平成24年度 加茂健康づくりウォーク記 by三垣 

39日 加茂コース

 今回は、「公民館開館40周年記念&食と環境フェア第10回記念祭」の行事のため、1週遅らせて実施することになる。天気予報では、5日前から上昇を続けている気温が最高20度にもなるという。今年一番の暖かい日だが、中国大陸からは黄砂が飛来、スギ花粉も多く飛散とやや気象条件は悪い。薄曇に似た空を仰ぎながら自転車を飛ばす。公民館には、本日開催の「東北復興支援チャリティーコンサート」の世話人の顔が既に見受けられる。

8時半、参加者17名。総会日にもかかわらず各地の諸行事に参加する者もいて意外と少数。準備体操の後、コース確認をして、所要1時間半の予定で出発。→長田町内から高速道沿いに南下。「杭列遺構」にも触れず、隧道を潜って山陽高速道の南面に出る。→旧JAの駐車場脇を通って宗蓮寺に着く。寺の掲示板にお上人直筆の似顔絵が描かれているのを見て、余りにも筆致の見事さに一同感服。そして、先達て「修復落慶法要」の執行された山門の前で、改修のことを知見し、若奥さんのシャッターで記念写真を撮らせてもらう。さらに、市文化財「木造毘沙門天像」の説明板を読み由来を確かめる。→一軒家町内から加茂城址の「西の丸」の西端を通って、加茂団地道を東進して、不受布施派の顕彰墓碑に着く。豊臣秀吉の千僧供養会に端を発した弾圧は、徳川幕府の封建社会の中で「寺請禁制」による過酷な弾圧へと約200年間続けられて来た。明治新政府によって再興を許可されたものの、加茂の地にあったこの派の信徒は平成19年に墓碑を立て顕彰するまで密かに宗派の伝統を護ってきた。会員の中の同派の1K氏の説明で更に認識を深めた。→そこから北上して賀茂神社に至る。盗難にあった狛犬は戻っていない。いつもとは落ち葉の目立つ境内を進んで拝殿に額ずく。→北の参道から加茂用水沿いに出る。最近建設された「十二ケ郷用水系統図」の看板を見て、妹尾太郎兼康のことを話題にする。→高速道の高架をくぐって用水沿いに北上。土木委員のKu氏は、最近手掛けた暗渠口の改修のいきさつを語る。路から南手に望まれる榊原津寺知行所の陣屋跡とされる「代官屋敷」が話題になる。→予定していた時刻10時に公民館に無事帰着。歩数約6000歩強。

その後公民館の1室を借りて総会を開く。新会員にメダル進呈6個。来年度の計画を協議して「計画表」を作成。新年度は弁当持参の遠距離一日ウオークの日が多くなった。現30数名ばかりの会員を増やして、来年度もウオークを通して、見聞を広め健康づくりに努めたいものだ。12時半閉会。

 



22日 最上稲荷・奥の院、竜泉寺コース

 前日の午後から降り始めた雨は夜中まで続いていたが、夜明けとともに上がり曇り空の霧に包まれた暖かい朝となった。予報では高気圧の圏内に入り3月下旬並みで15度前後にもなるという。四五日前の寒さで着ぶくれていた着衣を恐る恐る剥ぎ落とし、雨具とステッキをリュックに詰めて家を出る。高松城址の「北の駐車場」9時集合。本日は、雨上がりの急坂難コース、参加者21名。準備体操の後、コースを確認して出発。→「池の下」の天井川の左岸に立つ文英石仏に着き、苔むした岩肌に面相や蓮華座を探り、文英の在職したと伝えられる福成寺跡を話題にする。→法土寺の手前を左に折れ慕田道(しとうだみち)に入る。「妙池」に通ずる下道を通って本道に上がり、定信明神の石塔を拝して「宮谷小池」を経て最上稲荷の境内に入る。→トイレと参拝を兼ね小休止。境内には、あすの「節分豆まき式」のための桟敷や幔幕がすでに整えられていた。本殿に額づき、豆まき行事を話題にする。→鐘楼に上がる石段で記念の写真を撮る。→入母屋(いりもや)造りの霊応殿前に出て本殿を拝す。→ステッキを出し奥の院登山道に入る。昨日の雨あとの坂道は濡れてはいるものの洗われたすがすがしい道になっている。正月参りに登った人は、今日の方が随分上りやすいと言う。でもやはり少々きつい。→ケーブル跡に沿う石段を登り、小さな鳥居の列の奥にある題目岩鬼子母神磨崖像のある岩を横目に黙々と参道を踏みしめ歩を進める。→道を左手に折れ、下って八畳岩に出る。先着の数名はすでに岩窟を覗いて岩上いる。開山報恩大師が天皇の病気平癒を願って祈願の21日目の早暁に、感得された「最上位経大菩薩像」を岩に刻んだ窟口は柵で閉ざされている。辺りは霧に包まれ周囲への視界は狭い。→道を引き返して登山道に出て、土肌の山路を登ってケーブル終点跡地に着く。「ラジオ塔」と呼ばれるコンクリートの建物遺構の周りで一息つき衣服を調える。→鳥居と題目石の続くなだらかな参道を通って奥の院一乗寺境内に入る。本殿を拝し、境内のベンチを借りて水分補給。空は晴れ仲春が感じられるほどの暖かさになる。→午前11時、鐘楼を経て巨岩の題目石群を巡って登山車道に出る。例年、下りの車道は晴れ晴れとした山路のウオークの醍醐味を覚えるところだが、今回は倍旧の喜悦感が募り、自ずと足軽く知らぬうちに先頭を行く。→市道に出てすぐ竜王池湖畔の道を辿る。道幅が拡げられ新に整地されている。心地よい山路を談笑しながら進み、ヒノキ林を通って竜泉寺本殿に着く。五色の細工物で飾られた屋根に目を惹かれる。参拝の後、石段を下って寺務所に行き挨拶をする。ちょうど「お滝行」の最中と告げられ、「行」参観となる。導師と女人の一人が竜口から落ちる滝に打たれて水垢離行(みずこりぎょう)をとっていた。今朝の陽気とはいえ「行」の峻厳さに息を呑む。→そのあと何時ものように「休憩所」に案内され過分の接待を受ける。案内版のCDを見せて貰いながら昼食を摂る。食後30分ばかりの時間をとって、来年度の訪問地を提案し合う。→午後1時前に帰路につく。境内のユルギ岩太閤腰掛岩を経て「もみじの樹林」横を通って竜王池南湖畔に出る。八大竜王大宝塔身代わり地蔵尊鯉岩、奉納の地蔵尊群の前から「竜泉寺自然湿地」を過ぎ、「吉備自然歩道」から奥の院登山道に至る坂道を下る。なだらかな降りの山路は足軽く話が弾む。時おり樹間を通して下方の城址周辺の建物の屋根の反射が映る。→登山道との合流点に出て急坂の石段に気を配りながら降る。途中左に折れ稲荷荒行堂の境内に入る。→後続の人を待って、日蓮上人像のある展望台への坂道を登る。昨年は途中で断念した者もあったが、今年は全員参加で展望台での眺望を満喫した。高さははっきりとは分からないが、その高さといい風貌といい上人の偉大さが窺がわれる立派な造りだ。像の正面に垂れる「日本の柱」の碑文に頷かざるを得ない。ここはまた高松城水攻め合戦の時、羽柴軍の陣所でもあったとされている高台だ。城址方面が眼下にはっきりと見渡せる。→心の和む休息のあと帰路につく。清水宗治尊崇の北辰妙見宮を経て妙教寺山門をくぐる。広大な境内は寂として我われ以外に人影が無い。保存樹の「イチョウ」が厳然と映るのが不思議だ。あすは「豆まき式」の雑踏で賑わうことと想う。→インド殿堂様式造りの仁王門を通って仲見世通りを三々五々に下る。→「西の池」池畔で全員の集合を待って帰路に向う。平山町内を通って南下、途中道路改修工事で通行止めの所があって少々迂回することになったが、3時前、城址に無事帰着。次回のことを確認して解散。歩数約2,000歩。3月下旬から4月上旬の陽気になった今日の天候のお陰で、和気藹々の予想外のウォークを楽しむことができた。天からの「幸せ」を授かった思いだ。 

 


15日 吉備津神社、吉備津・板倉コース

年末の政権交代の慌しさの中で新年を迎え、前途に隆昌と安寧を祈願したい初詣となった。
「小寒の入り」のきょうは、夜明けの最低気温が零下2度の寒気、防寒重装備で加茂小学校に向う。体育館ではすでにミニバスの子供たちの元気な掛け声が響いていた。
 集合9時、前回の写真を渡しながら出欠を取る。参加者21名。準備体操の後コースを確認して出発。→薄雲の間から出る陽光で寒気もやわらいでくる。東加茂相賀邸跡を経て国道180号を渡り吉備津地区に入る。例年通り地蔵堂前を板倉川沿いに南下。高岸の農道にはまだ薄霜が光って厳寒の心地よさを覚える。旧山陽道を東進して板倉大橋のたもとを川沿いに行く。170年ばかり以前、世に言う「板倉騒動」のあった現場だ。鏡のように光る川面は過去の忌わしい出来事を忘れさせてくれる。→180号線を渡って吉備津表参道の松並木の道を進む。正月も五日にもなれば参拝客は少ない。駐車場のところから例年通り集合時刻を打ち合わせ単独参拝にする。→さすがに手洗い舎には参拝客の列が10mばかり続く。→厄歳の案内看板の横を通って北隋神門をくぐり、急な石段を登って拝殿前に立ち、賽銭を投じ「健康と安全」を願って柏手を打つ。折りしも拝殿内には祈祷の一団が神主のお祓いを受けていた。→「比翼入母屋造」の美しい屋根の見える東側の境内に出る。祈祷の受付、おみくじ場、破魔矢の売店の周りに僅かの雑踏。外陣の回廊を正月らしく和服の一団が通っていくのが見えた。暫らくして、その和服の麗人たちが広場に下りてきて大絵馬の前で写真を撮ろうとするのに気付くと、それが吉井むつみきもの学院の先生とお弟子さんたちと分かって挨拶を交わす。広場に立つテントの中の椅子には、祈祷を待つ会社の団参の十数人が談笑。→一童社に参拝して岩山宮の鳥居を経てえびす宮から回廊に降りる。ここでも元日の雑踏は無い。→去る11月に400年祭行事が執行されたお釜殿周辺は整然と清々しい。約束の集合地。既に全員が集まっていた。そこから見えるご神木に囲まれた比翼入母屋の屋根はいつものように神々しい。→境内を出て道を隔てた神池の橋を渡る。新設されたのだろうか小型の噴水が勢いよく水面に散ってゆく。鳥居をくぐって宇賀神社に参拝。朱塗りの美しい社殿に惹かれ、ご無礼ながら殿前で今回の記念写真を撮る。→蓬莱橋を渡って古刹青龍山金剛寺普賢院境内に入る。本堂に手を合わせ、改築の真新しい客殿の前を通って仁王門を出る。寺を囲む格式のある御所塀がその寺歴を偲ばせる。→岡田屋熊次郎宅跡近くの交差点を西に折れ、吉備津の誇る国学者藤井高尚旧邸(松の屋)に着く。岡山大学の管理下にあって古色の土塀に囲まれた邸は固く閉ざされている。→道を北にとって鯉山小前に通ずる往来に出る。小川沿いに西進して妹尾太郎兼康公の供養塔前の僅かな広場に着く。案内板を読んで疑問を述べ合う。広さ約10u、高さ1mの玉垣に囲まれ、盛り土の上に宝篋印塔と五輪塔が祀られている。道勝寺の境内であったとされる隣地の鯉山小給食棟の建替え発掘調査では、頭骸骨が出土し兼康のものと推測されている。最近、総社市教育委員会埋蔵文化財課の調査では、御所遺跡の「御所」は妹尾太郎兼康の邸跡だと聞く。十二下郷用水路開鑿の大事業については判然とはしないが、流域住民は兼康の偉大な業績に敬仰感謝を惜しまない。→そこを後にして「神変堂」の前を180号に出て、往路を逆に板倉川沿いから旧山陽道に入り西進。現在、鯉山コミュニティハウスの建つ板倉本陣跡に着き案内板を読む。板倉宿には家数百九十軒とある。すぐ近くには「ウダツ」のある平松邸がある。→眞金十字路から北進して180号を渡り、江原病院裏から東加茂の往路を逆に西進する。気温もだいぶ高くなったらしく寒さを忘れ快適な帰路となる。1145分小学校に無事帰着。今年度の残された2回のウオークのことを連絡確認して解散。10,882歩。昨年同様の平穏な日和のもと新年のウオークを終え、心地よい新しい出発。前途に繋げたい。


 

122日(日)ウオーキング太会

 わが定例の健康ウオークは年間の予定を変更して、きょう開催された公民館健康講座の<ウオーキング大会>に合流自主参加とした。
 冬型の気圧配置の中気圧の谷の通過で天候が心配されたが、太会が実施された午前中は絶好のウオーク日和。<ファミリーコース>、<一般コース>、<歴史コース>の趣向を凝らした三コースのいずれかに参加して、総勢210人の参加者に混じって親睦を深めるウオークを楽しむことができたと思う。公民館を中心に初めての試みで、地域諸団体の協力の中で盛大に実施できたことは大きな意義があった。反省会で出た問題点を次回に生かして更なる進展を祈念したい。運営に携わった方々、ウオーク参加者のみなさん、ご苦労様でした。

 


 

113日 総社三輪山コース

 11月に入って急変していた寒気もやわらいで絶好のウオーク日和になる。

 午前9時、総社「きびじアリーナ」駐車場に23名が集合。準備体操の後、コースを確認して出発。→三輪山の切り通しを南下して百射山神社(三輪神社)の鳥居を潜って参道に入る。境内前の案内板を読む。かつて百射山(福山)山頂に祭られていたものが幸山(こうざん)に移され、その後岡山藩主池田光正の命で三輪神社の社地である現在地に奉移遷宮され、ご祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)とある。社前の石段を登り神門を潜って境内に出る。正面拝殿の扁額には、「御崎神社、百射山神社、三輪神社」の銘がある。御賽銭箱に健康祈願のつもりで僅銭を投じて手を合わす。横手に廻って幣殿、社殿を拝む。→神社の境内の裏手から遊歩道に出て宮山墳丘墓に向う。坂道は登りやすい階段道に整備されている。山頂一帯は、2000年前の弥生時代中期頃までは住居地であったのが、100年位後の弥生後期には首長層の墓地として利用されるようになった。全長38mの前方後円形の墳丘墓で、箱式石棺、土壙墓、特殊器台棺等多様な埋葬形式を取った共同墓地跡が残っている。かの有名な宮山特殊器台は棺墓として使われていたのが発見され、その箇所が標識で示されていた。これと同じ文様の埴輪が日本最古の前方後円墳とされている箸墓古墳に使われていることから、古代吉備の先進性を主張される声は多いい。円丘部の中央には竪穴式石室があり、ここから鏡.銅鏃、鉄鏃、鉄剣、ガラス小玉などが出土したらしい。→墳丘墓を後にして遊歩道を南側に折れて、坂道を下って横穴式古墳に寄る。三輪山丘陵一帯には20基ばかりの横穴式古墳が散在しているが、その中でも大きい一つだ。名称はないが道沿いに入口を開け、腰を屈めて中に入ると天井石の隙間から日差しが差し込んでいる。でも、肉眼では暗くて内部構造がはっきり見えない。身の丈以上の高さがあり、奥行きもかなり長い。カメラのフラッシュに写された奥壁にはかなりの大きさの鏡石が使われているのが見える。→下ってきた道を引き返し展望古墳(宮山5号墳)に向う。古墳の手前に広場があって展望用の東屋が建っている。周囲は樹木が茂っていて、舞台からは視界が拡がらない。歩をすすめて広場の端に出ると総社市街地や清音方面が眺望できた。→そこからすぐ展望古墳域に続く。後円部の斜面を登ると墳頂に三輪山の標高96.3mの三角点がある。全長55mで前方部は地山の形状に副ってなだらかに降って伸びている。専門筋では、長い「柄鏡形」の墳形で、4世紀の築造と推定されている。周辺からは多種の埴輪が採集されていると聞く。→整備された尾根を進むとすぐ宮山4号墳に出る。径15m位の円墳。→この円墳をうっかり確認しないまま稜線を降って三笠古墳(宮山3号墳)の後円部に立つ。全長70mの前方後円墳。後円部の竪穴式石室から、飛禽鏡、鉄製の刀・剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス製小玉などが出土。5世紀初期の築造と推定されているから、宮山古墳⇒展望台古墳⇒三笠山古墳の順に丘陵を利用して、下へ下へと築造されたようだ。墳丘上を歩道が走っていて前方部がいびつに見えるが、展望古墳そっくりだ。10時過ぎ前方部先端の斜面を利用して記念写真を撮る。少し早いが持参の軽食を摂ることにする。樹間から差し込む晩秋の日差しを受けながら談笑。→きょうは吉備津神社のお釜殿再建400年の記念行事の初日。午後からのイベントを参観したい希望もあって、休息時間を短縮して帰路に向う。古墳前方部の歩道をしばらく南下して、鋭角に折れ西方に続く坂道を下る。どうやら三輪山一帯に広がる八十八ヶ所霊場遍路道に出たらしく、「大師さん・観音さん」並立の石仏が、第52番、第53番と道沿いに続く。→三叉路に出たところで土地の古老に会い遍路道のことを聞く。遍路道とは逆方向の道を下って、往路の百射山神社の参道に出る。→復路の足は速い。切り通しの西側の山の登り口に「三輪山霊場八十八ヶ所」の小さな看板を見つけながら、細い山頂に続く山道を横目に起点の「アリーナ」を目指す。隊列は分断されながら1130分頃出発点の駐車場につく。全員が揃ったところで、今後の予定を連絡確認して解散。歩数5,694歩。

地域行事の関係で年間計画を変更して急遽決定したコースではあったが、天候に恵まれた晩秋の空の下、古代吉備の遺跡群を余裕も持ってゆっくりと探索ができた。自分にとっては大手術後の日も浅く不安もあったが、コースの歩道が整備されていたお陰もあって無事完歩できた。多くの参加者の喜びの感想を耳にして活力を得たのが何よりだった。

 





10月6日  矢掛コース

 昨日の朝より暖かく最低が17度。きょう一日は気圧の谷の影響で雲が広がりやすいだろうとの予報。今年も10月に入って稲穂も黄金色になり、秋らしさを実感させられる。

 高松駅前830集合。駅前の広場をかりて体操。839総社行き電車に乗る。井原線総社発935に乗換え。車中の談笑も束の間、1003矢掛駅に着く。迎えに来てくれていた車掌から『ホリデーパス』を受け取る。駅前広場に出て、『宿場町やかげてくてくマップ』を見ながらコースの概略を確認し出発。→駅を出て井原線の高架を潜って中学校前を通って旧松山街道から県道倉敷成羽線を北上する。→県道から三山川に架かる「のぞみ橋」のたもとに「鵜飼」の看板を見る。川底に少しばかりの深みが目に付く。黄金に色づいた田圃の広がる中を行くと、真向かいの高峰山麓に千二百余年の歴史をもつ古刹高峰山大通寺の塀がかすかに望める。→仁王門から境内に入ると「地蔵祭り」の真っ赤な祈願幟が数十本縦列に続く。山門を潜って来訪を告げる。檀家の法事の日とて、ご住職はお勤めで忙しくしておられて、奥さんが代わって丁寧に迎えてくれる。本堂の裏手の県指定重文の池泉式庭園に案内され説明を聞く。庭園は「石寿園」と呼ばれ高峰山を借景にし、釈迦三尊石、座禅石、須弥山石などが配置された集団石組が全体に広がって力強い景観をなしている。奥さんの丁寧な説明の後、お勤めを終えられたご住職から本堂に描かれた阿吽の墨画龍の姿や「禅堂衆寮」から望める西方池などの造園の解説、禅堂前の「蛙塚」の篆刻文字の碑の発見の由来、園庭保存には「掃除は創寺にして創自なり」の心懸で勤めておられるご様子などを拝聴して、お寺に係わっている人の仏心に活力を与えられた。→お住職に礼を言って山門を出る。既に11時半。急ぎ足で来た道を引き返し県道に出て、旧松山道を南下し小学校の前を通ってシンボルの「水見やぐら」の建つ、やかげ郷土美術館12時過ぎに着く。平成2年開館され、普段は郷土出身の田中塊堂(書家)と佐藤一章(洋画家)の作品や郷土資料が展示されているが、日中国交正常化40周年記念行事として、「平和と友愛絵画展」が開催され、今日はその初日、午前中には式典があって、正午からの開館になっていてちょうど都合よい時間に入館できることになる。30分ばかりの鑑賞時間をとる。中国作家2名の油絵・水墨画20数点の作品は見事で、とりわけ東強氏の油絵では写真を見るような写実性の素晴らしさに驚いた。時間の関係でゆっくり鑑賞できないのが残念。退館間際に「水見やぐら」に登ってみるが、階上から町並み一瞥の早業で館を出る。→わが同窓生A君の案内で土産店「本陣」前の広場を借りて昼食を摂ることにする。談笑30分。K君が用事で早引きをすることを聞き、急遽、店主にお願いして、そこから旧山陽道越しに見える「石井家」をバックに記念写真を撮る。→しばらく土産店内に入り商品物色の後、道路を渡って本陣石井家の大戸口から店土間に入る。荷物を土間の縁台に置き、二組に分かれ、都合で30分程度(もう少し時間をとるべきだった)の案内をお願いする。家族の間、御成門、玄関、三の間、二の間、次の間、上段の間、御庭、宿札等。さらに、豪商石井家の酒造関係の米倉・舂場(つきば)・酒倉・絞り場・麹室などの建物や森家の陣屋から移築した裏門座敷長屋など解説を受けながら足早に見学をする。→白壁の虫籠窓(むしこまど)の美しい石井家を出て旧山陽道を東に向って進む。大名行列の「矢掛宿場祭り」は毎年11月の第二日曜日に行われ、参勤交代を再現させながら商店街を行列が練り行く催し。「近代造りの商店」と「妻入り・平入り造りの町屋」が続く町筋は、きょうは時折車が通過する静かな佇まい。→本陣から約300m東進すると脇本陣高草家に着く。宿場の両替商で大庄屋役。昭和44年、国指定の重文。陣屋は土・日しか開館してないものの、我われ一行の見学を見かけて所属のガイドの方が出てきて無料サービス。邸の間口は339mで本陣に次ぐ規模。東から蔵座敷、薬医門(旧庭瀬藩の陣屋門)、母屋、家老門と並ぶ。屋敷内には座敷、居間、内倉、大蔵、中門倉、米倉、米倉、供部屋などがあり備中南部の民家の特色をもつ邸という。外観では壁面の塗り籠・虫籠窓、白壁、張り瓦の建築様式が美しい。→解説の礼を述べて、専教寺小路に入り裏手に廻ると高草家の白壁の塀が小川に沿って湾曲して延びている。北上して浄土真宗の寺一乗山専教寺へ。本尊は阿弥陀仏だが東向の観音様が祀られ、地域の人の信仰が厚い。高い巨木の町天然記念物の「臥龍の松」に惹かれるように境内に入る。成るほど主幹から伸びた枝が長く、龍が横たわる様に見える。説明板によると樹齢300年、本堂のほうに向かって伸びている大枝の長さが15m、優雅で龍が眠っている様に見えるところから名づけられていると述べられているが、一同賛嘆。しばらく境内を眺め、後ろをふり返りながら急ぎ寺を後にする。→途中あらためて時計を見ると予定の乗車時刻には間がありそうなので、わが母校の矢掛高校の現風景が見たくて一同に迂回して高校沿いに進んでもらう。戦前・戦後6年間通学した学校だけに懐かしい。今年が創立110周年になるが、言わば片田舎の矢掛の地に県立の中学校が設立されるには、当時の高草町長や地元出身の日本銀行副総裁木村清四郎氏の尽力による。校門から見える松並木は昔のままだ。戦時中校庭にサツマイモを栽培した時もあったが、高石垣で囲まれたこの学校は、当時は威厳のようなものを感じていた。そして今、「至誠力行」の校訓は心の片隅で蹲っているような気もする。→高校の周りを巡っていると、「上賀茂神社の宵祭りの日、時間が間に合うのであれば早く帰りたい」との声が出る。ならば間に合うかもしれないと時計を見ながら一同駅を目掛けて疾走。日ごろの健脚を生かし橋上駅の階段を一気に駆け上がり、電車到着と同時全員が車内に雪崩れ込む。予定より一電車早く帰路に着くことができる。車内では全員腰を下ろし、持参の飴を交換しながら笑顔に崩れる。→総社駅では時間待ちで自販の前に屯していたが、吉備線の電車が着くと急ぎ乗車。1541分、高松駅無事帰着。駅前で急遽変更の次回113日の見学地宮山古墳群探索の予定を確認して解散。歩数13,753歩。
 秋の薄曇り空で凌ぎよい快適のウオーク日和であった。全くの予定通りにはならなかったが、歴史ある文化財に触れ、それをいろんな面で護持する人達の心温まるもてなしを受けて楽しい一日を過ごせたと思う。心洗われる一日であった。

 


91日  大平山コース

 関東大震災記念日、『防災の日』。昨年大型台風12号に阻止され中止しただけに,今年こそはと切願していたコース。今年は台風15号、14号が朝鮮半島で熱低に消えた後、弱い気圧の谷の影響でにわか雨や雷雨の警報や注意報が一昨夜から報じられていた。早朝の予報では岡山南部は雨や雷雨のところがあるが午後からは晴れるだろうとのこと、落雷事故が多発している時だけに気にもかかったが一先ず実施予定で8時前に家を出る。

 定刻8時半には空模様も安定し、吉備津神社駐車場「木堂翁像」の前に19名集合。「JA年金友の会」のイベントもある中で参加者が先ず先ず。体操の後5台の車に分乗して出発。 途中西辛川のコンビにて軽食を仕入れる。→そこから山麓への登山道を名越山と城山間の大池を跨ぐ新幹線高架を潜って遊園地口に到着下車。→舗装されている道路を池畔の十数本の桜並木沿から山頂へウオークを開始。本日の最高気温30度、例年より低いという予報だが、雨上がりの朝、なだらかに続く山道は樹木が高く、ひんやりと冷気が肌に心地よい。此処ら辺りでは桜並木で聞こえた蝉の声もなく、小鳥の囀りもなく意外に寂として静か。三々五々長い列になって各自のペースで談笑しながら登る。それにしてもグループの中に杖を使っている者が四五名いるのにハッとさせられる。消えかかっている不法投棄の看板を見て気付くと不法投棄が全くない。茂みに散乱する不法投棄に嫌悪と憤りも麻痺する昨今。此処にはそれが無い。進入禁止の車止めからしばらく行くと、車を止めて舗装道路脇にしゃがんで生える小笹を丁寧に摘み取っている地元の老人に会う。思わず感謝の挨拶をする。→舗装道が切れると小石混じりの急坂に変わる。先頭を行くものが足を止め給水をすると皆それにならって一息つく。談笑。再出発。急坂も暫時、樹木が途切れて薄雲の空が見えてきた。→立田の渡辺さんの拓いた大平山農園に入る。4年前に写真撮りに上った時とは少々様子が変わっている。当時渡辺さんご夫婦がイノシシ避けの鉄条網を張って山一面にキャベツを栽培されていた光景が今は無い。畑の急坂を暫らく行くと山頂の三角点に着く。標高192m。大平山の名称通り平に広がる山頂からは一大パノラマが展開す。雨上がりの眺望は我われを望外の喜びで迎えてくれ、異口同音「すばらしい」の連発。西方に高松城址、最上稲荷・奥の院、庚申山、造山、日差山、福山、加茂小学校、南方に流通センター、東方に樹間から富山城址等々。→頂上の作業倉庫小屋脇に軽トラックがあり、地主の渡辺さんを探す。遥か下の山際に動く白い影を見つけ、来訪の挨拶に向う。小石混じりの畑の斜面を駆け下ると、草刈機を使って作業中のところ。氏の話では、高齢と採算が合わず既に人手に渡しており、来春には其の業者(某県内養蜂業者)が入植予定とのこと。「それまでは、手掛けた土地を荒らすわけにはいかんので頑張っているんだ」と。「昭和4年生まれの83歳。耕地25ヘクタール余。事業は初期酪農業、その後菜園経営。就労60年。」、全く驚きと尊敬で胸が熱くなる。来訪の趣旨を説明して小屋の一部を使わせてもらうことにする。→ここは古来「賀茂神社の奥城(おくつき)」とされている所。頂上から僅か下がった尾根からは弥生時代後期の土器・石斧が発見され、高地集落の存在が推定されている。開墾地の南斜面には伝兵衛塚と呼ばれる全長6mばかりの横穴式古墳と合わせて10基ばかりの古墳が群在している。古墳を見つけ潅木でふさがれている入口から中を覗く。今回も懐中電灯不所持を悔いる。カメラの方では内部画像が何とか映る。→11時前、作業小屋の内外を借りて休息・軽食・喫茶・談笑の一時を過ごす。「養蜂も悪くはないが、ソーラーシステムを設置し展望観光の地域振興に一肌奮ってほしいなぁー。」など願望が飛び交う。→30分ばかり休んで記念写真を撮る。→下山にかかる。渡辺さんに別れを告げに行くと、「もう会えんかも分からんナー」と寂しい応え、「体に気をつけてくださいよ」と愛想を言ったものの申し訳ない気持ちで別れる。→グループの最後を遅れてS氏と降る。痛風症のため新調の靴を履いてきたのがよかったとのこと。靴底のしっかりしたものが長距離ウオークには必須、同感。雑談しながら少し降ると登る時お会いした老人が道端の除草を続けているのに会う。既に作業は20数mばかりの距離に伸びている。皆に遅れてはいたものの事情を聞くと、老人が長年この道の環境整備ボランティアに尽くされてきていることを知る。自製の切り株の腰掛・木に縛り吊るされている竹の花筒・見守り。これ等の訳があっての不法投棄の無い快適なこの登山道だと分かる。感謝・感謝。出発点には待ちくたびれたはずの皆が神妙に待ってくれていた。乗ってきた車に分乗して、吉備津神社木堂翁像前に無事帰着。1140分。歩数7,872歩。次回の矢掛方面の下見と予定を確認解散。
 心配していた天候にも恵まれ、高松地域はもちろん広範囲の俯瞰眺望を楽しみ、二人の老人の生き様にも触れ、この上ない体験ができたと思う。木堂翁に恥じない次代をと心を新にする。

 


 

84日。惣爪コース

 このところ干天続きの猛暑日。「気温が35度以上になるところが多く、熱中症に注意」の予報。昨年と同様の気象で、台風9号、10号は熱低に変わって中国大陸に遠のいたものの、新たに南海上に11号が発生して西に進んでいるという。

 青空の早朝7時。小学校校庭に19人集合。準備体操の後、コース確認。昨年同様に9時半ごろに帰着予定で出発。→昨年のコースを少し変更して、今年度通ってない矢部地区を迂回することにする。足守川の土手に上がって県道大内田・高松線を南下。黒住橋を渡って右岸を下る。加茂学区では一番川幅が広く川面から寄せる朝の清風が心地よい。→新黒住橋のたもとに設けられた公園は桜樹木も伸びて格好の憩いの場所になってきた。→県道清音・真金線の土手下を通って矢部地区に入る。旧山陽道沿いに宝泉寺がある。この寺は元々日差山にあったが延宝年間に現在地に移されたという。この寺の本尊聖観世音菩薩像は、岡山・金山寺、京都・清水寺の観音像と同木異躰の観音像である。十七年に一度のご開帳法要がなされているという。また、この寺域は天正十年の高松城水攻めの時は毛利軍の砦として守将河田八助がいた河屋城跡でもある。→今は狭い旧山陽道を東に進むとすぐ道沿いに横向きの地蔵尊が立つ。謂われは定かでないが、毎年旧暦の八月にお祭りが執り行なわれているという。→そこからすぐ尾根続きの所に鯉喰神社が祀られている。温羅伝説の神社として有名であるが、一方其の社域は弥生墳丘墓と推定されてはいたが、平成11年5月孤帯文のある拳大の石が見つかって其の証左が判然とした。夏祭りがあったのか境内はきれいに清掃がなされている。→東進して再び足守川土手に出る。今は道筋が移動されている矢部橋を渡って左岸を下る。惣爪塔跡は国指定の遺跡。長径18m、短径15mの塔心礎が遺存。付近から天平時代の瓦が出土しているとのこと。津氏関連の寺跡と推定されているが関連遺構が充分見つかってないのが残念。→さらに南下して御野立所に着く。明治4311月、天皇が陸軍特別大演習を統監したところであり、「龍蹤表彰之碑」が立つ。大正元年、住民の労力奉仕で梅松桜数十株を植え、玉垣をめぐらし、経費994185厘を賭けて公園が建造されたという。→公園を下って惣爪分館の横を東進して自転車道沿いに進む。広々とした田園の稲田には爽やかな心のゆとりを覚える。が、突然先年ジャンボタニシの異常繁殖の光景に愕然となった記憶が甦る。よく見ると今年もピンク色の貝殻が点々と散在。思えばエコの課題は時代と共に重い。→道を北転して民家の間の道を惣爪八幡宮の境内に入る。拝殿は閉ざされていて「算額」は見られない。木陰に一息つきながら算額を話題にする。新築記念碑を背に記念写真を撮る。→北進して旧山陽道に出る。主要官道にしては狭く感ずるが、昔はもっと広かったに違いない。題目石一等水準点を通過して西高公会堂横にある地蔵尊像に寄る。説明の碑文によると矢掛横谷の舟木山洞松寺の旧住職が当地の小西家と関係があるらしい。大小の地蔵尊像のなか明和五年(1586)建立の像はひときわ大きく慈愛に満ちた面立を拝すと清浄の感に打たれる。→西進して加茂地域に入る。連休寺の手前を西に折れ幸利神社に着く。最近改築されて少々風格に尊厳さを欠くが、津宇郡の官衙の跡に推定されている神社である。遺構調査はされていないが航空写真では周辺の土地が方形の高まりに写っているらしい。→そこから西方300mばかりの足守川土手近くにある岡グロ神社を遠望しながら、幅広い畔道を北上して腰投げ地蔵に着く。この所にある文英様石仏一躰には永禄10年(1567)の年号があり、由緒ははっきりしないが地元では腹痛の時に川に投げ入れると程なく治癒するといわれ大切にされている。今朝も石仏の周りは綺麗に掃除されて色鮮やかな旬花が三本の花筒に手向けられていた。→あぜ道から県道に上がり学校に向う。遥かに「大平山」を望み来月のウオークに話題が広がる。学校帰着930分。10850歩余り。慌しくもあったが、炎天下の仲間とのウオークで健康を貰った。今夜は各地で花火が上がる。岡山桃太郎祭り、水島港祭り、玉島祭り、玉野祭り、総社市民祭り、新見ふるさと祭り、と十六夜の満天を飾ってくれる。室内では五輪の技に汗を握ることだろう。

 

 

77日。新庄下・黒住コース

 日付が7日に変わった夜半、雷鳴が轟き豪雨となる。早朝5時のテレビ画面には「大雨・洪水警報」の文字が出ている。戸外に出ると雨は小康状態で西の空は明るい。役員と連絡をとり予定通りの決行と決める。
 午前7時造山古墳駐車場に17名が集合。例によってラジオ体操の後、本日の行程を相談出発。雨後のため歩きやすいところを通って9時過ぎに帰着と計画する。→造山古墳は墳丘には上がらず前方部外の地獄田に沿って進む。最近の岡山大学新納教授の調査では「周濠の痕跡」を確認したことになっているが、言い伝えなどでは古墳築造作業の苦しさから出た呼称だと言う説などもあることが話題になる。郷土史家の赤井克己氏は「長さ230m・幅25m余の花崗岩の岩盤を掘削した<労働力>をこそ日本一だとPRすべきではないか」と力説されていたのを思い出す。→平成911月、遊歩道整備工事中発見された埴輪列遺跡に着き、当時の状況や其の謎と方墳2号墳の墳頂から出土した安山岩の板石のことなど話す。→直進して3号墳に出ようとしたが水溜りに道を遮られて、1号墳・榊山古墳側に廻る。帆立貝型前方後円墳のことや出土した馬形帯鉤を話題にする。→そこから4号墳を経て3号墳横を過ぎて自転車道に出る。→増水して流れる小川を気にしながら自転車道を進んで大山町内の交差点にある日時計公園に着く。標識板の説明文を読んだり、日時計に影を映して論じ合う。今回の記念写真をここで撮ることにする。→近くに田野村邸を見かけて見学要望の声が出る。事前に連絡していなっかたので、取り敢えず邸横を通過することにする。ところが邸前に着くと門内を覗き込むものがでる。すると、われわれの声を聞きつけて主の田野村氏(田野村建設会長)が現れてどうぞと声をかけてくださる。突然の訪問を断りながら其の言葉に甘えて無遠慮に屋敷の庭を見学させてもらう。雨に濡れた深翠の庭樹の中を巡ると心が洗われ幸福感に浸る。散在する庭石の説明も受ける。伝来のものを大事にしておきたいという主の気持ちが伝わってくる。この田野村邸は寛延年代(250年前)に築造された豪農邸を引き継いでおられ、先の「県の近代和風建築調査」の該当木造建築物として申請されたものである。二次調査のことが聊か気にかかる。藁葺(茅葺)の屋根を保存しようとなると多額の維持費もかかる。備南の木造和風建築の中でこのように伝来の形態で保存活用されているのは珍しく且つ貴重な存在である。申請に携わった一人として些かやる瀬無い思いがつのる。→礼を述べて邸外に出る。門前には美しい里山の風景が拡がる。米寿近い氏の年齢からは池や畑の管理が大変なのにと思われたが、週末に野菜の栽培にやってこられる市中の<都会っ子>連と過ごすのが楽しみだとおっしゃる。シャクヤクや池の鯉の話を嬉しそうにされる氏の横顔には頭が下がる。→田野村邸を後にして県道清音・真金線に出る。江田の交差点までの峠道には今日も不心得者の投棄したゴミが散乱されて寒心を覚える。→交差点から旧山陽道に入り、千足町内に向う。道辻には大きな「道しるべ」が残されているが、この辺りに「一里塚」があったと伝えられてはいるが其の場所を明確に知る人はない。→千足の街中から5号墳・千足装飾古墳に上がる。墳頂には文化財保存調査継続中の白いテントが雨上がりの中に異様に光っていた。装飾劣化の対策はその筋の英知とご努力を期待するしかない。点々とアザミの花が自然界の活力を語るように咲き誇っていた。千足古墳の特徴を話題にした後、「直弧文復刻」活動の意義を語りながら下山。→9時を過ぎる時刻になったので集合地の駐車場に帰ることにする。雨はすっかり上がり明るい空になってきた。この辺りに休耕地が多くなっていることや嘗て小池があったことを話しながら駐車場に帰着。腰を下ろして休息をとりながら次回のウオークの予定を確認後解散。7,200歩余り。
 スケジュールでは黒住方面までのウオーク日にはなっていたが、天候の関係で2時間程度のウオークで切り上げることに替わった。しかし、突然の田野村家訪問の事態にも至り、予定は二転三転したものの想わぬ成果があったように思う。文化財指定有無に拘わらずそれを保存されようとする市民根性をこそ讃えられ、行政面の助成が加えられ社会に生かされなければならないと痛感する。

 


 

62日   新庄上コース+赤浜地域

 ウオークの日はいつも天候のことが気になる。朝刊では、「瀬戸内は気圧の谷の影響で雲が広がりやすく、午後はにわか雨のところもあるだろう。最高気温は25度以上のところが多く、暑さを感ずるであろう。」と・・・ これなればこの季節「絶好のウオーク日和」と、本日の無事完歩を祈念しながら支度をする。
 7時半過ぎ朝曇の中を公民館へ。長門さんが既に勤務についておられてゲイトは開いていた。
 
8時、園児三垣君と会員22名参加集合。体操の後コースの確認をして出発。→概略昨年と同じコースをとる。公民館を出て中村橋を渡り足守川右岸の土手を北上する。中村橋緑地では今年も宗治祭協賛のソフトボール大会のために駐車場や土手面の草刈ができている。左手に広がる新庄の田圃の多くは、今年も高温障害を気遣って田植えの取り掛かりを遅らせている。遠崎宮を過ぎる辺りでは、4月中はまだ低かった土手の草が5月になってから急に伸びてきた。其の生命力にはあらためて驚かされる。→庚申橋からさらに北進して岩崎分水堰に着く。昭和42年にこの堰が完成整備され、今や先人の功績に敬意をあおるように満々とした水が音を立て川下に流れている。→中土手から小橋を渡って岩崎山麓に入る。左手奥に高塚の大庄屋渡辺氏が文政13年(1830)造立の大地蔵尊がある。高塚の渡辺邸からは真正面に位置し毎日手を合わせていたという。引き返すとすぐの巨岩に彫られている磨崖仏不動明王の前に出る。前川の淵で「行」をする行者が寛永年間(1624~1643)泉州石匠に造立させたものといわれる。→不動尊の隣の崖影に吉備津の真野竹堂と親交のあった高塚・生石の大庄屋渡辺氏の両家が発願して文化11年(1814)に建立したといわれる如意輪観音十一面観音が高所に祀られている。→ここから始まる観音巡拝道に沿って庚申山山頂を目指す。登り坂に差し掛かるところで安永7年(1778)に建立の一畳余りの南無阿弥陀仏の名号石碑に迎えられる。参道横には昭和62年「庚申山観音霊場開」の記念碑が立つ。側面に記されている発起人方々は既に故人になっている。→参道は庚申信仰の道でもあり。懸額大梵帝釈天の鳥居が建つ。願主代表は高塚渡辺氏・長良前田氏である。→標高742mの山頂への参道は急峻で霊山を辿る迫力を感ずる。樹木に覆われ鬱々として涼しさを覚える。雨水で崩落した所を避けながら先人の開いた石段を頼りに足元を確かめながら進む。山頂近くには、今年も故平松先生の作られた准胝(じゅんてい)観音の標識板が石像横に静かに立っていて安堵感を覚える。頂上に通ずる舗装道に出ると天空が俄かに広がり初夏の熱気が突然迫る。→頂上の広場に着くと新庄下の大山から移築された妙見宮、明治27年造立の高灯篭磨崖毘沙門天など、邑人信仰の諸神諸物が迎えてくれる。広場で小休止。毘沙門天石像は向かいの日指山のものと同態であることやこの巨岩が木下領・花房量・蒔田領の境界石にもされたいたことなど話題にする。→休息の後南に廻ると、岩上に宝筐印塔を戴く題目岩が聳える。延宝元年(1673)、施主当邑西田氏の銘をとどめるこの岩は、神名備の信仰山・岩崎山磐座
(いわくら)の象徴でもある。→下がって大梵天宮の裏手には、泉州貝掛の石工里山源兵衛橘光安の花押入りの刻経文のある巨岩が隠然と控える。法華経寿量品第十六の一節「常在霊鷲山・・・天人常充満」の刻文の願主「大野健子龍」については未だに判然としてないのが残念。→大梵天社の拝殿に立ち南に吉備中山の新宮社の磐座旧跡地や造山古墳を望む。→明星天社の前から石段を下って鬼子母神社の前に出る。平成29年に執行されるであろう60年目の「開扉の祭礼」について話す。→さらに石段を下ると吉備津の侠客岡田屋熊次郎が弘化3年(1846)寄進の子持ちの阿吽の石猿が愛嬌のある面立ちで迎えてくれる。→鐘楼の横から広場を通って帝釈天社を拝んで、前堂の下を潜り、さらに石段を下りお通夜堂跡に立つ。その昔、庚申信仰にはお通夜堂が必須不離の聖所ではあったが、現今では忘れられた存在になってきている。→参道の対面の広場には庚申山の鳥瞰図の大案内板が立つ。10年前に再建された2代目の看板である。→石段を30段余り降ると駐車場に出る。庚申の祭りが盛大に執り行われていた頃には、祭礼の数日間芝居小屋の立った賑やかな場所である。→石段の正面参道を避けて赤浜に通じる大門参道から姫子乢(たわ)を経て赤浜地域に出る。旧道を西進して道路わきの広場に立ち止まり四方を遠望する。長良山と比治山の空間に竣工を進めている流通センター建設工事の巨大なクレーンが二機見える。手前には構造改善のなされた広大な田植え前の田園が広がり其の中に雪舟生誕地が児島のように浮かんで見える。→暫時の眺望の後、槙枝邸の前を通って国道429号線を横断して赤浜公会堂、春日宮の前を進んで法敬山妙徳寺に着く。来訪を告げると本堂に参内するように勧められ是非もなく脱靴して参拝す。お上人から妙徳寺の縁起、法華宗宗派の由来、本堂改修築の苦心、仏道修行の心懸等を教えていただいた。中学時代は師弟の間であっても求道者としての精進の彼我の成長の差には心憎いほどの満足を覚えながら山門を後にする。→八幡神社の前を国道429号線に向う。赤浜地域には三社宮が丁寧に配置祀られているのに感心させられる。国道を南進してテクノパーク総社団地内に入る。広々とした道路を行くと、高原とはいかないまでも山間の高所の気持ちよい涼気が身に注ぐ。コアテック椛Oから折敷山(おしきやま)古墳に着く。昭和60年代この産業団地開設に際して発見された古墳で、調査の結果県下最大級の方墳とされている。一辺445m426m、高さ53m5世紀前半築造と案内板にある。墳頂に上がると、可憐な西洋タンポポが我が物顔に咲き誇っている。→オーエム機器の前面から小造山古墳を目指して山に入る。今回のウオークの目的地である。今年度と来年度に亘って岡大の松木先生が再調査をされると報らされていた。既に下草刈りがなされ古墳の全貌が明確になっている。後円部に登ったところで、幸いにも土曜日の本日前方部で機器を操作している調査団に気付く。早速お邪魔を謝して先生に説明をお願いする。5世紀後半、竪穴式古墳、未盗掘。前方部の姿がやや異型。等々親切な説明を受ける。今年度末の公民館での講演会を予約して山を下る。→眼前に全国4位の造山古墳の雄姿が広がる。北側からの姿が美しい。→時刻は既に11時半、新庄車塚古墳を横目で確かめながら歩度を速める。→本隆寺の山門を背に本日の記念写真を撮る。この山門は高松原古才の花房陣屋の西門を移築して使われていて歴史ある文化財である。→庚申山正面参道前を経て庚申橋を渡り、足守側左岸の土手道を南下して上賀茂神社の鳥居を潜る。狛犬と番犬に迎えられながら、参拝そこそこに境内を急ぎ通らせてもらう。→普段は使われないあぜ道を経て高速道の隧道入るとひんやりとした冷気が心地よく身を癒す。最短距離を選んで公民館を目指す。→公民館帰着は正午寸前、次回の予定を確認して解散。歩数計は39,876歩を示す
 天気と暑さを気にしていたが、快適なウオークになった。取り分け妙徳寺の佐々井上人と岡大の松木先生には貴重な時間を割いていただいて有意義なお話をしていただいたのが何より嬉しかった。参加した全員が幸せを感じたことと思う。

 
 
 

53日  倉敷美観地区(及び近郊)コース

 前日は「3日は気圧の谷の影響で午前中は雨が降るだろう」と予報され、夜半にはかなりの雨が音を立てて降っていた。しかし、朝にはその雨も上がり、幸い五月晴れの好天になる。欣喜雀躍、ペタルを踏む脚も軽い。何せ『ハートランド倉敷』のイベントの日。名にし負う『川舟流し』をはじめ、いろいろな催しが楽しめる。

 830分、高松駅集合。参加者26名。出発に際し倉敷での人出の混雑を気遣って用意していた「コース図」と「イベント内容・時間表」を渡し、行程の安全を期す。改札口を出て、856の総社行きの電車に乗る。総社駅では三番ホームに移り、伯備線に乗りかえ倉敷駅に着く。トイレ休憩の後、改札口前で体制を整え、約束のガイドの山根さんに連絡を取り出発。→駅前の陸橋から中央通を南進する。大通りでも歩道には混雑もなく、雨上がりの朝の空気は気持ちよい。途中まで出迎えの山根・樋口ガイドに大橋家に案内され、あらためての挨拶の後、観光の要領と大橋家についての説明を受ける。塩田・新田開発によって財を成した大地主の邸宅。入館は割愛したが、往時の新禄(新興)しんろくの邸構えをよく伝えているという。大橋敬之助のことについての質問も出る。→路地を進んで旧市庁舎内の自然史博物館に入館。先ず実物のようなロボット仕掛けで動くマンモス親子が歓迎してくれる。「岡山県の成り立ち」、「県内の化石・鉱物・岩石・動物」、「世界のチョウ・カブトムシ・きのこ・稲類の標本」などの展示物が所狭しに三階まで続く。20分少々の入館時間では眺めて通り過ぎるのがやっとといったところ。一階にある観光休憩所で待ち合わせて出発。→館外に出て、倉敷国際ホテルに入り、入口ロビーの壁に掲げられている棟方志功の一畳余の大版画を見る。→新渓園の庭園に入る。樹木の下に花をつけた新緑の潅木が美しい。先に進んで大原美術館分館の前庭に点在する彫刻を観る。緑の芝生の上には、たくましいロダンの「歩く人」が立つ。→大原美術館本館の裏庭を通って表通りに出る。「川舟流し」のある倉敷川は両岸の柳が新緑に映えて美しい。→石造の今橋を渡り左岸に移る。左手に江戸時代後期に台頭した新禄層の中でも最も往時の面影を残すといわれる旧大原邸を観る。→通りを隔て川下にある旧大原別邸「有隣荘」(徳は孤ならず必ず隣あり)の前に立つ。別称「緑御殿」は美しい翠色の屋根瓦が今日も輝いて見える。イベント期間中は特別公開となっている。→南下すると将軍吉宗の時代(約260年前)の商家を改装して使っているという老舗旅館「鶴形」の白壁が目を惹く。「一泊の静かな夜」を羨望する。→中橋の向かいに建つ考古館は最初の計画では入館を決めていた所。路地に伸びる貼瓦の壁の建物は美観地区観光のスポットとされているが、それにも増して館長さんと其の収蔵品にはお目にかかりたかった。しかし、残念ながら諸事情から入館中止。→再び中橋を渡って右岸を南下する。倉敷民芸館日本郷土玩具館を過ぎ、「川船流し」の折り返し点の高砂橋を渡り左岸に移り北上する。→栴檀の巨木、倉紡製品原綿積み下ろし場跡を過ぎ、東に曲がり西側通用門からアイビースクエアーに入る。ここは江戸時代の天領倉敷代官所の跡地。工場の内部の温度調節に植えられた赤レンガの外壁を覆う蔦はやはり壮観である。多目的ホール、レストラン、記念館、ホテル等の各種施設が配されている。メタセコイヤの巨木、蒸気力で発動されたオルゴールミュゼ、工場の面影を残した通路等から其の歴史の跡を知る。→広大な館を出て町家の並ぶ通りを北上して本町通に出る。伝統的な建造物の町屋井上家は通りに南面していて二階外壁にある7つの倉敷窓すべてに土扉が付いている。江戸時代の正徳年間(17111716)前後の建造物と推測されている。→備中水沢家跡地に立っ中国銀行のある交差点を曲がって観龍寺に向う。途中大島家の墓所に寄り、特徴ある墓石について聞く。鶴形山トンネル脇の急な石段を登って寺の境内に入る。本堂は寛延2年(1749)に再建、その後整備し現在に至っている。幕末、第二騎兵隊の脱走兵約200人が代官所を襲撃し其の後陣を張った。兵糧・軍資金を調達して翌朝出て行ったが鴨居には其の時の傷跡が残る。山頂に出る参道には妙見宮(阿智神社の元宮)が祀られている。→なだらかな舗装された参道を行くと藤棚の続く神域に入る。社殿の裏手に着いたところで約束の時刻の正午になり記念撮影のシャッターを押して貰って、ガイドのお二方と別れる。藤棚の下のベンチには赤い絨緞が敷かれ、「お茶席」が設けられていた。其の席を避けて三々五々に別の藤棚の下に分かれて弁当を摂る。天然記念物になっている阿智の藤は推定樹齢300~500年、幹廻り1.5m、根元2.2mと聞く。食事中偶然にも大正琴の演奏に出演する公民館の先生に会う。やがて食事を終えた者から集まり、午後の自由散策について談合す。「川舟流し」の始まるまでの時間に、念願の林源十郎邸に行くことに多くが賛同。150下山にかかる。境内を表に廻る。参集殿では催しの「十二単衣お服上げ披露」の準備がなされている。阿智神社拝殿に額ずく。正面参道を下る。この参道は下から八十八段の米寿段、六十一段の還暦段、三十三段の厄除段、七段、五段、三段の祝段と荒神社まで続いているという。→参道を下りたところで「商店街パレード」に出くわす。中学生のブラスバンド、幼稚園児の鼓笛隊、バトンガールなどの行進が続く。パレードが中断したのを幸いに林源十郎店に急ぐ。元有名な薬局店は様変わりしていて、店内は目まぐるしいほどの棚・部屋が三階まで続く。創作イタリアン、雑貨屋、カフェ、デニムブランドの店等々。こちらのお目当ては屋上からの眺望。息急って屋上まで上る。まさに五月晴れの下密集する美観地区の屋根の見事さ、思わず驚嘆する。→「川舟流し」の時刻を気にしながら、一斉に店の裏から路地を抜けて倉敷川の川岸に出る。午前中のウオーク時とは打って変わっての人集。人垣を分けながら中橋の下手、高砂橋の望める一隅に僅かの空き場所を見つけて強引に陣取る。日差しのきついのを我慢して待つこと久。アナウンスの合図と同時にスルスルと花嫁を乗せた川舟が遡上してくる。凝視一点花嫁の白無垢の頭巾を追う。眼前に迫るまでに三度シャッターを切る。→残念ながら帰りの駅集合までの時間が少ない。帰りを急ぎ倉敷物語館に入る。ここは観光客と市民の交流活動の場、美観地区の民芸・文化向上の拠点施設という。長屋門・塀・路地・土蔵展示室が催行施設になっている。路地では昔懐かしいチンドン屋の一行と観光客が写真を撮っていた。展示室では和紙製の雛人形や諸行列の作品に魅かれる。→えびす商店街を縫うようにしてビオス憩いの広場に着く。「甘酒の振る舞い」に預かろうと思って立ち寄ったが、既に店じまいの後。→センター街を抜け駅のバルコニーに帰り、美観地区方面に向け倉敷駅の表玄関の光景を撮る。集合場所には既にほとんどの参加者が帰集していた。予定の発車時刻は259分。暫らく立って雑談に興じていたが、次々に敷物を出して混雑する改札口前にしゃがみ込む。いささか疲れたのであろう。

→ホームに出ると、一電車早く乗れた。総社駅からの吉備線車中では、われわれ一行の借り切りのようにゆったりと座席に着けた。安堵から唇がほころびる。1513高松駅に無事帰着。次回のウオーク予定を確認して解散。歩数11,000歩余。

 天候に恵まれ密度の高い観光ウオークを満喫することができた。地域振興を目指す倉敷市民の意欲の熱気を処々で感じ、活力を頂戴した。今日一日、参加者にとって心身の健康な「ゴールデンデー」を過ごせたと思う。

 

 

47日 「足守の文化財」巡りコース

 「健康づくりウオーク」も7年目に入る。今年度のスタートの日だが、このところの気象は冬型の気象配置で、中国山地沿いでは雪が降るかもしれないという予報。

 午前9時、旧足守藩侍屋敷北の駐車場に集合。幼稚園児のM君を入れて総勢26名にはなったが、先日の大暴風雨の被害処理とか町内の弔事で参加できないという連絡があって痛ましい。準備体操の後、コースを確認して出発。→旧足守藩侍屋敷。いつもながらの弁舌爽やかな内田先生のお話に傾注感歎。→南下して乗典寺にある緒方洪庵の先祖佐伯氏の墓所を訪ねる。乗典寺は日蓮系法華宗備中組寺の一つ。→北に引き返して虫籠窓(むしこまど)のある入母屋二階造りの豪壮な藤田千年治邸に入る。商家の様子、醤油工場の工具や醸造過程についてガイドの人の丁寧な説明を受ける。→東進して足守川に架かる宮路橋を渡り、古戦場冠山城址に向う。登山口の看板の横を通って、二の丸、本丸へと登る。標高40mの山は難なく本丸に着く。案内板を読んで、城主林重真の自決や加藤清正と竹井将監の激闘のあった「冠山合戦」を偲ぶ。下山の道からは春を告げる筍が黒褐色の顔を出しているが見えた。→坂を下るとすぐ葦守八幡神社の石鳥居に着く。南北朝時代創建で国内在銘最古の石鳥居。形式は明神鳥居で稚児柱を伴う安芸の宮島の鳥居に類似していることから、この足守の地は嘗ては葦の繁茂する沼沢の地だと指摘する史家も多いい。大工妙阿は「鼓神社の石造宝塔」の作者でもある。→鳥居から参道を北上して。参道の石段に立つ随身門を潜り境内に上がる。阿吽の石の狛犬に迎えられ葦守八幡神社の拝殿に額づく。応神天皇行宮の旧跡地に祀られているこの神社は境内が広く、美しい本殿には風格がある。吉備の地の分国の歴史と共に興味は尽きない。この宮は代々の在主から尊崇を集め、豊臣秀頼が豊臣家再興を祈願して奉納した神鏡は、神社のご神体とされている。→次の訪問地安富牧場への近道を選んで裏道を下る。文化財の該当地ではないが、今や足守の名所地であるこの牧場を訪ね、ウオーク途中の休憩所にする。→牧場を後にして、緒方洪庵誕生地に向う。足守藩士の子として生まれた洪庵の生涯は足守の地の誇りでもあろう。像や記念碑を拝して其の偉業を偲ぶ。→葵橋を渡って「桜土手」に着く。明日の『洪庵桜祭り』を控え、川原ではイベント実行委員の人たちが準備を始めている。残念ながら、二分ばかりの花の綻びに冷たい風が舞う。「花見」を兼ねたウオークでもあったが諦めざるを得ない。→やむなく近水公園内に移る。公園内にも適当な場所が見当たらず吟風閣の軒下の日溜りを選んで弁当を開く。眼前の「遠州流の池泉」を眺めながらの食事も美味しいものだと分かる。一時間足らずの休息の後、次回の倉敷行きの概略を告げ、記念写真を撮る。→管理人の片山さんに足守文庫を開けてもらう。建物が「文化財保存に不適格」の理由から、貴重な文化財が市の文化財センターに移された今は、館内が寂しい限りだ。→公園内を出て改修なった木下利玄の生家を覗く。数億円の巨費をかけて修復されたというが、閉ざされたままでは存在価値に疑問が沸く。→静かな流水を愛でながら足守藩筆頭家老の杉原邸を経て、足守公民館に立ち寄る。館内では転勤されたHさんを初め多くの知人に会う。→あすの「桜祭り」のため車の出入りの多くなった駐車場に、1時半過ぎ無事帰着。行程10km程。

少々天候不順の中でのウオークではあったが、多くの文化財に触れ、足守地域の「遺産継承と再生の取り組み」に敬服する充実した一日を過ごせたと思う。