~25年2月8日

東楢津文化財 (NO 1   伊丹毅     

1.  天満宮

 天満宮の由緒は拝殿に奉納して有る。

 鳥居 嘉永 吉 (嘉永:1848〜1854年)

 灯籠 昭和19年 (1944年)

 碑  菅公一千年祭碑

灯籠

天満宮鳥居

手洗い

菅公碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2.  八畳岩

  天満宮の前を左に曲がり山手の道を500m登ると八畳岩にでます。

 西山祭祈遺跡の八畳岩は、古代には神が宿る磐座として人々の崇拝を集めていたと考えられます。

   この場所から眺めて見事で昔は前に広がる海の魚群を監視する魚見台や賊の進入の見張りや、それを知らせる のろし を上げた跡であったとも推測されます。

      日の出を拝むにも最適の場所とも言えます。昭和30年(1955年)頃までは、4月初旬に山登りの行事があり、多くの村人が酒や弁当を持ってこの場所に集まり大変賑わいました。特につつじが一面に咲き誇る季節はこの辺り一帯が一段と素晴らしい眺めに変わります。

(学ぼう、伝えよう、わたしのまち備前一宮ヨリ)

 

八畳岩

八畳岩

 

 

 

 

 

 

 


  八畳岩より南西を望む

昭和40年頃(1965年)

平成25年(2013年)

 

 

 

 

 

 

 

 


  八畳岩より東南を望む

1965年頃

 

2013

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


3.十二本木大権現 (八畳岩の西側にあります)

    牛神をお祀りする十二本木大権現は伯耆大山の分社とする伝えがあります。田の工作や荷車での運搬など、昔の人々にとって欠くことのできない牛馬に感謝するお祭りが盛大に行われていたと、地域の人に聞きました。しかし農作業の機械化に伴い牛馬社のお祭りも次第に衰えて行きました。          (学ぼう、伝えよう、わたしのまち備前一宮ヨリ)

 

十二本木

十二本木

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4. 

大日如来と無縫塔蓮台

   室町時代の作と考えられ、付近に残る阿弥陀堂という

地名(あんだどう)と関係があるかもしれません。

石仏は近くの溝を改修した時に出土したものです。

 (学ぼう、伝えよう、わたしのまち備前一宮ヨリ)

阿弥陀さま

 

 


 近くには岡山市保存樹 むくの樹があります。

 

 

 

 

 

保存樹 むくの樹

 


5.  東楢津貝塚

    東楢津祖師堂から約200M西に進むと右手に少し山肌が剥き出しになったところがあります。ここが東楢津貝塚です。海辺に住んでいた人が食べた貝殻を捨て、この貝殻がたまった場所を貝塚と言います。東楢津貝塚より出てくる貝殻は(はいがい)や(やまとしじみ)である事から当時この辺はさほど深くない海ではなかったことが分かります。古老の話では、数年前までは少し土を掘ると貝殻が出てきたそうです。

               (学ぼう、伝えよう、わたしのまち備前一宮ヨリ)

 

6.  不受不施派の題目石

  東楢津貝塚の東上山側にある。

不受不施派題目石

題目石

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


7.  東楢津の祖師堂

    お堂の全面に宝暦12(1762)年壬午の名を刻んだ題目石があります。その横にある常夜灯には安政8(1861)年丙辰8月13日の銘が刻んであります。

お堂には、以下がお祀りしてあります。

   題目石 / 高さ約145cm  幅約83cm  厚さ約36cm

   題目石 / 高さ約100cm  幅約53cm  厚さ約43cm

常夜燈

    地水神 / 高さ約 67cm  幅約43cm  厚さ約36cm

 

題目石

祖師堂の題目

 

 

 

 

 

 

 

 

 


8.  東楢津祖師堂の引き戸

  此れは元岡山城の物であるとか?

 

 

 

 

 

祖師堂扉

妙見菩薩 1823年開眼

 


9.道標

    木船明神への道しるべ

 

 

 

 

 

 

道標

 

 


10.木船明神

     木船明神の由緒は不明だが、岡山県御津郡誌には

次の通りの記述があります。「木船、平津村東楢津に

有り、往来より三町許の山腹に木船神社として小社あり、

昔この地方は海なりし頃 難破せし 船頭の霊をお祀り

したともいい、又船神という」 古代にあっては、この

木船明神

前面の海原は漁場として、行路として賑わったのでしょう。

(学ぼう、伝えよう、わたしのまち備前一宮ヨリ)

 

11.横穴式石室

   天満宮拝殿横の民家の藪の中に古墳時代後期の

物と思われる横穴式石室があります。

    古墳の内側は確認できませんが、入口を南に向け

天井石は大きな一枚岩を使っており、外見は往時の

横穴式石室

姿をしっかりととどめた立派な横穴式石室です。

(学ぼう、伝えよう、わたしのまち備前一宮ヨリ)

 

12.百年講記念碑

    我々興我々最 親愛之同

志者相謀欲令我々之子孫

永遠為國家之中堅為忠良

之 民茲設立永久措置共

同貯金講 故我々之子孫

是克 得共取旨導守講規

百年講

約司 致奉公之 誠

 

紀元2千五百八十六年

大正十五年四月十一日 (1926年)

 

設立講員氏名

竹原 庫太   竹原 久四郎

竹原 惣次郎  常光 辰五郎

常光 恭一   竹原 長次

常光 房治   常光 定吾

建部 際太郎  細川 源次郎

常光 十七治  竹原 寅蔵

建部 庄三郎  中村 勇吉

 

十周年記念碑

裏面

昭和十一年四月十五日 (1936年)

 

13.天満宮由来を記述された人

      常光俊吉様の墓

      百年講碑の前の山道を10m程登った処

(百年講記念碑上部)にある。

 

常光俊吉さん墓石

14.昔この土地の庄屋

    常光家の墓所

    備中高松城主清水長右衛門の縁の墓碑あり。

 

15.砂ぐろ

      笹ヶ瀬の交差点付近から南方向に目をやると 田の中にこんもりと土が盛り上がったのが見えます。これが砂ぐろです。明治25年(1892年)、26年に2年続いて台風が集来し笹ヶ瀬川の堤防が決壊し、一宮、平津、馬屋下地区に大きな損害をもたらしました。一帯の水田は泥海と化し、一面砂と小石に覆われ稲は全滅に近い状況になりました。水田の砂や小石は人の手によりかき集められましたが、あまりにもその量が多いために田んぼのあちこちに砂の山が出来ました。これが今も首部の南側に残る砂ぐろです。天井川である笹ヶ瀬川の度重なる水の氾濫から村を守るため、白山神社より南に笹ヶ瀬川に直結した堤防が築かれました。これを副堤と言います。

 

16.座主川分岐樋門

     座主川は旭川の西側一帯を灌漑する用水路です。

岡山市三野水源地北側の水を取り入れ三野公園の

南部から、旭川合同用水路の下を暗渠で潜り、

北方から岡山大学構内を西に流れ、津島、万成を

通り笹ヶ瀬に沿って流れ、矢坂を過ぎ野山で笹ヶ

瀬川に合流しています。この間、平津の灌漑のため

笹ヶ瀬川の下を暗渠で通して東楢津に水を流し、

尾上地区の潅漑には、中川、砂川、三丁川の下を暗渠で通して尾上側の農業用水路に繋いで

います。座主側用水は天台宗金山寺に保管されている仁庵(1168)年日付の文章に(三野堰料)

という言葉がありこの時期すでに座主川用水が伝えられ、古くから開かれた用水であることを

裏付けています。

延宝年間(1670)年代には、池田光政の命を受けた津田永忠が座主川を改修したとの伝え

があり、先人の知恵と汗の結晶が、今も多くの地域の農業を潤しています。

       (注)六丁樋樋門が6枚の板でできていることが、その名の由来です。

          三野堰料今の座主川が旭川から取水している六丁樋を指します。

 

      座主(坐主)とは----仏教用語における座主とは、一般に日本の天台宗のトップ、

天台座主法主)の事を指す。

  17.お祭り

   がく

     がくは大工 岡村棟梁の手によるものであります。

構造は屋根付き2階建てで複数の大小提灯を

飾ることができ、2階は2畳ほどの広さがあり、

子供は2階に登りお祭りを楽しんでいました、

また1階はだんじりを収めることができます。

    がく建ては毎年1016,17日の祭の前日に

建てられていました。場所は祖師堂の斜め向かいの

南北の道を跨ぐ用に建てられました。しかし昭和34,35年ごろより自動車が増え通行の邪魔に

なるようになり、以降は遊園地に建てていました、しかし老朽化が進み 平成19年ごろよりテ

ントを張り代用(だんじりを収める)しています。がくは だんじりと同様に倉庫に収納して

います。

 

   だんじり

      

     此のだんじりの彫刻は美しく優雅で気品あふれる作品で自慢できるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


18.皇太子殿下行啓記念碑

    大正15年5月21日建之(1926年)

    東楢津遊園地に建てられています。

 

 

 

 

19.その他

   東楢津村について

     (近世)江戸期〜明治8年(1875年)の村名。 備前国津高郡のうち。

       笹ヶ瀬川右岸、坊主山の南側に位置する。宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年

から岡山藩領。古くは楢津村と称し(備陽記)、慶長9年11月11日(1605年)の

武藤猪右衛門宛 池田照直(利隆)知行宛行状(倉敷市史)には(なら寸村之内を二百石)と見えている。村高は、(領分卿村高辻帳)(備陽記)ともに1504石余、(天保卿帳)1651石余、(旧高旧領)1652石余、(備陽記)によれば、岡山市万町口まで道程30町、反別32町余、家数28,人数196,池1,なお枝村として中楢津、西楢津、が記されている。中楢津村は岡山市万町口まで道程32町、反別29町余、家数40,人数342,池2,西楢津村は岡山市万町口まで道程1里4町、反別32町余、家数32,人数246,池2,明治4年(1871年)岡山県に所属。同8年(1875年)枝村と合弁し楢津村と改称。   

(角川日本地名大辞典岡山県)より

 

   楢津の番地の流れ

      楢津の1番は神田地区から始まり、県道上芳賀岡山線の南側を西へ行き佐山地区の手前で県道上芳賀線の北側に移り東へと流れてきます。最後は再び東楢津へと帰ってきます。そして最後の番地は3200番台とおもいます。

     因みに、道を開かれ県道の南と北で大きく違うのに驚かれます。

 

                                                           以上

 

 

2013/4/12

 八疊岩

にて