平成25年度 加茂健康づくりウォーク記 by三垣  
 
 

3月1日 岩崎山(庚申山)コース

 全国的に2回に亘る大降雪の早春も、日数の経過と共に暦の季節を取り戻したように暖かく、梅の花も一気に咲きほころび始めた。今日は気圧の谷に入り雲が広がり、午後は雨になる予報。

 3月の予定コースは加茂地区にしていたが、「庚申様開扉大祭」や「高松城水攻め期の吉川元春陣所跡」の関係で、先月末「お山」の大掃除がなされた「岩崎山登坂」に変更する。

 8時30分、公民館に22名の会員が集合参加。体操の後コース確認をして845分出発。→高速岡山自動車道の隧道を潜り、中村橋を渡り、足守川右岸土手を北上する。アダプト事業で先月土手焼きをしたばかりで土筆の姿はまだ無い。それにしても高齢化の進む地域の住民には、河川管理のボランティア事業推進には年々困難を覚える。→庚申橋のたもとを更に北上して岩崎水門つく。昭和25年土俵堰に変わって今のコンクリート堰に改築され分水が公平容易になった。分水堰前には遊水池があり適正な分水が常時なされるように工夫されている。東側には足守川の底樋を通って出水される加茂用水の樋門が見える。→山麓側にある赤浜からの排水路に架かる鉄板の橋を渡って山道に入る。コンクリートの階段道を登るとすぐ不動明王の磨崖仏の刻まれている巨岩の前に出る。「備中誌」には寛永年中(16241643)泉州石匠の作と記されている。かつては前面の岩崎淵は修験者の行場となっていたらしい。巨岩の傍らには文化10年(1804)宮内村の名主真野竹堂が西国第一番札所青岸渡寺にならい勧請した如意輪観音と親交のあった三手村庄屋渡邊氏が第二番札所紀三井寺にならい勧請した十一面観音の二像が静寂の中に鎮座している。きょうのウオークはここから岩崎山々頂に続く観音道を辿るのが目的の一つ。→落ち葉に埋まる小径を進むと昭和62年「高松歴史を尋ねる会」の発起で催された「庚申山観音霊場開き」の碑の前に出る。碑文によると祭典は総額22万円の有志の御芳志で碑の建立、案内板の設置等の記念事業が執行されている。→霊場道は高塚方面からの庚申様の参拝道でもあり、梵天帝釈の額のある鳥居が立つ。傍らに三十三番の十一面観音像が据えられているが、山頂の終わりが二十七番の如意輪観音になっていることから推測すれば、順路が尽きて折り返しの順拝になったのであろう。→参拝道は急坂で、ところどころ石段が敷かれている。難行苦行の坂道が信仰心を深め、心の清浄安らぎを育てるのだろう。我われも黙々と懸命に登る。→標高70m余りの山頂には仏法守護の諸神が祀られている。午の年の今年は、大梵天の「開扉大祭」が53日・4日・5日の3日間にわたって執行される。雑木はもちろん大木も伐採されていて視界が開け眼下が眺望できる。毛利軍「吉川元春陣所跡」のこの地からは高松城址が指呼の間に見える。社の玉垣には大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」のゆかりの地として来訪者を迎える幟旗が色鮮やかに点々と翻っている。高塚側の参道から上ると北側に出るが、江田邑から移築された妙見宮、明治27年建立の大高灯篭磨崖仏毘沙門天があり、山頂のイワクラは古代からの信仰の名残が数多く留められている。南側に廻ると最も大きい巨石に「南無妙法蓮華経」の題目が延宝元年(1673)に刻まれ、その岩上に里山源兵衛橘範安作の宝塔が聳える。更に大梵天社裏の巨岩には「妙法蓮華経如来寿量品の経文」の一節が克明に石匠橘光安によって刻まれている。→明星天社から鬼子母神社に降りる石段で通りかかったS氏に今回の記念写真を撮って貰う。平成29年には鬼子母神社の「60年目の開扉」の祭典がある。→最近コンクリートで固められた石段は歩きやすい。石段の途中に宮内の岡田屋熊治郎寄進の石猿が立つ。花房公ゆかりの鐘楼脇から帝釈天社の正面に出て前堂の下を潜り、お通夜堂跡の望める脇道に出る。庚申信仰にあってはこのお通夜堂が大事な存在である。三尸(さんし)の虫を大梵天・帝釈天の所に行かせないように夜通し眠らないで番をする「守り庚申」信仰が継承されてきた。→脇参道を少し下ると「赤浜口観音道」下り口に出る。折れて下れば庚申様が繁盛していた幕末・明治時代の茶屋町跡があるが、直進して横参道から駐車場に出る。この広場はお祭りの時芝居小屋が建っていた所、最近では「備中神楽の舞台小屋」にも使われた。→駐車場から表参道を横切って排水溝沿いの境界道に下りる。岩崎部落を守る「保安林」の林の下を通り抜けると庚申山4号横穴式古墳が口を開けている。この場所から100m程上手には1号墳があり、精密な調査はなされていないが、奥行き6m、内部の間口は2mばかりの比較的大きな横穴式の古墳がある。→岩崎山には随所に古墳があることを話しながら高塚地域分に下り、竹薮を通って岩崎水門の下手の足守川土手道に出る。→庚申橋を渡り加茂用水沿いの道をたどって公民館に1030分予定の時間内で無事帰着。歩数7,500歩。1045分頃から公民館の料理講座室を借りて「総会」を開く。1230分終了。

 今回は「総会行事」も行う今年度最後のウオークで少々慌しかったが、天候に恵まれ内容の多いい行事をこなすことができたと思う。9年目を迎えるとコース設定に悩むが、参加者の協力で新年度の予定コースも設定できた。地域の健康増進を願う方々の同調参加を歓迎したい。

 











 

21日 最上稲荷・奥の院、竜泉寺コース

 前日からの陽気は寒中を忘れさす暖かさ、今朝の予報では岡山南部の日中の最高気温は17℃にもなるとのこと、奥の院に登る参道の険しさから薄物のジャンパーを重ね着にして家を出る。集合場所の高松城址では担当町内の高齢者が「早朝清掃活動」をしている。大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」の放映で来訪者が日増しに多くなっているとのこと、「驚天動地」の策士官兵衛も苦笑する哉の地域の盛り上がりにおのずと胸が膨らむ。
 9時、城址北駐車場に22名が集合。準備体操の後、昨年と同じコースをたどることを確認して出発。→前方にはこれから上って行く「奥の院」のある竜王山が意外と近くに聳えて見える。天井川に沿って文英石仏福成寺跡を経て、法土寺の手前を北に折れ慕田道に入り、妙池に通ずる下道から本道に出て宮谷小池の堤道から最上稲荷への小径の石段を上り境内に出る。境内には節分の「豆まき式」の桟敷が構えられ準備が進められている。桟敷に今年の招待者の名が掲示されている。一日(ついたち)のきょうは本殿(霊光殿)の前は参拝客でそれなりに賑わっている。石段と坂道を上って旧本殿(霊応殿)に着く。市指定重要文化財である。寛保元年(1741)建造の「仏教的要素を持った神殿遺構(入母屋造)」。→トイレ休憩の後、いよいよ奥の院に向う登山道に踏み入る。ケーブル跡に沿う石段道を一歩一歩踏みしめて上がる。見上げる磨崖仏の刻まれている巨岩に見惚れ一呼吸。坂道を進むにつれ上半身が汗ばむ。八畳岩の標識に沿って左に折れ尾根に出てやや下る。小さな仏塔や説明板が立つ。後続のものを待ちながら下着を脱いでリュックに入れる。岩上に立つと高松城址一帯が眼下に開く。迂回して報恩大師が天皇の病気平癒を祈願された岩窟を拝す。しばらく霊験に浸り、再び登山道に出る。そこから上りの土肌の坂道は記憶以上に長く感じられたが、やっとケーブルの終点跡広場に着く。昨年同様小休止。→出発して鳥居の立つ参道に入ると「頂上まで三町」の標識が立つ。「1町」という距離表示に慣れてないので300m余りかなと言ってはみたが自信が無い(後刻辞書で調べると町約109m強とある)。今の人に分かり易い表記の方が有難いなと思う。献納された石塔題目石の続く参道を通って奥の院境内に出る。参拝休憩。→11時、鐘楼脇を通って題目石の林立する循環参道を経て、奥の院裏参道に出て車道を下る。樹間から透けて向かいの山の赤土の地肌が見える。新たに始まった建設工事か、昨年には無かった景色だ。市道長野線に出て竜王池池畔の道に入る。三月下旬並みのきょうの陽気が足並みを軽くしてくれる。杉木立を抜けて竜泉寺本殿に着く。ここでも参道に真赤な奉納幟が幾本も翻っている。寺務所に来訪を告げ、いつものように休憩所の利用にあずかる。大奥さんの過分の接待を受け、弁当を開く。例によって食後の歓談の中で来年度の希望訪問地を提案してもらう。→1245分まで、十分休息をとって帰路に向う。先ず御滝の「行場」に行く。昨年婦人が水垢離行をしていたのを思い出す。「行」に履く何足ものワラジが懸けられているのが目を惹く。揺るぎ岩太閤腰掛の岩に廻る。先刻「官兵衛もきっとここに来たでしょう」と奥さんは思いを膨らませて語っておられたのが甦る。モミジの並木とイノシシの侵入防御網の敷設してある坂道を経て、竜王池池畔に出る。サギソウ湿地池中の赤鳥居、八大竜王大宝塔、身代り地蔵、鯉岩、六道地蔵群前を過ぎ、吉備自然歩道から奥の院参道に合流する坂道を行く。眼下に城址方面の風景が樹の間から時折見えるこの緩やかな下り道はステップが軽い。合流地点に出て後続団を待つ。ケーブル跡の坂道に出て、用心しながら下り稲荷荒行堂境内に入る。→全員が揃ったところで、展望台に向う。坂道には数基の歌碑が新たに建立されている。急坂である。頂上に立つ喜びを期しながら杖を握り締め進む。広場に着くと新しい案内板が目にとまる。「秀吉が最初に陣を構えた地(1の丸)」と表題が記されて説明が続く。確かにこの地は高松城を俯瞰し敵情を探る陣の適地、秀吉の軍勢が陣を構えたところとされている。広場には巨大な日蓮上人像が「法華経」を広宣流布されている姿で立っている。小休止歓談の後下山。降り路は足が軽い。清水宗治公信奉の北辰妙見宮の前を通って妙教寺境内に入る。慶長6年(1601)旗本花房公が関東より日円上人を招き「稲荷山妙教寺」を改め開基したとある。トイレを借りて寺を辞す。石段を降り改修がなされた仁王門の前で今回の記念写真を撮ることにする。インドの殿堂様式の石門。このたびの改修で、仁王像も黄金色に修復されているようだが、この四月吉日に落慶法要が行われるまで覆いが懸けられている。残念だが今回この姿で撮るのも一興と諦める。→参道仲店を通る。一日参りで平日より多いい参拝客かもしれないが、正月の雑踏からすれば寂しい思いもする。西の池の西廻りの市道に出て全員が集合するのを待つ。揃ったところで平山町内を経て自転車道に出て西進、高松城址駐車場に3時直前帰着。次回のことを確認解散。歩数約20,000歩強。
 3月末並みの温暖に恵まれ、実施コース中で最難関のウオークを無事達成した。毎回ながら竜泉寺では有難い接待を受け感謝に堪えない。年々体力の減退を覚えながらも、来年度も健康維持のために楽しいコースで老春を謳歌できたらと思う。

 







1月11日(土)  吉備津神社コース

 今年の正月三箇日は比較的穏やかに過ぎたが、小寒に入ると暦通りの寒気が日本列島を覆って、9日には真庭市蒜山では降雪量が全国一位の70cmを記録した。今朝は、最低気温は零下04度の予報ではあったが、体感ではさほどの厳しさは無かった。寧ろ快晴で身の引き締まるウオーク日和。今年は正月の雑踏を避け、1週間遅れの「吉備津神社参拝」と計画した。
 9時加茂小学校に総勢大人19名と小学生1名(途中参加1名)が集合。例によって体操とコース確認をして出発。→東加茂の道沿いには真新しい住宅が新築されている。旧相賀邸前から国道180号を横断して吉備津地区に入り、直進して建石地蔵尊堂横を板倉川沿に南下する。旧山陽道から吉備津駅前を東進して吉備津神社参道並木道に出て、再び国道180号線を横断して並木道を進み参拝者駐車場に着く。→トイレ休憩をとりこれからのコース確認をして、先ず手洗い舎で身を清め石段を上り北隋神門を潜り、手摺を頼りに急勾配の石段を上り拝殿前に出る。→新年の団参として拝殿に額ずき全員一斉に二礼二拍手一礼をして今年の多幸を祈る。→それからの摂社参拝巡りは時刻と場所を約して個別参拝とする。拝殿前からお札の授与舎・おみくじ堂周辺はさすがに人群れが多いい。三年前に改修された比翼入母屋の本殿は陽光を受けて燦然と光る。社務所の受付けには数組の祈願者が並ぶ。案内書きによると厄年は還暦までで、それからは祝年の祈祷になっていた。→境内の広場を通って学問の神一童社を廻りえびす宮に詣でる。きょうは「十日えびす」の「残えびす祭」の日、「笹持て来い、商売繁盛」のマイクの声が鳴り響き、「吉兆札」や「箕札」が売られていた。石段を降り回廊を横切り催し広場に出ると植木市が立っていた。「十日えびす」の当日なら例年その他の店が屋台を並べていたと思うが、「残り祭りの日」のためかその影はない。→お釜殿にも参拝客は無かった。集合場所を催し広場にしていたので会員の多くは植木屋の前で店の主人と商売談義を交わし、中には気に入って花鉢を買うものあった。→約束の集合時刻1040分が来たので、全員揃った所で木立に浮かぶ本殿を背に記念写真を撮る。→西入口の鳥居を潜って市道に出て、神池に架かる小橋を渡って宇賀神社に参拝。それから吉備津神社の社域を出て蓬来橋を渡って普賢院境内に入る。古刹のこの寺院には広大な客殿、記念碑、石塔、樹木が整然と佇んでいる。仁王門を貫けて「御所塀」の外に出る。→市道を南下し幕末の侠客「岡田屋熊二郎宅跡」を過ぎて藤井高尚旧邸跡に寄る。岡山大学の研究施設として利用されてはいるが、平日は門が固く閉ざされていて中へは入れない。寸時国学者高尚先生の事績を話題にする。→狭い市道を北にとって往来に出て、栄西禅師生誕地に着く。今年800年遠忌を迎えるに当たって生誕地跡の整備が本年3月完成を目指して進んでいる。クレンを登載したダンプが停まっていて数名の関係者が作業をしていた。ダンプのボディには京都等寺院庭匠の銘が記されていた。作業の邪魔を謝して、しばらく跡地を見学させてもらう。→顕彰事業の成功を願って市道に出て、すぐ近くにある妹尾太郎兼康の供養塔に参る。説明板を読んで兼康の事蹟を知る。昨年も説明板を読んではいたが、1年過ぎると忘れて新知識になる。お互いに年齢を感ずる。兼康の家臣の陶山道勝が建立した道勝寺の寺号の由来の話になると陶山姓が思い出せない。兼康公の首が晒されたと伝えられる「鷺の森」のことに触れると、吉備津駅の近くにあった「兼康首かけの松」のことを覚えているものあって話が深まる。そして兼康公の「十二か郷用水」開鑿の偉業の恩恵に深謝の思いを強くする。→往来に出て帰路に向う。国道180号に架かる陸橋を渡って吉備津駅前の街道を西にとって北に折れ、真城寺の参道前から杉尾方面に向う間道の迂回道を進む。偶然沿道で同期の友人に出会う会員がいて、話が弾み隊列から遅れたので、先頭は建石地蔵尊堂まで帰着して、後続の者を待つ。→国道180号の交差点を渡り加茂地区に入る。正午近くになってきたので気温が上昇し、寒さをすっかり忘れる。行進中知人の高齢の人の入院の話を聞かされ、あらためてこの年末・年始にかけて知人の動静に異変が多くなってきたのを思い起こし痛感する。そして、きょうの参拝ウオークに功徳あれと祈る。→途中の突発事態でペースが落ち、予定よりやや遅れ小学校に帰着。次回を確認して1215分散会。 歩数12,731歩。
 国内外の政情が厳しくなって、前途の安寧を強く願望する今年ではあるが、前向きの力を出し合って、多くの人と共に助け合って行きたいものだ。天候に恵まれて長閑なウオーク行事を終えることができたが、吉備の国の神霊のご加護あれ、年頭の祈願に結実あれと祈らざるを得ない。

 
 

127日(土) 造山、黒住コース

 11月末の厳しかった寒気はうそのように、12月に入って温暖な天候が続いている。暦の上では「大雪」の今日も予報によると中国山地沿いでは雲が広がりやすいが、瀬戸内海沿岸部は大体晴れ、最高気温は15度近くになるとのこと。早朝、靄っていた空も家を出る頃には日本晴れの好天気。
 840造山古墳駐車場に着く。2,3の会員のほか連長さんの姿もある。9時に参加者19名が集合。準備体操の後、本日のコースの確認。→先ず、この春に駐車場の一角に建立された彫刻家西平氏の「千足古墳石障オブジェ」の前でH氏にお願いして記念写真を撮る。その後で先生が熊本県上天草市上大戸ノ鼻から取寄せた砂岩に「当時のまんま」の技法を探りながら完全復刻された原寸大のオブジェにじかに触れながら、文様の作図手順・文様の絵解き・石彫の技法などを確認する。→全国4番目の規模でしかも誰でも自由に入れる古墳と地元民が誇りにする造山古墳群の模型の案内板を見ながら、再度コースの確認をして出発。→道沿いの民家の前に置かれている安山岩の板石について説明、後円部を目指して登坂。墳丘斜面に散在する葺石に目をやりながら墳頂に上がる。中心部に埋葬されているであろう竪穴式石室の岡大新納教授の探査、戦国時代の遺構の土塁・曲輪・竪堀、瀬戸の内海が迫っていたことなどを話題に古代からの歴史の流転を偲ぶ。墳頂から高松城址・新庄車塚古墳などを眺望して後円部を降る。5,6年前に取り付けたナイロンロープが今も活躍していて有り難い。→墳丘には初冬の暖かい日差しが注ぎ心地よく、第二次世界大戦の食糧増産政策のころ畑に利用され、戦後に地元の青年団が植林したという桜の木の林も今朝は静かな冬の装い。高さ27mの前方部の説明板を読み、阿蘇溶結凝灰岩製の「長持ち型石棺」の前に集まる。はるばる九州の地から運ばれてきた石棺の二説の出土箇所や型式について話題にする。→ここ三宝荒神社の境内には牛神・疫神などが祀られている。社殿横に出て、最近設置された説明板を読み、杉の木の根方に横たえられている「石棺の蓋」に集まる。かすかに窺がえる文様や内側に塗られている朱を観察する。いつも思うことだが、「現存の残部を取り込んで完全な大きさの蓋に復元展示できないものか」。前方部の先端に廻って、眼下に見える「地獄田」と周濠発掘調査の話をする。→古墳儀礼時に上り下りに使われたとする稜線の径を通って降る。第二号墳の前に出る。平成911月遊歩道整備工事中に発見された106個の埴輪列について話す。一辺4mほどの方墳の墳丘上には安山岩が散乱していたという。→遊歩道を進んでゆるやかな坂道を上り第一号墳に着く。雉鳩一羽が果樹の木陰に潜んでいたのをI氏が目敏く見つける。 近づくとすばやく飛び立っていった。明治の末年に出土したと言う国内では珍しいとされている朝鮮半島渡来の「馬形帯鈞」等に触れる。→歩道を引き返し第四号墳前に出る。西側の農道拡幅に伴い発掘出土した「朝顔・円筒・短甲形・家形埴輪」や帆立貝型前方後円墳について話す。→歩道を進みながら周囲の光景に見惚れておると江田山の頂上がはっきり見える。高松城合戦期の「鷹ノ巣城」について話題にする。→第五号千足装飾古墳に着く。平成2111月、石障の直弧文の剥落発見から今も調査と保護対策の整備事業が継続している。土曜日のきょうは文化財課の関係者はいない。墳丘頂部はテントや仮説の覆い屋で蔽われていたが上らせてもらう。数年先には古墳内が覗かれるまでに整備がなされると言うことだから一先ず安堵はされる。成功成就を祈念する。昨年の発掘調査のとき出土した直弧文の刻まれた埴輪片のことを思い出しながら畦道を進む。→旧山陽道を横断して第六号墳に着く。径約30m、高さ5mの円墳とされているが出土品のことも記録に無いのでよく分からない。1人が墳頂に上がって「フラットで何も無い」と報告する。→旧山陽道に出て千足町内を東進する。千足という地名の由来を「ここから江戸まで行くのに千足のワラジガ要ったからだと」実しやかな説を聞いたこともあるが、天草砂岩の産地と関係付けて、「上天草市大矢野町千束」と関係があるのではないかと説くものもいる。どちらにしても明解ではないが、此の街道の通行量は減り人影が見当たらない。古代には都と筑紫の大宰府を結ぶ官道であった。最近まで加茂では商店のある賑やかな町筋であった。→江田町内に通ずるT字路に「庚申みちと毘沙門みち」を知らせる道しるべが道路拡幅で移設されている。此の辺りに「一里塚」があったと言うのを聞いたことがあるが位置までは定かでない。東進して県道真金清音線に出る。交差点から県道沿いに坂道を上り、切り通しを超えて黒住地内に入る。→高速道の開通でいろいろな改修がなされ側道の道幅も広く、墓地や公園が移築整備されている。高速道の隧道をくぐって甫崎町内に向う。西側に山を背負った地域を温暖な日差しを浴びながら進む。→甫崎天満宮の参道口に着き、歩行疲れのものに休息をとって貰い、健脚組だけの参拝にする。約70段近い急坂の石段道を登る。社殿は昭和63年の自動車道建設により移転新築されており初々しさが残る。梵鐘には昭和28年「50年開扉記念」とある。境内の一隅に南無妙法蓮華経の小型の「六角塔石」が立つ。加茂宮の三社宮や氏子が話題になる。天神山には古墳時代の墳墓や戦国時代の城郭遺構があるが山陽自動車道に分断されていてすぐに踏査はできない。参道を下り待機組と合流。→足守川土手に出て道を向場にとる。新庄沖の家並み・田畑に眼をやり話が広がり、甫崎・向場山中の古墳群にも話題が移る。→予告無しの訪問ではあるが、途中にある彫刻家西平氏工房を訪れる。留守かもしれないと思いながら戸口に近づくとわれわれの声が聞こえたらしく先生が顔を出してくださる。寸時の見学をと告げると、「直弧文入り石障復刻紹介のパフレット」と「復刻見本の砂岩板」を持ち出され、パンフレットを全員に下さり、時間制限の無理な注文にも拘らず、笑顔で熱心に解説をして戴いた。此の成果を全国に報道していきたい先生の熱意ある意向に賛同の念を強くして途中までの見送りを謝して別れる。→この春の「古墳祭り除幕式」にそなえて、子供達を先頭に工房から造山古墳の駐車場まで修羅で運搬されたことを思い起こしながら駐車場に帰着。1155分、次回のことを確認して解散。歩数9,450歩余り。

 参加者がやや少なかったが、初冬ながら温暖な天候に恵まれ楽しいウオークを満喫できた。取り分け直弧文を復刻された西平先生から想外のご厚誼を受け恐縮の至りであった。氏の唱えられる「実験考古学」が、早々と学術界で認められ評価の多大ならんことを祈念したい。

 
 



112日(土)  井山宝福寺方面コース

 風水害の爪跡を残した台風も消え、このところ1週間は秋晴れの好天に恵まれ農家の収穫作業も順調に進んだ。今朝は、朝焼け雲が棚引き好天の兆しが窺がわれ、県南部の最高気温は22℃。絶好のウオーク日和を迎えた。
 午前9時、高松駅前に参加者20名が集合。例によって、準備体操をして行程の連絡確認。→922、総社行きに乗る。 938総社駅について表口に出る。トイレ休憩をとり出発。S氏の先達で市街を北進。吉備線、伯備線を跨いで門田地区に入る。→目指す蒔田藩浅尾陣屋跡へ西南の方向から向う。頂上近くに着いたところで陣屋のある浅尾の丘陵に上る道を一筋手前を登坂したことに気付き、畑仕事をしている老人に道筋を尋ねて進路を修正する。陣屋まで150mの標識を見つけて勇躍歩調が上がる。つづく100m50mの標識から登攀の遊歩道の石段を十数段上ると陣屋址碑の立つ台地に出る。案内板にある藩邸見取り図を見、さらに慶応二年(1886)の「倉敷浅尾騒動」について説明を読む。復元された銃眼のある土塀から大名の陣屋がこの地にあったことの認識を深める。本殿跡には稲荷神社が祀られている。ふと高松花房陣屋に稲荷神社が祀られていることが思い出される。時間の都合で崩れかけた元の土塀を捜してみるのを諦め、本殿を後に坂を下る。→門田市営団地の中を通って市道に出て伯備線沿いに北上す。11時前に臨済宗中本山井山宝福寺の山門前の広場に着く。トイレ休憩をとる。桜の小木に季節はずれの花が咲いているのに驚く。→1時間もあれば何とか往復できると予測して、権現岳を目指して出発。たまたま出くわした郵便屋さんに声を掛ながら城谷地区を通って秋葉山に通ずる参道に出る。しばらく行くと「権現岳登山口」の標識が建っている。道を折れ登坂に入る。今秋の度重なる雨に洗われ、坂の整地に使われている礫も流され、坂道に流水溝ができていて歩きにくい。足をとられそうになる。それでも健脚組みはドンドン先に行く。やがて先着組から到着の歓声が聞こえる。懸命に歩を速め、頂上の展望台に立つ。登坂のしんどさも一変に忘れ、眼下に広がる高梁川の流れと遥かに見渡せる市街近郊の景観に思わず声を揚げる。少年の頃、登ったことのあるY氏が、当時おじいさんから聞いた謎掛問答を披瀝して大爆笑。→登頂の喜びを満喫して山を下る。あれほど難渋に思えた坂道もいっこうに気にもならず、あっという間にアスファルトの参道に出る。山登りの醍醐味の余韻を胸に足軽に放談しながら南下。市営の宿舎「雪舟荘」の姿に、「思い出」と「将来」が錯綜する声が聞こえる。→12時前、精進料理割烹の「金亀」前の駐車場に着き、弁当を摂ることにする。境内の中では余りにもおこがましいので、上水道配水池園地に上って摂ることにする。見晴らしはよくないが芝生やベンチがあるので三々五々に分かれて弁当を開く。→歓談、食べ終わった所で早速出発。→園地を下りて宝福寺境内に入る。紅葉の名所ではあるが、今は、青葉が多くモミジの彩がいま少しと言ったところ。モミジの紅葉には今少しの寒気がほしいのだろう。三重の塔を背に記念写真を撮ることにする。きょうは塔の朱色が映える写真になるかもかもしれないとふと思う。孫づれのご夫人が進んでシャターを切ってくださる。「ご住職の奥さんだろうか」の声。此のお寺の山号になった「千尺井」に廻る。中を覗いて「深い深い」とおどける者がいる。この「落星」は「隕石か」と憶測してみる。小道を進むと樹下に黄緑のビロードの苔のじゅうたんが広がり、柔らかい日差しを受けて美しい。「仏殿」に入り「虚空菩薩像」を拝す。殿内には、「柱に縛られネズミを描いた雪舟の絵額」や「水呑の龍の天井絵」があり目を引く。寺域には禅宗様式の七堂伽藍が建つといわれるが、時間の関係で「方丈」「庫裏」「経蔵」などを粗に拝観するだけで寺を辞す。→寺の裏参道を下る。帰りの電車に乗るには余すところ50分弱。予定していた井神社・兼康神社の参詣を諦めて、井尻野の樋門からの幹線水路沿いの市道を南進する。懸命に4km弱の市道を互いに前後しながら、国道180号を渡り総社駅裏口に着く。1355発吉備線で1412高松駅無事帰着。駅前広場で次回のコース行程確認をして解散。歩数18,400余歩。
 好天に恵まれ、「遺跡」、「名刹」、「景観」を楽しむことができた。もう少しじっくり訪ねたかった思いは残るが、往く道を尋ねた人から帰りに声をかけられたり、心配気に後を追ってくる小学生に会ったりして、心が慰められる和やかなウオークができたと思う。 



 

105日(土) 矢掛町三谷、横谷方面

 東シナ海を北上している台風23号のため、雨の降りやすい予報通り、7時過ぎから小ぶりながら降り出す。県南の降水量は60%から80%だと報じている。小雨決行の実施方針ながら、出発からの雨降りでは、中止も止むを得ないかなと気遣いながら、雨具を着けて家を出る。
 830分の集合時刻に出席の会員に相談すると、予定コースを短縮しても実施することにしようと決まる。参加者総勢13名。土曜日のこと各地で諸行事が持たれ、そちらへの参加もあって今回はやや少数参加となった。→高松駅2番ホームに出て、856分の電車で総社に着き、井原線935分発の電車に乗る。始発駅からの乗車で会員同士の同席ができ歓談しきり。清音駅では接続列車からの乗客があり車中は満杯。高梁川を渡って真備町内に入ると一面の田園風景が開けてくる。ハッと気付くと収穫前の黄金の田圃に薄茶褐色の楕円形のウンカの被害を受けた稲田が続く。次々に続くその被害の多さに啞然とさせられ息を呑む。農家の悲嘆の声が耳元に迫る。此の被害対策は・・・農政は・・・マスコミは・・・との思いが走馬灯のように回わる。→定刻を少々遅れて「三谷駅」に着く。しばらく時間をとり雨対策を整えて出発。雨傘持参者が多く、傘さ差しのウオークになる。→小田川に架かる「三谷橋」を渡って県道282号線を南下。時間があれば寄ってみたいと思っていた「花房志摩守一族の墓」が祀られている妙泉寺が右手の山腹に寂然としてたたずんでいるのがうかがえたが、諦めざるをえない。県道倉敷成羽線の交差点で立ち止まると、今日訪問予定の豪壮な「白壁の福武家」や歴史を秘めた「猿掛城址」が雨中に霞んで見える。→町道に沿って更に南進する。遠くに「洞松寺」の重層の山門か見えてきたが、目指す観照寺が現れない。大きな民家の庭の整枝された松にみとれていると、「真言宗大日山観照寺」の案内標識が眼に入る。坂道を登り、石段を上がり山門をくぐる。予告なしの訪問のため遠慮しながら有名な「臥龍の梅」を拝観させてもらう。「木造大日如来坐像」が町指定の文化財であるが、本殿では改修会の準備のためご住職は忙しくされていた。樹齢300年の天然記念物の「サザンカの老木」を見ることもなく、挨拶もそこそこにして下山。→時間の都合で、「洞松寺」見学を諦めて、もと来た道を後戻りしながら、近道をたどって福武家住宅に向う。沿道の畑に目の覚めるような華麗な芙蓉の花が咲いていて心を和ませてくれる。正面の「長屋門」の前に立ち案内の説明板を読む。「天保七年(1836)庭瀬藩板倉領の大庄屋となり、在地の豪農として繁栄した」。見学の許可は得てはいたが、ここも時間の関係で邸内訪問は今回割愛。敷地面積が1400坪の邸宅は県指定の重文。以前二回邸内を見学したことがあったが、高塀越しに見える樹木や重層の石塔のたたずまいが記憶を甦らせる。邸内の見学は「矢掛大名行列の日」に一般公開されるとのこと。→土塀に沿って進むと、江戸時代に使われた高札場がある。今の掲示板からすれば、余りにも物々しく時代の政情が窺がえる。→雨も小降りになってはいるが、雨具は離せない。通行の少ない町道を水溜りや道端に散乱する栗殻等を避けながら進む。やがて福頼神社の参道口に着く。此の地で「吉備津彦命を祀る」由緒ある神社である。真偽のほどを穿鑿すれば疑問に思うことも多いいが、古くから地域の信仰は厚い。拝殿の「桃の神文」や県南唯一の「廻り舞台」を拝観したかったがここも割愛して、参道口からの拝礼。→明日の「市長選」の話をしながら、小田川に架かる「福頼橋」を渡って国道486号線に出て、歴史公園・吉備真備公園に向う。頃はよしちょうど12時を過ぎた頃になったので、先ず「館址亭」で名物のうどんを賞味することになる。食堂内は満席。弁当持参のものは「催し舞台」の軒下を借りて食事を摂る。「うどん」の喫食評価は極めてよい。食事が終わったところで、雨も殆ど止んできたので、「記念写真」を撮ることにする。高さ645mの「真備公銅像」の前に並んで、来園のお客にシャッタを切って貰う。→園内には真備公ゆかりのものが、所狭しと配置されている。「日時計」、「石造大碁盤」、「入唐絵詞石屏風」、「古代の丘と古代の石造物」、「産湯の井」、「藤棚」、「枝垂れ柳」等々。園内ゆかりの物を見ながら一巡して、吉備大臣宮に参拝して帰路につく。→旧山陽道の道をたどり三谷方面に向う。此の道筋はおよそ65年前、中高六年間かけて通学した道で懐かしい。戦中戦後の貧しい時代に、自転車のパンクを気遣いながら無舗装の道を通ったこと、冬に草履や下駄履きで足の指に凍傷を負ったこと等は、今では貴重な体験として思い出される。→猿掛城址をふり返りながら、道を上り詰めると、「下道氏の墓域」の案内板が立っている。アスファルトの急坂を上り、しばらく行くと最近建造されたらしい石段が30段ばかり続き広場に出る。国指定の墓域である。墓域の上手に真備公の祖母の骨臓器の入っていた「石造の棺」が立っている。骨臓器の蓋の銘文には、「銘下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨臓器故知後人明不可移破」とあり。年号や被葬者が分かる貴重な史料として国指定重文である。墓域の見学では、数名の健脚組が登坂しただけになったのが後からの反省点にもなった。→三谷駅近くに帰り着いたが、約1時間弱の時間があるので、希望者のみの圀勝寺探訪となる。道筋を忘れていておぼつか無いので地域の通行人に尋ねると、親切に「兼務のご住職さんなので留守中の参拝」の要領を説明してくれる。三面コンクリーの谷川沿いにゆるやかな坂道を上ると真新しい山門に着く。教えられた通り通用門を押すと、くぐり戸がわけなく開く。掃き清められている境内は、雨に清められ殊更に美しい。矢掛町重文の「ツバキ」を拝観。案内板に「樹齢300年、樹高8m」とある。花の咲く季節でないので、眼前に真赤な落花が敷きつめられた光景はないが、静寂の中でこれを連想するのも興を覚える。ツバキの樹の奥に、真備公祖母の御廟所・光助霊神宮のしょうしゃな社殿が見える。元禄12年(1699)に骨臓器が発見され、祭祀されてきた由来の看板がある。本物の骨臓器は国重文として県立博物館に保管されていて、ここにはレプリカが安置されていると聞く。本堂前に額ずき礼を述べて寺を後にする。道端の畑に、キュウリだか、ナスだか、カボチャだか、ヒョウタンだか分からない珍しい野菜が並べられている。品種改良を進め農産の向上を目指す農家魂が伝わってくる。下りの道は早く、20分もかからないで三谷駅に着く。休憩と身支度をして橋上のホームに出て、定刻1436分、車中の人となる。再びウンカにやられた田園の光景に愚痴る。総社駅で20分ばかりの待ち合わせがあり、次回の実施予定を確認して、吉備線に移り、1541分高松駅に帰着。駅に着いた頃からあいにく雨が降り出す。即座解散。歩数計約18,000歩。 天候が悪く、当日の行事が多く参加者の少ないウォークではあったが、見るべき内容も多く、距離もあり、健康づくりウォークとしては成功ではないかと思う。ウンカの被害がひどくて、どうするのかが頭の片隅についてはなれない。地域の支え合いと叡智がいっそう大切なことを痛感させられる。

 


 
 9月7日(土)惣爪、楯築コース

 9月に入って荒天続きで、東日本では以前耳にしたことの少ない「竜巻」が連日発生。予報では「前線の影響で、瀬戸内は全般に雲が多く昼過ぎから雨が降るだろう」とのこと、5時過ぎ庭石を見ると降雨の跡が見られたので、リュックに雨具を入れる。
 先月の反省から早めに家を出て小学校には一番乗り。集合時刻8時30分、参加者総勢17名。準備体操の後、コース確認をして出発。→校庭を出て、足守川左岸を南下。きょうは暦の上では二十四節季の「白露」の日。空に、田園に、どこと無く秋らしさが漂う吉備の野山を愛でながら、新黒住橋の手前から県道清音真金線の隧道を潜って土手上に出て更に南下。国指定文化財惣爪塔跡に着く。7月に見学した幡多廃寺の塔心礎の大きさには及ばないが、長径180cm・短径150cmの巨大な心礎の存在の謎が解明できる日をいつもながら思う。→来た道を200mばかり引き返して御野立所に上がる。惣爪長寿会(老人クラブ)の奉仕活動で、公園の草が刈られ気持ちよい。明治4311月、明治天皇が陸軍の演習を統監した所。軍国華やかな時代、住民揚げて記念碑を建設した。戦のない平和を切望する現今でありながら、此の先人の共同の奉仕精神だけは引き継がなければなるまい。→公園から再び土手道を南下。リュックを背負い自転車で追い越そうとする若者に声をかける。はっきり聞き取れないまま「頑張れよ」の声援を送る。名前ははっきりしないが足守川にかかる二つ目の橋を渡って右岸に出る。此の土手道は矢部から吉備津津島線に抜ける近道で、車の通行量が極めて多い。通行に気を配りながら日畑城址に着く。高松城水攻め期の境目七城の一つである。城主は日畑六郎左衛門景親だが、毛利方の加勢の将上原右衛門大夫元祐の裏切りによって落城した悲話が残る。大イチョウの下には「日幡城跡」と表記の石の標柱が立つ。城跡には上らず裾を迂回して、「大手公会堂」の前を通って町内の道を記憶を辿りながら進む。→道筋を迷いながらもすぐに丘陵の東側谷間の平地にある日畑廃寺跡につく。説明板と「赤井堂屋敷跡」の標柱が目に付く。寺域一帯の草が刈られ整備がなされている倉敷市指定の遺跡である。二子御堂奥窯跡に出土する備中独特の様式の瓦が使われていた白鳳時代の寺院である。→廃寺の裏手から舗装された坂道を登ると途中に小さな露出された横穴式石室の古墳の前に「赤井西三号古墳」の看板が立つ。→そこから蛇行しながら住宅地の中の坂道を登って行くと目指す王墓山古墳の覆屋に囲まれた白っぽい石棺が目に付く。足早に近づいていて久方ぶりに恋人に会うような気持ちで浪形貝殻石灰岩石棺の前に立つ。古代吉備の地で、67世紀の時期だけに寵愛され使われてきた此の組合せ式家型石棺について観察しようとすると、突然血に飢えたやぶ蚊の襲来を受ける。被葬者の怨念の悪戯でもあるまいが、早々に棺脇から体を避けざるを得なくなった。→石棺が埋葬されていた墳丘の上に立つと、東の吉備津方面に視界が広がる。大王が此の地を選んだわけが覗われる。墳丘脇の吾妻屋の休息所で小休止とするが、ここでも蚊の襲撃を受け早々に丘を下って庄パークヒルズ運動公園に出る。トイレ休憩をとり、小学生のミニソフトの練習を眺めながら声援を送る。→案内板の地図を見て、住宅地の中の舗装の道を右折左折しながら、次の丘陵の史跡公園の登坂口に着く。看板を背にして記念写真を撮る相談をするが、シャッターを切って貰える通行人も無さそうなので諦めて登坂に移る。→雨後の坂道なので注意を喚起しながら一列で進む。山頂の楯築遺跡への道は曇天のためやや薄暗く感ずるが、涼しくもある。木立のまばらになった所で、楯築神社の御神体である亀石(弧帯文石)が安置されている収蔵庫の建つ墳丘の端に登り着く。弧帯文様の刻まれた亀石を収蔵庫の覗き窓から覗く。薄暗い部屋の中ではあるが、窓口から入る明かりで、それとなく表面の様子が見て取れる。初めての人が順に好奇の目を輝かして覗く。収蔵庫の入口の扁額の字体を論じ合う。「万人に分かるように書いてほしいな」と愚痴る声が出る。→墳丘の頂上に出る。岡山大学の近藤義郎教授が昭和51年から二回・10年にわたって発掘調査したこの双方中円墳の弥生墳丘墓は余りにも有名である。現地に立つと今更のように、約800年前の此の地に、これだけの大規模な埋葬祭祀施設が作られたことは、当時の強大な首長の覇権力に驚かざるを得ない。中央の神社の中心石を囲んだ5つの立石の謎も話題にし、温羅伝説に及ぶ。→ちょうど倉敷から見学に来た若者に頼んで、墳丘の楯築神社を背にして、今回の記念写真を撮る。→墳丘を矢部方面に向けて下りる。途中の案内板の説明文を読んで、墳丘墓について学習を深める。→加茂地域に近い此の地は、自分の日ごろのウオーク道にしている会員もあって、難なく矢部の交差点に着き、旧山陽道に出る。→金毘羅と川辺の「道しるべ」の立つところを西にとって鯉喰神社に上がる。神社の拝殿を前に、祭神のこと、温羅伝説のこと、弥生墳丘墓のこと、そして平成11年に姫路方面から来た若者が発見した弧帯文石の小破片について話して神社を後にする。→加茂小に向けて帰路につく。県道清音真金線に出て、横断を渡る時に差ができ、新黒住橋を渡って左岸を北上するものと、右岸から黒住橋を渡って北上するものの二手になる。土手に飛び交う珍しい黒いアゲハを見て、此の辺りの足守川岸には蝶の好きな草があることなどを話す。小学校に11時半前に帰着。整理体操の後、来月のウオークの相談確認をして解散。
 歩数約10,000歩。連日の異常気象の後で天気の心配もあったが、途中であった小雨はむしろ凌ぎよさにさえ感じた、ウオーク範囲を近距離に絞って実施したために、文化遺産を辿って楽しみながら田園地帯をゆっくりとウオークすることができたように思う。
 

8月3日 新庄、長良方面コース

 連日の猛暑日。全国各地で熱中症患者が続出。紙上の天気予報では、「3日の瀬戸内は、湿った空気の影響で雲が広がりやすく、昼間の気温は30度を越えるところが多い」とのこと。雷雨に慌てた昨日までの天気からすれば、八月にしては幸運なウオーク日和だ。
 早朝4時半過ぎには起床していたものの、大失敗をしでかしてしまう。悲しいかな集合時刻を30分間違えて家を出る。725分、庚申山駐車場に到着。準備体操も済ませて待っていてくれた会員に面目ない。「無責任にも程がある」。厳しい眼差しに対峙しながら、予定の「帝釈天参拝」を割愛し、コース確認をして出発。新人W氏を入れて総勢20名。→舗装の庚申山参道を北に折れ、姫子たわを降って赤浜地域に出る。→耕地整理の行き届いた赤浜の稲田は青く広い。目指す長良山が遠く映える。→画聖雪舟生誕地が稲田に浮島のように望まれる。持参のお茶を口にしながら、十二ケ郷用水路の本流前川の堤防に出る。川原に造られた公園はあまり利用されて無い様子だ。→前川にかかる歩道橋を渡って国道180号線の側道に出て、横断歩道を渡り、旧道に入る。→西進して長良東谷公会堂を過ぎて、いよいよ長良山登坂にかかる。金毘羅大権現の参道に廻って、石槌神社に通ずる急峻な石段を敷設の手摺と杖を頼りに登る。道を左折してやや緩やかな坂道を上り詰めると神社の境内に出る。ここは天正十年の高松合戦に参加した禰屋親光の長良山城南の曲輪址である。境内はきれいに除草されていて夏草は見当たられない。神社の前側手には、昭和五年十二月十三日にあった陸軍大演習を雨の中で天皇陛下が統監したことを記念する駐蹄の碑が建っている。境内の一角に設けてある広い吾妻屋に腰を下ろして小休止とする。→標高約30mの山上の空気は肌に気持ちよい。「遊歩道」の看板のある北に通ずる下り道には、山道にある筈の常の草がない。ヘビの出る道を予想していた者もあったが、杞憂で済む。→名前の判らない樹木の茂る鞍部の地肌道を300mほど進むと、八幡神社の境内に出る。ここは長良山城の北の曲輪址に当たる。隋神門をくぐり拝殿に二礼二拍手一礼して額ずく。境内には摂社が数社祀られている。南の曲輪と同じく見晴らしが素晴らしい。近くにある県立大学の校舎はもちろん、総社市の中心街が指呼の間に映る。本殿の後ろは垂直な斜面になっていて城址の遺構の石垣が見える。→境内を出て鼻歌交じりの談笑で遊歩道を下っているうちに、うっかり標識を見過ごして進路を誤る。気付いた時には長良山の北端に降り立っていた。いまさら引き返すわけにもいかず。山麓の広い舗装道路を辿って進む。数名の道掃除をしている人に声をかけると、「県立大学を守る会」のボラティアの人達だという返事。感謝の言葉を告げて先に進む。→広大な構えの家並みが続く。棚作りのゴーヤの大きいのには驚く。種類や施肥の技を憶測する。→行く手に目指す菊水の井戸が目に入りホッとする。備中三名水の一つ。伏見天皇(1288)即位の大嘗会のとき詠まれた歌「汲む人の よはいもさそな 長月や 長良の川の 菊のした水」の碑が立つ。碑に刻まれた歌を解読したり、飲料水にはしないでという警告文を詠む。硝酸性窒素分がかなり含まれているらしい。此の名水の井戸から北西600mの所、県立大学の東側の道沿いに裏菊水(清水の井戸)がある。次回の訪問を期したい。→この後、予定のコースとしては、高松田中の雪舟の生誕碑のある新福寺へ廻るつもりでいたが、暑気の厳しさも増し、疲労も覚えてきたので、砂川を南下にして帰路に転ずるコースに切り替える。砂川の橋を渡り左岸の道下を往く。最近完成され稼動している流通倉庫Global Logistic Properties の巨大な5階建のビルが目を引く。最近、某紙に此の企業進出で地域の雇用が伸びたと言う記事が載っていたのを思い出したが、外から目にする限りでは、従業員の動きは全く感じられない。大企業の誘致の条件としては、高速道路からの距離が問題になるらしいが、岡山市はどうなんだろう。名案は? →スピードを上げた車の行き交う国道180号線側道に出て東進、岡山自動車道の下を通って矢喰宮に着く。吉備津彦命の矢と温羅の投げた岩が空中で激突して落ちた所に宮を建て祀っているという伝説の地。境内には巨大な花崗岩が散在する。温羅伝説の説明板が有り、鳥居の先には石橋が架かっており、石垣で囲まれた境内には、拝殿と本殿が建つ。天満宮を合祀してあって矢喰天満宮とも呼ぶ。巧妙な古代吉備の伝説に今更感服させられる。今回の記念写真を此の地で撮ることにする。→神社に別れを告げ、国道180線下の隧道を潜って高速道の側道を南下して前川の左岸堤防に移り、前川に架かる橋を渡る。うなぎの棲息地やきょうの「土用の丑の日」を話題にしながら赤浜地区に入る。戦国時代の岩崎山城主赤浜新之丞の館跡として調査がなされた高まりの土地がはっきりしないのに気付く。庚申山斜面の崩落防止のために総社市が土木工事を進めているのが目に留る。庚申山参道に帰着する頃には大幅に隊列が伸びていた。10時前、無事帰着。次回を確認解散。約11,900歩。
 猛暑日の予報の中、曇りがちな空模様で気温も比較的低めに推移してくれ、コースを長良方面に延長したので新しい発見もあり、近距離内で比較的ゆっくりと見学できたのではなかろか。それにしても今回は、会員に迷惑をかけ、その温情に支えられて完遂できたのを深く自戒しなければならない。

 


76日 庭瀬、撫川コース

 予報では蒸し暑い雲の多い天気。正午の岡山の気温は328度。熱中症等の健康管理が必要とのこと。幅広の帽子や冷茶を用意してS氏の車に4人が同乗して、木堂記念館駐車場に向う。
 既に、十数名のものが集まっていた。役員は出席確認や先月の記念写真を渡す作業に取り掛かる。
参加者は新人S氏を入れて23名。730、準備体操のあとコース確認と熱射対策を喚起して出発。
 →早朝の空気は清清しくて足取りも軽い。犬養家の墓所に寄る。515事件で倒れた木堂翁や一族の活躍を偲ぶ。→川入の川筋の道を南下する。約束の時間を気にしながらの進行は、つい路を違えて田圃のあぜ道に出る。運よく道筋を見つけて約束の時刻より早く、800庭瀬公民館に到着。
 待ち時間を使って、公民館前の階段に並んで記念写真を撮る。→「吉備・陵南観光ガイド」の香田・曾我の両氏が来られ、館内に入室。トイレを借り、撫川うちわの展示ケースを覗き、挨拶のあと男女の二班に分かれ出発。→旧国道2号線を渡って庭瀬往来に着き、東回り西回り別れる。男子班は岡山方面に向けて東進。往来の佇まいを見ながら、漆喰塗の連子窓や格子窓のある薬屋、味噌・麹屋などの商家の町並みの状況について聴く。→暫らく往来を進み、南に折れ旧庭瀬港に出て、大手門跡の角を曲がり東進する。埋め立てられていた部分の歩道は新に石畳風に舗装されている。かつては、瀬戸内海を航行する200石積みの舟が出入りし、港町が形成され、商業・交通の中心地として栄えた港だ。雁木跡や出土した天秤石が保存されている。台風によって倒壊され、平成19年に再建された常夜灯は、「こどもたちに夢をファジアーノ岡山」の幟に囲まれていた。→南下して清水山松林寺境内に入る。別峰大珠円光国師の創建で、元禄15年(1702)には庭瀬藩主板倉家の菩提寺となっている。県指定重文の「絹本着色国師頂相(像画)」が寺宝として保存されている。板倉家の位牌堂を開帳していただき、説明を聞く。屋根改修の本堂の左手には無鐘の立派な鐘楼が歴史を語りかけてくれる。銘入りの鬼瓦数個が倉庫の軒下に並べてある。勧請されて祀られている大神宮の由来について聞く。→さらに南下して水路にかかる石橋を渡って、日蓮宗覚如山不変院に入る。庭瀬藩戸川家の菩提所として開基されたが、元禄12年に板倉候が入封されてからは、法灯は継承され今日に及んでいる。二基の藩主の墓と戸川家累代の墓が祀られている。寺の鎮守として八幡大菩薩の本殿・幣殿・拝殿・鳥居等が建立されている。→南の門を出て西進して庭瀬城の堀筋を進みながら庭瀬城の城主や城構えを聞く。城址の地域に板倉藩祖とその子を祀る清山神社がある。宝物は甲冑・天皇筆色紙など40点にも及ぶ。丸池の中ノ島には弁天宮社。→濠堀には有名な大賀博士の発見された「2,000年はす」が栽培されているが杭鉢の中の花弁は遠目にははっきり見とれない。→二つの城を繋ぐ濠堀の橋を渡って西進し、「撫川うちわ再興の地」とされる故坂根氏の住宅(旧侍屋敷)に着く。説明板を読む。→明治になって移築されたという撫川知行所総門を潜って撫川城址に入る。城址の案内板を前にして城の歴史を聞く。→城址を出て「沼城」の石垣の見える西側に廻る。天正14年(1586)頃宇喜多氏の重臣・岡利勝が築城。堅牢な野面積みの石垣は一部当時の姿で残されている。県指定史跡第1号である。野面積みの工法の特徴を図面で示しながら香田氏は熱っぽく語ってくれる。一方近年の公工事で石垣の石が流用された噂話も付け加えられた。→鴨方往来からの北側の大手門の石橋は近年の通行に合わせて僅か拡幅されているのが分かる。→北進して庭瀬往来に出ると、油の商売で財を成した豪商吉岡屋の屋敷前に、「金毘羅」「吉備津」を案内する狭川町道標がある。上部に扇子を手にしてその方向を示している浮き彫りがあり、寄進者吉岡屋と石工徳松の名前が刻んである。→道標の向かい側の水路には吉岡屋の船着場址があり、水路の奥には航海安全の祈願所住吉神社が祀られている。→往来を岡山方面に東進すると、沿道に「町並み歴史ギャラリー」と呼ぶ石製のベンチが歩道部に配置されて、その座面には地区内の遺構・遺跡などを紹介するパネルがはめ込んである。残念ながら、時間の都合で瞥見しながらの通過になってしまう。→前回ウオークできた時には改修建立中であった金華山観音院の山門は、木の香も匂う新しい姿に変わっている。大正・昭和の初め頃には、裸祭りが執行されていたとのこと。→東進すると、沿道水路の石垣に扇形の石を等間隔に配置してあるのが見かけられる。某医院の趣向の石垣とのこと。→境目川の樋門の所に着く。そこからすぐの所に、撫川寄り北側の橋詰めにあった常夜灯が移設されている法正山信城寺がある。境内には入らないが、本殿前の一角に宝塔があるのが目に付く。→二時間ほどの巡回見学のあと集発地点に戻り、旧国道2号線に出て庭瀬公民館に帰着。館内で別班の帰りを待つ間、「撫川うちわ」の陳列ケースの製品や製法・用具をみて製作について尋ねたり、壁面に掲げられている扁額や絵額を観賞したりしで暫時休息をとる。→全員が揃った所で、ガイドのご両人や職員に礼を述べて出発。帰りは別コースを通って帰ることにしたが、急ぐ余りに先達の自分の判断ミスで思わぬ遠回りになってしまう。残念ながら、帰途に寄りたかった「三玉宮」には行くことができなかった。→木堂生家に着き、受付を済ませ記念館へと向う。「木堂塾」の和室では商科大学留学生が座禅と茶道の体験研修を行っていた。記念館ロビーで館長さんの挨拶と説明を受ける。木堂翁が首相に就任された時、支持者が臨時列車を仕立てて上京し、官邸前で約500名のものが記念写真を撮っているパネルを見ると、いつもながらその熱気に驚く。20分ばかりのご案内をというこちらの注文に対して、館長さんは要領よく充実した解説案内をして下さった。ふと凶弾に倒れた515事件の時代の誤道は避けなければならないと痛感しながら館を出る。 →1115分駐車場に帰着。次回の集合時刻・場所を確認して解散。歩数12,000歩余り。
 暑気の厳しい天候ではあったが、帰着の駐車場では田園を渡って来る微風を受け、頬に快感を覚えた。ガイドさんの熱弁に持参の飲み物も口にできなかったという声もあったが、近世から近代にかけての遺跡や文化財の多い地域であることをあらためて知らされ、充実したウオークになった。

 
 

61日(土) 操山縦走コース

 気象庁の予報では例年より11日早い梅雨入り、本格的ではないにしろぐずついた天候が連日続いてきた。役員間の相談では、午前7時の天候で実施かどうかを決めることにしていたが、早朝5時には、「岡山南部は全般的に雲が多く、夕方からは雨が降る見込み。昼間の最高気温は25度を少し越えるくらいだろう。」との予報。不安解消、この時期にしては絶好のウオーク日となる。
 午前8時高松駅集合。参加者21名。駅前の広場で体操の後、829分発の岡山行きの電車に乗車。岡山駅で自由行動時間をとり、桃太郎像の前から920分市電に乗車。20分ほどで東山電停に到着。→電停から東山公園内に上がり、境道を跨いで玉井宮東照宮参道に入る。常夜灯、狛犬と岡山大空襲の時一部破損したという鳥居を潜り石段の参道を登り、由緒説明板を読んで正面参道に入る。正保2年(1645)東照宮が勧進され、明治14年には玉井宮と東照宮が合祀されたという。二の大鳥居からの参道の両脇には、りっぱな大型の灯篭が続く。随神門を潜ると参道沿いに、「天満宮」「坂中荒神社」が祀られている。拝殿の前には、献納された「さざれ石」がある。拝殿に額ずくと今年の干支の「へび」の置物が口をあけて宣託を語りかけてくる。二礼二拍手一礼。→裏参道を下って県道岡山牛窓線に出て横断歩道を渡り、市道に下りて操山自然休養林表口に上り着く。案内板を見ながら、本日の縦走コースと登坂の心得を確認して右回りの道をとって進む。→最初の急坂には枯れ落葉が多く、足元にきつい負荷がかかる。杖を忘れたものは道端の小枝を手にする。200m余りで合流地点に着き一息つく。毎日この山道をウオークコースにしているという老人に会い語り掛けると英語で応える。訳を聞くと「脳の活性化」を願って敢えて努めているのだとのこと、思わず握手となる。→坂道はやや緩やかになって登り易くなる。300mばかり進むと前方が開けて三勳神社跡地の広場に出る。霞んではいるものの岡山市街が俯瞰でき、思わず異口同音に歓声を揚げる。明治8年(1875)和気清麻呂、児島高徳、楠木正行の三人を祭神として、社殿が建てられ祀られたが、昭和22年玉井宮東照宮境内に遷座されている。夜景が美しく名所の一つである。→10分ばかりの休息の後出発。尾根を行くカナメモチのトンネル道も途中から丸木の階段の急坂になる。やがてなだらかな山道に出て、標高169mの操山山頂に着く。しばらく休息をとり、案内板を読み三角点を確認する。→山頂から下り道を200mばかり進むと萩の塚古墳にぶつかる。操山9号墳で円墳。墳丘は剥落され羨道部の一部には天井石は無く縮小されてはいるが、石室は横穴式で長さ8.2m、幅1.9m、高さ1.9mと推定されている。室内を覗くと、石組の石がいわくありげに黒ずんでいる。→古墳は稜線の先端に築かれていて、そこからは急坂の下り道になる。用心しながら200mばかり降ると、再び上り道になる。舌状に北に伸びた尾根を登ってゆく。堀切と思われる羨部を通って急坂を登りつめると明善寺城跡の広場に出る。北に面した一角に展望台が設けてある。休息をとりながら、浮喜多直家が正攻法で敵に当たり、最も華々しい勝利を収めた明善寺合戦を話題にする。先月備中松山城で視たビデオのことをY氏が出す。展望台から百間川側の市街の眺望は樹木に遮られて今一つ。→城の搦め手から下山になる。枯葉に埋もれた急坂は脚もとが危ない。声をかけ合いながら蛇行の小径を慎重に下る。200mばかり進むと破竹の藪に沿った道になる。竹の種類や竹酢の話をしている内に人家の屋根が見えてくる。黄色い花が沿道に咲き誇って美しい。やがて恩徳寺の屋根が見えてくると、柵のあるアスファルト路に変わる。横門から恐る恐る境内に入る。本堂の裏手奥の三棹山の聖地に祀られている最上竪巌稲荷の社殿が新緑に映えて目を惹く。本堂の柱に中国49薬師8番札所、備前薬師8番札所、備前最上稲荷霊場札所の表札が掲げられている。境内には大師堂、鐘楼、金裕稲荷大明神社、客殿、庫裡などがあり、高い二層の三門の前に灯篭、狛犬がある。→山門から100mも行くと、里山センターに通ずるアスファルトの自動車道に出る。沿道に立つセンターの案内板を目にすると、勇躍足取りが軽くなる。午前1140分、石段を登ってセンタ正面に着く。職員の方に来訪を告げ、記念写真のシャッターを切って貰う。→予約していたボランティア室に案内されたが、室外の豊かな新緑の景観を愛でながら食事をするほうがよいという総意で、室外のベランダのテーブルに着き弁当を拡げて歓談会食。食後12時半過ぎ、13時までセンター内の設備や展示物を自由に見学する時間にする。たまたま「岡山ハイキングの会」の行事日に重なっていて、居合わせた会員から「会の活動」や「本日の活動内容」について聞く。チャーターのバス利用で曹源寺に着き、操山を縦走してセンター内で昼食。午後1時からセンター内の多目的ホールで「ウオークの心得」等を学習してバスで岡山駅まで帰るとのこと。成る程と羨望する。センター内を見学中、ばったりAさんに会う。多目的ホールを瞥見すると50名ばかりの会員が席について歓談していた。棟の中心の254㎡の『ふれあいスペース』には、操山に関する情報・書物・展示物が、間仕切りをして、階上まで所狭しと、陳列公開されている。以前入館して観ていたものの足早に「古墳群」等を閲覧して時間を過ごす。→13時、職員の人に高島駅までのコースを確認して出発。車道に出て北進。蓮池・沢田大池に沿って歩いていると食用蛙の牛声がする。最近では聞いていないので懐かしい気がする。沢田柿の産地であるこの沿道の畑には、整枝された柿木に青い小さな果実が沢山着果しているのが目に付く。たちまち柿の木の剪定法の話になる。→百間川の土手までは下り道のせいか意外に早く着く。土手に上がり沢田橋に出る。歩くとなると川幅が意外と長く感じられる。眼下の川原に広く伸びるスポーツ施設を羨ましく眺めながら渡る。→左岸に出て土手下の道から車道沿いに藤原地区に入り、主要県道96号線(岡山赤穂線)沿いに北上する。赤田・清水のバスストップ辺りで最後の訪問地幡多廃寺塔跡を道行く人に尋ねるが、全て『No』の返事が返る。やがて山陽本線の線路が見える所まで進んでしまう。思い切って路地に入って民家の婦人に訪ねて聞くが、要領を得ない返事が返ってくるので、がむしゃらに地図で確認して来た方角に進む。アパートの一角に出て探していると、幸いにも柵越しから遥か向こうに露出している巨大な塔心礎が見つかる。アパートの住民に構わず、大声でみんなを呼び寄せる。岡山県下最大という塔心礎は、遠目にも惣爪塔の心礎の比ではない事が分かる。すぐ傍で説明板を読むことは出来なかったものの、溜飲がすうーと下りた気持ちで帰りの歩調が軽くなった。→高島駅乗車、岡山駅では30分近くの待ち合わせ時間をとりながらも、予定より一電車早く1442分高松駅に無事帰着。駅前の広場で次回のコースを確認して解散。歩数14,700歩余り。 心配していた天候には恵まれ、初めての人との楽しい触れ合いもできて幸せな思いで一杯だ。更に吉備線の車中で、吉備津神社の弓道競技大会に参加する古城池高校生一同に、席を譲ってもらった感激が心地よく老身に甦る。 

 

 

511日  高梁市街・松山城コース

1週間前には雨天の予報であったが、1日早くきのうから降り出した雨も小止みする中を自転車を飛ばす。740分、駅にはY氏が1人来ていた。土曜日のこと乗客は少なく待合室は我われ一行で埋まる。集合時刻の8時に出遅れるものもいたが、予定の参加者19名が揃った所でホームに出る。
829分、総社行きの電車に乗る。車中では、来月のコースの打ち合わせをする。車窓越しに見える沿線の雨上がりの新緑は、心も洗われるほどのえもいわれぬ美しさだ。912分、高梁駅に着く。改札を出て、ロッカーに荷物の一部を預け、待ち受けていたマイクロ、タクシーに分乗。→ドライバーのガイドを聞きながら城見通りを通って、尾根小屋のあった高梁高校前を流れる小高下谷川の渓流に沿って中州(三島)公園を過ぎ城見公園に近づくと、真向かいに二十数体の鯉幟が流されていた。急坂を蛇行しながら一気に上る。雨上がりの霧に包まれた山並みが幻想的に映るのはよいものの、下界の眺望が遮られるのがやや残念。15分余りで終点の鞴(ふいご)峠に着く。城の御社壇に納める宝剣を作った場所から名付けられたという。トイレ休憩をとりながら、説明看板図を読んで進路を確認。→雨に洗われた舗装の坂道を進むと、鶯が達者な美しい声で迎えてくれる。やがて舗装が切れた坂道を踏みしめ周囲の新緑に感嘆の声をかけながら登る。海抜約430mの臥牛山頂の登城道はさすがに厳しい。一所懸命に生きた武家社会の厳しさが足元から伝わってくる。大手門跡に着く。天然の岩盤に石垣を築き、更に土塀を建造した戦時の急峻な防壁が意表をつく姿で迫る。日本建築の最高傑作の雄姿がしっとりとした新緑に映え、その美しさに驚嘆する。→石段を登ると銃眼のある白壁の重要文化財の土塀が続く。御膳棚で用便を済ませ二の丸広場に出る。本丸の櫓建物と天守閣櫓の雄姿が新緑の木立に囲まれ一幅の絵として映る。即座にきょうの記念写真の場所と決める。→本丸に上がり平櫓の中の受付で入館料を払い、室内のビデオで「備中兵乱」、「松山城修復」、「頼久寺」の解説を視聴し、展示物を見る。→戸外に出て、八の平櫓跡の脇を通って、いよいよ天守閣内に入る。日本で最も高い天守閣は篭城戦に備えて囲炉裏や装束の間が設けられており、二階には御社壇(神棚)があるのが特徴とされている。展示ケースには修復の時に残された部材や瓦が展示されており、解説の看板が立っている。築城主は秋葉重信。築城は1240年。歴代城主の内、12代の水谷家は城の大修復を行い治世にも優れていたが、残念ながら三代で無嗣改易。その時播州赤穂の浅野家の家老大石内蔵助が城受け取りに来たのは有名な話。15代板倉家の板倉勝静は山田方谷を登用し藩政改革を行い成功し、幕末の老中首座を務め戊辰戦争では慶喜と行動を共にする。→11時になり二の丸広場に下り昼食にする。折り悪く木陰では霧雨の雨滴が落ちてくるので、そこを避けて広場に設置されているテーブルや休息場に分散して、30分間ほどの会食休憩の後、天守閣をバックに記念写真を撮る。→広場の西隅で霧間から覗かれる高梁市街を俯瞰して下山にかかる。再び、大手門跡の前面に聳える城壁に暫らく足をとどめ、先に進む。大石内蔵助も通った旧登城道を下ることにする。坂道を下るのは容易な場合もあろうが、この度の坂道は小石も多くおまけに雨で濡れた落ち葉道で予期しない厳しさがある。左手に見えるはずの中太鼓櫓跡も気付かず夢中で降る。鞴峠横まで降りて、再び広場に寄りトイレ休憩にする。→杖置きの籠から適当な竹杖を借りて最後尾から出発。僅かの距離を下って急坂の下山の難しさに気付く。石段の段差がかなり広いのと濡れ落ち葉の土路は滑り易い。リュックを片手に竹杖で下りていたS氏が足を取られて倒れる。予想外の難しさに危険を感じ、周りの人の介助が始まる。先頭集団より遅れながら声を掛け合い、足取りを確かめながらゆっくりと下る。十数年前に下山した記憶は違った認識になっていたのに気付く。下山は速く楽だという一般認識で判断していた計画の甘さがあった。下見には来たが、下山コースのこの降りの坂道を安易に考えて省略していた。急坂で400mの距離は健脚の者なら容易でも、70歳代の高齢の会員のいることに思いが至らなかったための失策だ。大石内蔵助の腰掛岩は、標識も無くよく分からなかった。路傍に倒れた標識も文字が消えかけて読めない。麓近くになって大阪から来たという登坂グループに会う。小高下谷川に出る手前の広場で先発の者が待っていてくれた。K氏はここから夫人とタクシーで早く帰ることになる。→遊歩道口から川沿いの道を御茶屋橋の前を通って石火矢町ふるさと村通りを行く。旧折井家・旧埴原家は任意の入館予定だったが希望者がなく、通りからの見学となる。旧折井家は天保年間(170年前)200石前後の武士の屋敷。通りに面して修復されている漆喰壁の長屋門が見える。奥には書院造の母屋と池の在る庭、資料館があるとのこと。一方旧埴原家は通りに面して平屋門があり、左手に二階建ての建物が目を惹く。江戸中後期の150石程の武家の屋敷。藩主の生母の実家でもあったため、武家屋敷としては珍しい寺院建築や数奇屋風の造のある珍しい建物として市の重要文化財。→通りを南進して頼久寺に向う。有名な寺だけに会員の中には、昨年来たばかりの者もいて任意参拝となる。寺は臨済宗永源寺派。松山城主五代上野家の頼久公は、寺観を一新した。公の逝去後、その功績で寺号を安国頼久寺に改称。境内に入ると「頼むこと久しき寺の林泉になびくいみじき秋の霧かな」と、与謝野昌子の歌碑がある。入館料を払って庭園の見える書院の廊下に腰を下ろす。スピーカーから流れる解説を聞く。静寂の一時。小堀遠州の作庭として名高い庭は一点の隙もないほどに整備されている。蓬莱式枯山水の庭園の波濤が心を落ち着かせ、青海波の鮮やかな新緑のサツキは心を和らげてくれる。借景の愛宕山は霧も薄れ程よい景観に映る。本殿に廻り参拝下山。→門前で待機の者と合流し、三案を提示して、乗車までの時間を各自で過ごすことにする。高梁歴史美術館で「山田方谷」の特別展が開催期間中なので、そちらのコースにする。駅前を通過してガイドマップを頼りに行くが思わぬ迂回路を経て館に到着。モダンな交流館の二階の美術館展示室には、方谷の書の軸装が何幅も展示されていて暫時の時間では鑑賞しきれない。文化5年方谷4歳の時の書「天下太平」は余りにも有名であるが展示の中には見当たらなかった。儒学者方谷の漢詩や書状は各地に多く残されている。常設展示室には、松山城の歴史に関わる「戦国大名三村家」、「小堀遠州」、「松山城主水谷家」、「山田方谷」などのコーナー展示がしてある。→帰りの時刻を気にしながら最短距離を通って約束の2時30分に駅構内に帰着。コーヒーショップでゆっくり談話を楽しんだ者が多かった。電車の入構を見届け乗車。252分発で総社を経由して341分高松駅無事帰着。次回を確認して解散。歩数約13,000歩。
 心配していた天候には幸いされ、雲海の松山城に登坂・見学できたが、下山の認識の甘さを反省させられたウオークになった。しかし、仲間の絆の支えを間近にして、感謝の気持ちでいっぱいの喜びで胸が熱くなった。

 
 
 413日 半田山植物園・法界院・三野公園コース

 早朝533分、淡路島付近を震源とするM63と推定される地震が発生。阪神大震災以降では最も大きな地震だ。岡山は震度4。既に起床はしていたので、その揺れの治まるのを待ってテレビを見ると、既に画面に周辺の広範囲の地震の様子が報道されていた。その対応の早いのには感心させられた。それからは、NHKではテレビもラジオも地震の報道に集中。充電中の携帯電話は、気象庁の「緊急地震速報」を受けて、緊急発光で地震発生の報せを電送していた。次々に発表される放送局からの報道を聴きながら、急ぎ朝食を摂る。
準備を整え集合時刻に合わせて、8時過ぎ家を出る。天気予報では、気温は平年を下回るが、雨雲は速く通過するので日中は行楽日和になるとのこと。自転車を飛ばして高松駅まで行き驚く。JR各線が一時運行を見合わせ、大幅にダイヤが乱れていた。我われの対応も混乱する。結論的には、その時点では不通だと予告されていた津山線も正常ダイヤに復帰して、予定の時刻935分に法界院駅に下車することができた。
駅前の広場に参加者全員が揃った所で挨拶を交わし、今日の予定コースを確認して出発。→県道27号線を横断して東進。神宮寺山古墳の前方部から後円部に沿う道を西川合同用水に出る。南下して天計神社の鳥居をくぐって本殿のある後円部約13mの頂上に登る。この古墳は、4世紀から5世紀初頭に旭川下流の豊かな平野を統治していた大酋長の墓と推定されている。神社の社殿の下に縦穴石室の天井石が露呈しているといわれているが、今では社殿の腰板に遮られて直接見ることはできなかった。後円部から前方部を俯瞰して後円部を鉢巻状に走る小道を下ってもと来た西川用水に出る。→御野幼稚園の前を通って宇喜多秀家によって川向こうの竹田地区から現地に遷宮されたと言われる御崎神社の角を曲がって、旭川土手沿いに伸びる市道脇の歩道を北上する。淡紅の葉桜に移った土手沿いの桜並木が陽光に映えて美しい。→土手道を下り三野浄水場の塀沿いに進んで、正面の番所に来訪を告げ、赤レンガ壁の洋風建築の水道記念館に入る。『水の性質』・『水道』・『岡山の水』の3つのテーマで様々なコーナーに分かれて、工夫された説明展示がなされていた。最後に、全員揃ってウオーターシアターで『水の都岡山、再発見』の映画を見せてもらって退館。浄水能力一日800?浄水場敷地内には樹木が散在していて気持ちが和む。→県道27号線とJR津山線を渡って半田山植物園に着く。正面ゲートで入園手続きを取り園内に入り、園内での見学行動の確認をする。桜の満開時期は過ぎたものの、園全体が春の多種多彩な花や樹木の生気に包まれ、心が弾む。石段に並んで記念写真を撮る。その後、三々五々に分かれて持参の別当を開いて歓談会食。食後、頂上の一本松古墳に上る。全長65m、後円部径43m。前方部が低小な帆立貝式古墳。後円部の中央は窪地になっているが、竪穴式石室があって鉄製の武具・鍜治具などが出土している。周辺を一巡。桜や紅葉以外は雑木が無く整備され、岡山市街が眺望できる。集合時刻の1230分に間近くなり、約束の植物園会館前の広場を目指して一斉に一直線に階段を駆け下る。全員の集合を待って園外に出る。→三野出身のM氏を先頭に金剛山遍照寺法界院に向う。先達よく意外に早く山門前に着く。二層の見事な山門を潜って石段を登ると中門があり、その先に広大な境内と重厚な本堂が立つ。伝承では天平の頃報恩大師により備前四十八か寺の一つとして開基されたとのこと。秘仏とされる木造聖観音菩薩立像は国指定の重要文化財である。中国三十三観音霊場第五番札所のこの寺へは、かつて御朱印を頂にお参りしたことがあったのをふと思い出す。→通用口から三野公園を目指す。天神社の鳥居を潜って参道を登り公園山頂に着く。この地は戦国時代の妙見山城「別名鑵子(かんす)の釣(つる)城」跡であるが、眺望の良さから昭和10年頃地元の議員小合金光氏の尽力で公園となり、岡山県下十勝地の一つに指定されてきた。盛りを過ぎた大小の桜の木が散在して立つが、やや寂れた感じがする。20分ばかりの休息時間をとる。旭川、龍の口山塊の見える東側で、設置されているあずまや下のベンチに腰を掛けたり、木陰に寄って談笑。山上の陽春の空気は美味しい。→正面の登り坂を下る。アスファルトの坂道には、ところどころ石段部がありヘヤピンカーブを夢中で降る。間も無く、県道27号線に出る。そこから法界院駅を目差して南下。駅までの距離は意外に長く感じられた。駅に着くと予定より早い電車に間に合いそうなのが分かり、急遽それに乗車することになり後尾のものを急かしながらホームにでる。車掌に断りながら全員がかろうじて乗車。車内は満員であったが、会社の研修旅行からの帰りの女子社員数名が座席を譲ってくれる。熱いものを感じて、礼の言葉をかける。岡山駅に着くと発車までに少々時間があるので、雑談、買い物、コーヒーショップに入るなどして発車を待つ。242分、一電車早く高松駅に無事帰着する。挨拶解散。歩数約12,100歩。
今回は、早朝の地震で突発事故の多いい日のウオークではあったが、日和に恵まれ、各訪問地で楽しい学習ができた。そして多くの人の温かい人情に接し、心温まる思いを深くした。