芳泉地区あゆみ
1987年 瀬戸大橋完成
1974年 岡山県立芳泉高等学校が新設された
1952年 芳田村など周辺10村が岡山市に併合された
1946年 南海大地震
1945年 岡山市が大空襲にあう
1928年 水道工事が完成し、通水式典が行われた
1910年 宇野線が開通した
1889年 万倍、西市、米倉、当新田、泉田、新保、富田が合併して芳田村になる
1687年 後楽園ができた
1654年 当新田が開拓される
1628年 泉田新田が開拓される
741年 備前、備中、美作に国分寺と国分尼寺が建てられた
683年 吉備の国が備前、備中、備後、の3国に分かれた
衣の移り変わり
日々の生活の中で、着物から服に変わっていったのは、昭和の初めごろだったとおもわれます。昭和3年(1928)に昭和天皇の即位の大典が、ありましたが、当時、学校へは着物で行っていました。ご大典の日は、全校みな袴をつけて、日の丸の旗をもって祝賀行進をしました。このように学校の式典などは、着物、袴で参加する人が多くいましたが、しだいに服に変わっていきました。
下着は、さらし木綿のじゅばん、さるまたで、寒くなるとネル布でこしらえたももひき、長袖のシャツでした。足は、木綿やコールテンの足袋を履きました。品物の少ない時代で、質素倹約が当たり前のことでした。服にしろ、足袋にしろ、つぎはぎをして着用しました。したがって、弟や妹には、なかなか、新しい物は買ってもらえず、「お下がり」といって兄、姉が着てたものを着ました。履き物は、わら草履は主でした。しかも、手作りのものです。少しでも長持ちさせるために布切れを交ぜて作ったり、竹の皮で作った草履がありました。
芳田の農業
田園風景 昭和28年1月
農業について考えるとき、基本となるのは、何といっても、農業用水のことです。芳田地区の用水は、遠く管掛用水から取水しています。この水は、西川を下り下石井で分かれて、枝川用水として芳田地区に流れています。明治25年(1892)それぞれの用水に組合が作られ、その決まりに従って運営されてきました。大正11年(1922)には、笹ヶ瀬用水組合も結成しています。
毎年、田植え前の5月末から6月の始めの3日間、この用水の清掃や整備にための作業をします。このことを「川堀り」と言っていました。
水田の給水は、樋門の設計が良かったのか、ほとんどの田は樋門を閉ざすだけで、水が載るように出来ていました。なかには、高田といって水路より高い田では、樋門を閉ざすだけでは、水が載らないので足踏みの水車を設置していました。