りに邸内を抜ける。

→帰路につく。国道
53号線に出て一路津山駅を目指す。今津屋橋を渡るところで学生の吹奏楽器を抱えた一団に出会う。今晩のお城でのイベント「キャンドルナイト」に出演する一行であろう。激励の声をかける。駅手前の交差点では信号機がなかなか変わらず、待遠しくなって信号機の操作について苦情が出る。3時前に全員帰着。一同末澤氏にお礼を告げて、15:03発の電車に乗る。

→車内には他の乗客が少なく、座席を寄せ合って腰掛ける。発車して間も無く車窓に大粒の雨が降り注ぐ。車内にいるので安穏なものの、高松に着く頃の天候を心配する。雑談を交わしながらも窓外の降雨が気になる。備前原駅では「竜の口山」の山影は殆ど見えない。それでも法界院駅に着く頃には急に視界が開けてきた。次の岡山駅には16
:36着く。16:47発の吉備線に乗りかえ、高松駅に17:11帰着。小降りには変わったものの雨は止んではいない。駅構内を借りて、次回の行程を確認して17:20解散。歩数約17,600歩。


 「落石事故」の報道で一時大慌てをしたが、津山城を中心にした観光ウオークは、正味5時間半の少ない時間ではあったが、訪問地では充実した見学ができたと思う。津山の観光ガイドの皆さんには大変お世話になった。いつもながら立派なガイドを受けて感謝に耐えない。解散帰宅ごろ雨足が強くなったが、途中濡れて帰宅したものもいたかもしれないのが気に残る。

 



82日(土) 長良、県立大学方面コース

 このところ連日全国各地で熱中症患者が続出する暑さが続いている。今年は昨年の反省から長良山方面のコースを一部変更して時間短縮で実施する計画を予定にしていたが、台風12号の影響で早くも夜半から雨が降り出した。

午前
7時、集合場所の庚申山駐車場に16名の参加者が集まった所で、実施計画の変更を提案して、県立大学まで車による分乗移動に切り替えて出発。

予定より早い到着ではあったが、門衛の方の親切な案内で構内のパーキングエリアに車を停めさせてもらい、大学のキャンパス内の見学をすることにする。

まず、次回
9月の津山行きの「下見」の連絡をすることにして、守衛の方の案内で「本部棟」の軒下を借りる。連絡の後、雨傘をさしての構内見学に移る。気温30度弱の心地よい暑さの中、雨に濡れた緑の木立に囲まれたキャンパス内を見学して廻る。「こんなに広いとは思わなかったわ」「さすがは大学の建物だのう」と、その広さや大きさにびっくりした声が飛び交う。

大きな鼓形の「同窓会館」の周りを一同頭をひねりながら一巡りしたりして、記念写真の適地を探す。登校の女子学生に声をかけシャターをきってもらう。

→今回の見学スポットである構内を流通する湛井
12ケ郷用水路「中道川」の見学をする。コンクリートの直線の水路の両側に柳の並木が続く。目下の潅漑期の水路には滔々と勢いよく水が流れ下っていた。

→大学に別れを告げ分乗の車で長良山西山麓にある名水「裏菊水」に着く。名水は岩間から竹筒を伝って放水状に流れ落ちていた。平安時代の昔、「君が代は 長良の川の 水すみて 底なる石も 玉とこそ見れ」と長寿の水として歌に詠まれているという。

→長良山の東山麓にある備中三大名水の一つ「菊水の井戸」に廻る。東側が都に近いから「表」ということになるのであろう。その昔東流していた高梁川分流は長良山を挟んで南下し、その伏流が東西にあって湧出しているのであろう。足守藩領に当たる東山麓のものが藩主木下公の推奨もあって名水の名を留めているのであろう。井戸横の歌碑に「汲む人の よはいもさそ(ぞ)な 長月や 長良の川の 菊のした水」とある。こちらも長寿を愛でている歌だろう。井戸の蓋を開けたが、「底がよく見えないな」の声がする。

→帰路につく。
9時過ぎ庚申山駐車場に帰着。折りしも小止みの雨が少し激しくなる。次回を確認して解散。歩数3500歩弱。台風の接近で雨の中のウォークを覚悟していたが、咄嗟の変更で歩数は物足りなかったが、県立大学のキャンパスに入れてもらって外観ではあるが大学生活を垣間見た想いだ。次世代の有能な人材の輩出を祈念しながら、今回のウォークも意義あったかなと思う。 


 



75日 楯築、惣爪コース

 72日の半夏生(はんげしょう)の日が過ぎ、暦の上では梅雨明けの頃となる。昨日は昼前に夕立のにわか雨が降ったものの、今朝は曇り空ながら雨模様は無い。気温は25℃前後で凌ぎよい。この期で望める最高のウオーク日和を迎えた。
 午前7時半、加茂小学校に25名集合。準備体操の後、コースの確認をして出発。
→足守川の左岸を新黒住橋に出て右岸に移り、矢部地内に入り土手下の市道を南下。活着した早苗の水田の有様には目に勢いを感じさせてくれる。

→「片岡山」丘陵北端を目指して山道に入る。庄パークヒルズの団地を結ぶアスファルト道に出て
楯築遺跡正面入口のゲイトに着き参道を登る。

→地域のご婦人二人が早朝からトイレ清掃に励んでおられる。「案内説明板」の所で、きょうのガイドをお願いしていた田中さんを迎える。挨拶の後、彼氏の静かな口調の滑らかな含蓄のある前段の「遺跡の概略」の説明を受ける。

→給水塔の脇を通って
収蔵庫前に出る。きょうの我われのために入口が開けられ、祭壇の奥から「亀石」が霊面を向けている。パネルを使って弧帯文様などの詳しい説明を受けた後、収蔵庫内に入り、一行は「亀石」を間じかに観察させてもらう。普段は収蔵庫の明かり窓からの覗き見に終わっていたが、今回は実物に直に接することができる満足感がある。滑石に刻まれた文様には興味が尽きない。祭壇に拝礼し、管理人の方に礼を告げて退出。

→「楯築さま」の祀られている墳丘墓の中心に出て説明を受ける。この弥生墳丘墓の構造・発掘調査の状況・出土品・祭礼の様態・歴史史上の意義等、場所を東西南北に移しながら現状からロマンを拡大しての興味津々の解説を受ける。破壊埋葬された特殊器台形土器・壷形土器・円礫堆中の弧帯石・勾玉・管玉等や二本の前歯片、32キログラムの水銀朱、棺槨、排水施設、突出部列石、立石、などについて知る。→墳丘墓を後にして次のポイント地に向う。庄新町の通りに出て、パークヒルズ運動公園に入る。昨年同様に「廃品回収」が行われ町内の関係者が作業中。

→公園の一角にある
王墓山古墳の案内板の前から登山階段を上って丘陵上に出ると、田中氏が既に自転車で到着されていた。全員の到着を待って、墳丘前の休息所のベンチに腰掛けたりしながら前段の解説を受け、続いて墳丘上に上がる。25㎡程の墳丘はきれいに芝付けされていて、高台から望むように東南に向けて吉備津方面の眺望がよい。横穴式石室をもつ古墳であったが明治時代に近隣の工事で石材が持ち出されて壊されている。その時持ち出された浪形石の石棺が墳丘の裾横に置かれている。ここでも場所を移動しながら弁舌爽やかな田中氏の詳しい解説を受ける。最後に石棺の前で今回の記念写真を撮る。8時過ぎから懇切なガイドをしていただいた田中氏と別れる。

→丘陵を下って
日畑廃寺跡を目指す。昨年の逆廻りになので記憶が薄れ道を間違えやすい。団地内の鋭角曲がりの坂道をぬけ「赤井西三号墳」の横を通って、地元呼称の赤井堂屋敷(日畑廃寺)跡の標柱前に着く。「吉備寺式」言われる白鳳時代の備中独特の軒平瓦は、平成9年の発掘調査後倉敷市埋蔵文化センターに常設展示されていると聞く。境内の礎石の姿は隠れていて遠目には見え難いが、草刈もなされ整備されている。

→日畑町内を抜けて滔々と流れる「用水路」を渡り日畑城址に着く。目下
NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が『高松城水攻め』の場面を迎えているが、「日畑城攻防の合戦」や「毛利方の援将上原元祐の裏切り」についての上映場面は無い。東の丸(本丸)の麓・大イチョウの木の下にある五輪塔の花筒には真新しい花が供えてあるのが現状を頷かせる。

→足守川の土手道を通行量の多いい右岸から左岸に移り北上する。涼しい川風が体を撫でてくれる。下郷四ケ郷分水所の堰を越えてオーバーフロウの白波の水が下流に流れているのが見える。梅雨期で水量は十分はあるようだ。土手下の東一郷半用水路の水も勢いよく下流に走っている。


→道を北上すると道下に「惣爪分館」が見てくる。何処かの団体の会合が持たれているらしく窓越しに人影が見える。「
御野立所」には今回は立ち寄らず、貝塚の話をしながら通過する。


→突然北上してきたパトカーに遭う。右岸の道なら別だが何の事態かと訝る。国指定文化財
惣爪塔跡に着く。この所にある此の塔心礎の存在はいつ来ても古代のロマンをかき立ててくれる。→惣爪地内を北上し、県道真金清音線を渡って加茂地内の「腰投げ地蔵」脇の農道を通って加茂小学校に帰着。10時過ぎ。次回のコースを確認して解散。歩数10,000歩弱。


 梅雨模様の続く昨今ではあるが、今日ばかりは恵まれたウオーク日和であった。殊に田中氏の造詣深い熱意あるガイドに与かり、更に「亀石」を直に拝見して、全員が感無量の半日を過ごせた。体力の下降を意識しながらも、一期一会の喜びに励まされる想いだ。

 

 








6月7日 早島町内名所旧跡コース

 5月末日から気温30℃を越える猛暑日が日本列島を襲い熱中症患者が続出したが、4日頃から急変して県内は梅雨に入り、降雨と共に25℃位に下がった。昨日は二十四節気の一つの「芒種」で、各地で水張りのされた田圃の中で田植機が懸命に活躍している。

今日の天気予報は、「瀬戸内は雨の降るところもあるが、雲の多いい天気ながら晴れ間が出、昼間の最高気温は25℃を越えるところが多く蒸し暑い」とのこと、天助か、6月としては恵まれたウオーク日和である。

高松駅前8時集合、体操・日程確認をして出発。8:29発の電車で岡山へ、ホームを移して瀬戸大橋線快速マリンライナーに乗りかえて早島駅下車。出迎えの早島観光ガイドの曽我さんに案内され観光センターに入る。裏側の広場に出て四人のガイドの方との対面。代表の駒井さんから歓迎の挨拶と、散策道「不老のみち」の設定趣旨や「旗本戸川家陣屋」「宇喜多堤と干拓」「金毘羅往来」「い草と畳表」の歴史文化の早島町の概略の説明を受ける。参加者25名を二班に分けて出発。

→市道に出ると道幅広く電柱の立ってない通りに開拓地のゆとりを感じる。北上東進して宇喜多堤起点地・竜神社に着く。天正年間宇喜多秀家が汐止めの堤防を築き干拓の端緒とした。ここから西に伸びる県道倉敷妹尾線が堤防跡地である。この地は竜王山として旱魃の時に雨乞いの祈祷がなされた竜神社・鍋森宮が祀られている。昭和40年代に削平され広場が拡幅され八幡様の御神輿のお旅所となっている。

→道幅の狭い島の古道に沿って進む。石見銀山開発功労者の安原備中守供養塔がある所に案内板が掲げられ、徳川家康から褒美として「上服と扇子」を貰ったことなどの説明がある。案内板の上段の立石の垣の中に供養塔が立っており「寛永十二年 安原備中守源知種」と記されている。

→県道153号線を横断して、西進南下するところの道端に「市場村講中」銘の金毘羅灯篭が立つ。

→すぐ近くに眼科医清澄家の明治時代の洋風住宅が美しい姿で残されている。

→千光寺の塀沿いに丘を上り竹井将監五輪塔前に出る。城山の砦にいた将監は冠山合戦で加藤清正と一騎打ちで斃されたが、秀吉から立派な武将として手厚く葬られたと言う。遠藤周作の母方の縁故者でもあると聞く。別の所にあったものを後代現地に移されたという。

→町民憩いの場として桜の名所早島公園に上り、トイレ休憩をとる。

→公園から国鉾神社境内に入る。戸川家9代の安悌が寄進した石灯籠がある。祭神は大国主命であるが境内はつつじの巨木が一面に広がり見事な庭園をなしている。つつじ公園とも呼ばれている。公園上段の広場に上がり、吾妻屋をバックに記念写真を撮る。

→なだらかな坂道を下り戸川記念館に入る。知行3,400石の旗本戸川陣屋址の一角に戸川家の遺品がところ狭しと陳列してある。所蔵品・陣屋絵図・家伝の具足・軍勢揃い絵巻・行列絵巻・高梁川洪水絵図・宇喜多堤図等々。高松の花房家の資料からすれば圧倒的な数量に驚嘆する。館を出て陣屋の遺構「石橋と堀」を見る。→宇喜多堤跡の県道152号線を西進し、県道187号線がぶつかる所にあるいかしの舎(や)の門をくぐる。畳表の問屋「寺山家」の屋宅を明治期の歌人岡直廬(おかなおあり)が「盛りに足りて厳か」の意味で命名したと言われる。建物の見学だけでなく、和室、応接室、展示室、販売コーナー等があって、結婚式披露宴の会場や喫茶、食事会、研修会議などの行事の会場として施設利用ができる。

→裏口より通りに出ると幅広の通りに沿って、二階建ての建物に一部3階の建物のある豪奢で、幼稚園としては意外な様式の園舎が眼に入る。道を南に折れ正面側に廻ると幼稚園であることが納得できる。園のグラウンドには立派な遊具施設がある。土曜日で園児の姿は無いが、恵まれた施設で遊ぶ子供たちの声が聞けたらと思う。

→南下して12時前に中央公民館に着く。館の好意で読書室を昼食場に提供していただいて弁当を開く。ミル式の一杯100円のコヒーの自動販売機があり、食後に列を成して殺到する有様。1245分、公民館講座「温羅の面つくり」を見学して、午後の部に出発。

→館を出て北上、堤跡の県道152号線を西進して、安政三年早島・大阪・江戸の畳表問屋が奉納した東参道の一対の常夜灯に着く。瀬戸内海を航行する船の安全を祈願して、児島湾を見渡せるこの高地に建造したものだ。高さの明示は無いが、いわば灯台の役目を願ってのものと思われる。

→参道を進んで鶴崎神社に着く。鶴崎神社には二つの社が祀られ、双殿つくりと呼ばれる拝殿は、向って左が八幡神社の拝殿であり、右が鶴崎神社の拝殿になっている。鶴崎神社の祭神は大吉備津彦命であり、吉備津神社同様に春秋二回の七十五膳据神事が執り行なわれると言う。宮司さんの30分に及ぶ案内を聞き、平成21年に社殿が新築され、棟梁、費用、造り様式、本殿移築、神輿、隋神門のことなどを知ることができた。

→神社に拝殿に参拝して正面参道を下り、再び県道52号線を渡り弁財天港跡に着く。弁才天厳島神社の裏手には巨石群があり早島が島であった頃の波打ち際の様子が容易に想像される姿で散在している。

→帰りの電車の時刻が迫ってきたので先を急ぐ。予定していた舟本荒神社、歴史民族資料館見学を割愛して東進して、早島観光センターに帰着。朝の出発では見学できなかった館内の特産物展示販売コーナーに入る。帰りの電車の時刻が氣になり、非礼を詫びながらガイドの方々に慌しく挨拶をして別れる。駅に着き、ホームに出ると駅舎の日陰の下を爽やかな浜風が通り過ぎ、思わず深呼吸をする。談笑をしながらしばし電車の到来を待つ。224分快速マリンライナーに乗り、岡山駅を経て313分高松駅無事帰着。来月のコース確認をして解散。歩数15,650歩。

入梅の降雨の心配もあったが、出発時の薄暗い曇り空は全く消え、穏やかな日差しを受けながら帰宅できた。豊かな財政で都窪郡内で唯一独立の町制を敷く町に羨望を感じたが、案内のガイドの方々は勿論、公民館の方、記念館の方、宮司さんなど町を上げて我われ来訪者への早島の方の歓待振りには感謝と敬意を強く覚えた。お蔭で楽しいウオークの一日を過ごせて貰った。

 
 








 

510日 竜之口八幡宮コース

 「瀬戸内は高気圧に覆われ、昼間の気温は26度近くまで上がり、からっとした暑さ。絶好の行楽日和」との予報。欣喜雀躍、薄着の装いで家を出る。
 高松駅8時、15名(途中乗車1名参加計16名)が集合。例の如く体操の後、行程を確認してホームに出て、929分発の電車に乗る。岡山から長船行きの電車に乗り継いで山陽本線東岡山駅に98分着。陸橋を渡って北口から市道に出る。

→東岡山工業高校の東側前を北上。頭高山(ずこうざん)の山麓に沿いバス回転場前で小休止。

→バス停の先を西に折れ、コミュニティハウスの前から住宅地の通りを北に進んで、
純正雄町米特産之地碑に着く。幕末に岸本甚造氏が酒造好適米を栽培したゆかりの地を顕彰する碑である。

→碑の前を進むとすぐ
大神(おおが)神社に着く。鳥居をくぐって境内に入る。明日の祭礼に備えて境内の清掃が行き届き、拝殿前では神官が御幣の準備をされていた。祭神は大物主神(大黒様)他三神である。四御神(しのごぜ)の地名はこのことに由来するのだろうか。拝礼をして脇参道からバス道に上がる。

→バス道をしばらく進むと山側に
竜之口八幡宮参道の標識がある。道を山側に折れて進むと竜之口くるまづか公園に着く。すでに車が駐車して来客を告げる。道沿いに「四御神憩いの場所」の看板が立ち、「桜の植栽・史跡・車塚古墳の由来」の説明が書かれている。そこへ、たまたま古墳探索の帰りだというM会員の知人に会い、挨拶の後登山の道筋を聞く。

→道下に池があり静かな水面に柔らかい陽ざしがさしている。潅木の道は徐々に登り坂になる。道は石段の参道に変わり、眼前に八幡宮の「一の鳥居」が現れる。鳥居の前には石造の阿吽の獅子の狛犬が立つ。ここから神域に入る。進むと密植された若木のヒノキの参道には柔らかい日陰が映り、爽やかな冷気が後押ししてくれて脚も予想外に軽い。

→やがて参道も小石交じりで、道幅が狭くなる。一列になって下向きで上がる。遠くで鶯の鳴き声がする。樹林が途絶え斜面沿いの下に小池が見え、この奥山で釣りをしている人がいる。池に降りる所の道が広場になっているので休息をとることにする。釣りを見物していた早朝のウオーク客が近づいて雑談に入り、道筋の案内をしてくれる。

→「神社まで
20分です」に励まされて出発する。樹林の坂道を過ぎると視界が広がり周囲の山塊が見え、標高200m位に上ってきたのだろう。道幅の広い道路と交差する所に着く。木に掲げられている小さい案内板を見て二手に分かれて進む。

→来た道の延長線のコースを進むと一旦は下り坂になるが山上に向う道になり分岐点広場に出る。分岐点標識には「竜之口八幡宮
03km」とある。広場の案内板に「竜之口山城跡について」の説明があるので、城主穝所(さいしょ)治郎元常が宇喜多直家に討たれた「備前軍記」の史記について話す。

→一服の後、しめ縄の門を通って八幡宮に向けて出発。左右に立つ常夜灯を過ぎると道は上り坂になる。敷かれた石段も長年の流水に洗われて壊されていて上り辛い。「第二の鳥居」を過ぎると参道は一段と険しく、石段が大きな石塊の胸突き坂になる。

→坂道がゆるやかになり、きちんと敷かれた石段を上がると突然視界が開けて八幡宮の境内に出る。初夏の青空の下「学業の神」の社殿が映える。各自がそれぞれに参拝して、本殿の奥から摂社「石鎚神社」前の広場に出る。玉垣の灌木から身を出して遠望すると、眼下に旭川の青き流れと備前・備中の山並みが遠く広がって見える。向かいの牧石の山腹には陽光に映える民家のトタン葺きの屋根が新緑に埋もれて見える。高地からの通学を心配する声が聞こえる。ともあれ合格祈願に参拝する受験生は、きっとこの絶景に成功成就の安堵を抱いて下山するのだろう。
11時過ぎ、少し早いが絶景を愛でながらこの場所を借りて昼食を摂ることにする。折りしもDさんの合格御礼の祈祷の太鼓が幣殿から響いて聞こえてくる。孫の成長を願う家族愛に胸を打たれる。

→昼食が終ったところで記念写真を撮る。無礼ながらも社殿の前の石段に並んで参拝の婦人にシャッターを切って貰う。

→帰路の電車の時刻を気にしながら
12時過ぎ下山に移る。分岐広場までは往路の時以上に難しい。ゴロゴロ石の坂参道を、足の交わし場を探りながらの下山だ。分岐点まで下り、一息つく。

→そこから
グリーンシャワー公園に向う道に入る。坂道は意外と石ころが多く、雑談をしながらも道筋から目が離せない。それでも、足元の危険には気が緩めない厳しさを覚えるが、まさに「グリーンシャワー」の名の如く「新緑森林浴」の恩恵を全身に浴びての下山だ。

→公園広場について小休止。用意された切り株やベンチに腰掛けて暫し雑談。「竜の口グリーンシャワーの森案内図」「竜の口量水試験地」の説明掲示板が立つ。それにしても園内が少々荒れ気味、市の中心街の整備は毎日報道されるが、この「癒しの場」は忘れられている感じがして寂しい。先に下りた連中からケイタイで「駐車場に着いている」と連絡がある。

→午後
1時半前、電車の時刻を気にしながら、中原橋を目指す。以前訪れたことのある「旭川荘」は幾棟もの建物に拡張されて広大な療養関係施設になっているのに驚かされる。通行人や民家の人に道筋を尋ねながらようやく橋に到着。橋の歩道を渡りながら振り返ると、八幡宮のある山頂と竜の口山の山頂が二つ並んで頷ける姿で遠望できる。

→右岸に出て県道
27号線を渡り土手下に降り、津山線の踏み切りを渡って備前原駅に予定していた1330分に着く。無人駅の乗車券のことなどで冗談話に花を咲かせてしばし待つ。

1347分定刻通りの電車に乗り、岡山駅で買い物などして、1442分高松駅に無事帰着。運賃清算に手間取りながら、次回の計画を確認して15時解散。歩数、17,000歩余り。
竜の口八幡宮と言えば、その急峻さで受験生が困難克服を願って挑戦登頂する所として信仰が篤いが、今回のウオークでは好天に恵まれ、森林浴の幸せを満喫できる楽しい登はんとなった。登山家の醍醐味と受験生の安堵感を幾分味わった思いだ。神から幸せな一日を贈られた。

 




 

45日 玉野市深山公園コース

 実施9年目、会員の高齢化も進み、体力減退の悩みを抱えながらも健康増進を願っての新年度の第一歩。「花冷え」の気圧の谷の接近で大気の状態が不安定。「所々で一時雨や雷雨があるかもしれない。昼間の気温は10度前後しか上がらない。」との予報通り、明け方から小雨が降り出す。戸外活動では、天候の良し悪しが成果に影響大。雨具の用意をしながら平安を願う。でも、家を出る頃になると雨も止み、雲間から日差しが通り過ぎてゆく空模様になってくれる。
 830分、高松駅に17名が集合(途中駅乗車2名、参加者計19名)。他の行事参加の都合で複数欠席ありとのこと。駅前の広場で体操の後、行程確認をして856の電車に乗り出発。932瀬戸大橋線に乗換え茶屋町駅に着く。K氏と合流して宇野線宇野行き1013電車に乗車。車中で多くの外人旅行客が乗っているので話しかけると、ドイツ人で直島へ向っているとのこと、昨年の「瀬戸内国際芸術祭」の舞台の直島視察観光だろうかと思われたが非力な語学力で口が開かなかった。いつか是非直島に行ってみたいと思い続けている身には羨ましい限りだ。1033備前田井駅着。乗換え、乗換えで2時間ほどの時が流れた。

→駅表口から県道岡山宇野線に出て、迂回しながら宇野線のガード下を通って、国道
30号線を渡る。前方の山並みには満開近い桜の樹が点綴して見える。更に公園近くまで来ると山上に玉石を乗せたように見える巨岩の立っているのが眼に入る。

1110深山公園内に入り、「みどりの館みやま」の「情報コーナー」立ち寄りトイレ休憩をとる。「公園案内図」を貰い全員に配布。

→案内図を見ながら園内の概略を知り、園内コースと行動予定を確認。→「農水産物直売コーナー」を覗いて、園内の道路に出る。この道路は来園者の車道でもあるので車が次々に走る。この度の計画立案の時、「パターゴルフ」「イギリス庭園」のコースも考えては見たが時間の都合で中止にしたが、その
2会場の脇を通過して、「赤松橋」を渡り「赤松池」に出る。池畔には桜の並木が続く。園内には3000本の桜があるといわれているが、広大な園内としては密植された賑やかさは無いが、「本日満開」の艶やかさは匂いとして伝わってくる。池の水面には春を待つ水鳥が遊泳しているのが遠くに眺められる。さらに池の上手の池畔近くまで来ると多数の水鳥が活発に泳ぎ廻っているのが見える。

→車道から柵を通って遊歩道に入る。「ツバキ園」のツバキの間に純白の花をつけた数本のコブシが清楚な姿で立っている。「中池」の下土手の所に柵が設けてあり、イノシシが出没するので遊歩道通行に注意するようにとの警告標識が掲げられていた。これより先の桜の樹下で昼食を摂る予定にしていたが、水鳥の群遊する「赤松池」池畔を望む声が出て、そちらに変更して引き返し池畔に下りる。

→池畔では、「パンくず」を投げて水鳥に餌を与えている人がいて水鳥が集まっていた。冬鳥の越冬地として晩秋・初冬に飛来した白鳥・ヒドリガモ・アイガモ・オシドリ・オナガドリ等が飛び立つ春を待っているとのこと。管理事務所の人以外の良識ある人の施餌は許されているらしい。

→池畔の奥の桜の木下やベンチに腰掛けて弁当を摂ることにする。曇り空ながら雨も降らず、寒さも感じず、歓談をしながら寸刻の花見気分を味わう。風静かな池面には水鳥がせわしく餌を口にしては、満足げに右往左往している。向かいの山には
8年前の山火事の跡に未だ木も生えず褐色の巨岩の肌が見える。山火事のことが話題になる。1230桜の樹を背に記念写真を撮ることにする。来園者に声をかけてシャターを押してもらう。

→その後は帰りの出発時刻を約して、各自の判断で行動する自由行動に切り替える。大半のものは、一周
3.6キロの遊歩道散策を選ぶ。標識で進入中止をした「中池」の下土手から、遊歩道の柵の内側に入って進むことにする。道沿いに尾状に垂れ下がる花穂のついた白樺の樹が目に付く。鬱蒼とした感じの遊歩道の山側はきれいに草刈ができているが、なるほど所々イノシシの土起こしの跡が目に付く。「梅園」の広場にもイノシシの荒らした痕跡がある。

→そこから「タイズ池」に沿う遊歩道では、時間が気になり歩調を速める。それまではある程度気ままに進んでいたが、皆が一団化して早足で進む。上土手から遊歩道を入園口に向けて折り返すように進む。

→「薬草園」の中を入って覗きたかったが足早に通り過ぎる。遊歩道には多少の起伏があって坂道を下るように進む所や曲がり道になって先を行く陰が隠れる時もある。「中池」辺りを通過しているのだろうが、こちら側からは池は見えない。

→「赤松池」の近くになって、山側から流れる眼下の渓谷の水溜りに大きな錦鯉が数匹泳いでいるのが見える。車道に出た所で午前中に通った「赤松池」の道に廻って約束の集合場所に急ぐ。

→時計を見るとまだ時間に余裕があるので、途中から一団から離れて桜の樹の広場である「ミミちゃん広場」に廻ってみることにする。車道より一段高い位置にある広場には、昼時を過ぎたためか樹の下に集う花見客は少なく、二三の団体が集うばかりだ。そこより奥の「サクラの丘」方面からの帰りの車が走って来るのに会うので、そこにはまだお客があるのかもしれないと思う。

→途中「直売コーナー」や「みどりの館の売店」を覗いて、「情報コーナー」に帰着、皆に合流する。全員が予定の時刻に集合。手に水産物の袋を提げたにこやかな顔がある。

1355「公園」を後にして国道30号線に出る。帰路は速い。道沿いの溜め池の脇を通っていると、昔のバスの交通事故が話題に出るが、そう言うこともあったような気もするが確かな記憶が甦らない。

→宇野線のガードの下を潜って、すぐ南に折れる近道のコースをとる。予定よりかなり早く田井駅に帰着。踏切を渡って上り線ホームに出る。無人駅の改札が問題として話題になる。

1444の電車に乗り、茶屋町駅、岡山駅と乗り継いで1612高松駅に無事帰着。次回のコースの集合時刻、乗車区間、帰着時刻等の注意事項を連絡して解散。 駅の外に出ると、小雨が降っている。家を出て帰宅までの歩数、17,000歩強。

 路線の乗り継ぎで待ち時間の無駄があったり、荒れる春の天気の下ではあったが、予報の「一時雨」にも殆ど祟られず、満開のサクラの風景を愛でながらウオークを楽しむことができた。自己満足の謗りを受けかねないが、「成果のあった一日」に思いたい。