文化町の 生い立ち     


(1)無土器時代(三万年前〜一万二千年前)
   常住寺東南遺跡、旗振台遺跡からこの時代の細石器が見つかっています。
   文化町付近は岡山市では最も古くから人が住んでいた所のようです。

(2)縄文時代・弥生時代(一万二千年前〜四世紀ごろ)
   県総合グラウンドにある津島遺跡で見つかるような土器は文化町あたりでは
   まだ発見されておりません。
   縄文時代の初期は、氷河がだんだん溶けて海面が上がり、瀬戸内海ができ
   平地は海となり操山は孤立した島になり人が住めなくなったようです。

(3)古墳時代(弥生時代に続く約三五〇年間)
   水田耕作が盛んになり百間川遺跡に見られるような農村部落が門田あたりにも
   でき始めました。操山にある旗振り台古墳は五世紀に、萩の塚、操山古墳群は
   七世紀に造られたものです。

(4)大和時代〜桃山時代
   門田一体は半農半漁の貧しい部落で、人口も少なく、権力者の目こぼし地帯に
   なっていたようです。記録は何も残されていません。
   平安時代・鎌倉時代・室町時代・戦国時代・織田豊臣時代と移り変わっていきますが、
   このあたりの人々は、いつも戦いのらち外にあって、各地の事件を風のたよりに聞き、
   時代の変遷と世の行末の不安におびえながら、貧しい生活をひっそりと続けていた
   ものと思われます。

(5)江戸時代
   池田家が藩主となり、この頃から記録が残るようになりました。地蔵川を境にして
   西側は城下町、東側を上道郡門田村としました。約三五〇年前のことです。
   当時の記録には戸数五三、男女七〇七人となっています。この数は明治になるまで
   大きな変化は無かったようです。文化町で最初に開けたのは峠坂で、城下と倉田・
   倉富・倉益等の干拓地との交通路として重要な役割をはたしていました。
   人々の往来が増えるに従って峠に茶屋ができ繁盛しました。しかし、江戸時代には
   文化町には一般の民家は殆ど無かったようです。

(6)明治以降
M22  岡山市制施行、旭東五ケ村を併せて三櫂村となる
M32  岡山市に編入、門田となる
S 7  仲町と分離して独立、[戸数約60(県公社13、峠17、その他30)]
     町内会を組織し、町名を門田文化町と定める
S20  岡山空襲 町内の被災は全焼6戸、死者4名、負傷者10名
     その後市内の被災者が移住し戸数が235戸と急増する
S20〜30年代 
     現在の二丁目、三丁目の大部分は竹やぶであったがこの時代に開発が
     急速に進み人口が現在に近い数となる
S40  住居表示が改正され、門田○○番地→門田文化町○丁目○番地となる
S57  町内会館落成


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