東楢津いきいきサロン “東楢津の昔・今を語る会” 記録 H24年度
皆様のお話の概要を記載しましたが誤記述部分、不足部分は 回覧時追記・修正をお願いいたします。順次正しいものに訂正させて頂きます。
石棺
l 天満宮の南東 此寺勝彦氏宅裏の竹林の中にあります、入口は南側に向いています。この種のものは今も東楢津と首部境の山際に1式あります。また以前、天満宮の付近に現存の物の他2式ありました。
楢津の地名について
(本稿は此寺勝彦氏が平凡社刊「岡山県地名」抄より調査記述されたものより転記しました)
東楢津村(ひがしならづむら) 現在の岡山市楢津(ならづ)
l 山崎(やまさき)村の東、坊主山山塊の南西麓にあり、東は首部(こうべ)村、南は笹ヶ瀬川を限り、対岸は万成(まんなり)村、大安寺(だいあんじ)村。
l 寛永(1624〜1644)備前国絵図・正保郷帳では楢津村とあるが 貞享3年(1686)東楢津村と改め、中楢津、西楢津を枝村とした(撮要録)。
l 中世には楢津村が成立、同保は応安元年(1368)11月周匝(すさい)保(現赤磐郡吉井町)とともに国衞別納として御役所料所に付けられ、典薬頭丹波為直に一円管領が命ぜられ(「後光厳天皇論旨」柳原家記録)。長享2年(1488)8月24日、領家の千本丹三位(典薬頭丹波重直)は幕府に直務を訴え認められた。
l 明応7年(1498)8月28日には千本福寿丸は同保領家職などを安堵させている(「室町幕府奉公人東署奉書」仁和寺心蓮院文書)。
l 康永元年(1342)の「備前一宮社法」によると「奈良津村三社ノ宮」の祭に、備前一宮(現、吉備津彦神社)がら「ごんの一ミ子、薬とうノ衆」が派遣された。
l 寛永備前国絵図で高1504石余。「備陽紀」によると田畑反別はそれぞれ東楢津(本村)32町4反余・東楢津(本村)32町4反余・中楢津29町6反余・西楢津32町7反余。
l 元禄(1688〜1704)頃の手鑑(則武文書)では東楢津は高538石余、直高359石余、家臣6名の給地。田は28町1反余・畠4町3反余、家数26・人数185・牛12、中楢津は高478石余、直高316石余、蔵入と家臣5名給地。家数36,人数212.牛18,馬13、西楢津は高518石余、直高348石余、蔵入と家臣5名給地。家数31,人数217.牛18,馬5.
l また文化年間(1804〜1818)の「岡山藩領手鑑」では東楢津は高358石余、蔵入と家臣8名の給地。家数40・人数165・牛15、池2、樋5、井関2,橋2.中楢津は直高316石余、蔵入と家臣6名給地。家数53,人数322.牛29,馬4、育麦蔵1,池3,樋11,関戸1,分木1,井関2,橋8。西楢津は直高348石余、蔵入と家臣6名給地。家数77,人数436.牛27,馬5、池3,樋8,分木2,橋12。
l 東楢津の産土神は首部村の白山権現、中楢津は若宮八幡宮、西楢津は明見宮
l 中楢津の日蓮宗金宝山宝仙寺(金川村妙圀寺末)、西楢津の同宗承永山寺(同上)はいずれも寛文6年(1656)廃寺となった。(撮要録)
l 明治8年(1875)今岡村など3ヶ村と合併楢津村となった。
(備考)@「保」(ほ)は律令制で定められた隣保組織、隣接する5戸で構成し「納税、防犯などの連帯組織」
A「蔵入」(くらいり)は幕府、大名の直轄令。
そら屋敷
l 場所は天神様の西側(現在此寺勝彦氏の畑)でお寺のような門があり掘りがあった。
l そこには岡山城主池田の殿様が鳥取より岡山国替えした時に侍(常光姓)がついてきて居住した。
l その時代の村の中央には福田氏が居を構えておられた。
寺屋敷と引導場
l 天神様裏を通る裏山上り道(市道)の西側にお寺と引導場があった。(現在の竹原幸子氏山)
祖師堂
l 祖師堂は日蓮宗を布教するため池田公が建立したとも伝えられている。約400年の歴史があると伝えられています)
l 1940年ごろには5月12日より1週間お祭りがあり、子どもたちはお供えのせんべいをもらいに行っていた。しかし第2次世界大戦中に中止された。
l 日蓮宗宗徒により昭和35年頃まで祖師堂内で看経が行われていました。
l 祖師堂の入口扉は明治初期(廃藩置県により)に岡山城より移設されたものです。
l 題目碑は宝暦12年(1763年)造られたと刻字があります。
l 祖師堂の土地は国有地です。
道
l “磯伝い”の道: こうばな(現在の竹原淳氏宅)より天神様を通り若宮神社へ通じる道。天満宮の下方に貝塚ありその頃より呼ばれている!!
l 神武天皇が通った道:三泊より山を越え東楢津(此寺勝彦様畑の西側)を通り高島へ。
東楢津近辺の道
l 180号線が無い時代は東西を結ぶ道は万成郵便局上方の山の中にあった。この道は東楢津居住の武士が岡山城まで通っていた。観音様付近では幽霊・追い剥ぎが出ると言われていた。
l 現在の180号線は昭和13年頃開通した、工事材料運搬にはトロッコが使用された。また万成の峠は“切通し”と呼ばれていた。
l 本村を通る上芳賀・岡山線(現在の238号線)を支那事変の中頃から大東亜戦争の時代兵隊(多い時は100人)が弥生(作業地があった)から東楢津を通り練兵場(現在の総合運動公園)間を通っていた。子どもたちは兵隊へ敬礼をしていた。時には家庭に寄り(縁台で)昼食(糠にえんどう豆が混ぜてあった?:大戦終盤頃であろうか?)を食べていたのを見たことがある。また兵隊が子供に便所を探してくれと要望されたこともあり、現竹原一郎氏の宅を紹介したこともある。
座主川 (詳細は伊丹毅氏作“東楢津文化財(NO1)” 平成25年2月8日版を参照下さい)
l 以前東楢津では三野川とも呼ばれていました。
東楢津の大木
l 松の大木2本:天神様(以前の位置)の鳥居付近に1本、鳥居の下方に1本ありました。鳥居の付近のものは松が枯れ、伐採時鳥居に倒れ鳥居を倒壊させたそうです。此の鳥居は昭和39年に町内奉仕作業により現在の位置に移設されています。また鳥居の下方にあった1本の松の大木は第2次対戦時軍隊に供出されなくなりました。この松の木は学校(旧平津小学校:現在の平津コミュニティハウス)の大松か東楢津の大松かと呼ばれていた。
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この2本の木 公会堂より北の山を望む
お祭り・だんじり・額について
l 額は大正の終わりか昭和の初期に西楢津岡村棟梁様により制作された模様。
l 額の上部には2畳ほどの板が貼られており子どもたちはそこで将棋をして楽しんでいた。
l だんじりは額の制作以前に造られた模様。
l 額は首部、中、西楢津各町内にありました。
l 昔は各町内がそれぞれだんじりを持っており、東楢津のだんじりは比較的新しく、また町内の子供の人数が少なく(具体例:常光久芳様が小学校1年生の時2,3年制がいなかった)、けんかみこし状態になり、西方面の中楢津は大勢で喧嘩強く、また矢坂、万成方面は非常に荒っぽく たんぼに落とされたりするので東、南方面へは出向かなかった。当時のリーダーは中学2年生でした。リーダーは町内の子どもたちをよくまとめていた。 だんじりを引くときは“イチかけ、二かけて,三かけて,四かけて、ごかけて、橋をかけ、橋の欄干に腰掛けて・・・”と歌いながら行った。
l しかしその10年後の子どもたち(建部善平、此寺勝彦さんの時代 この頃は常光忠雄様たちがリーダーでした。)は180号線三門を経由、山陽線を超えて上之町、
新西大寺町まで繰り出していた。この頃だんじりを引くときは“こちゃえぇぇ
こちゃえぇぇ”と歌いながら行った。
l お祭り日には町内のご家庭では軒先に提灯を下げお祭りをしていました。いまでも軒先に提灯を吊り下げて伝統を守っておられるご家庭もあります。
l 昭和50年台は1日目は夕方に村の下級生と父兄がだんじりをひき、上級生がだんじりにのり太鼓を打ち鳴らし、そのたは笹の枝に提灯をぶら下げ(提灯はろうそくの灯りよく消えた)、だんじりについて回った。町内の方々はだんじりが来るのを出迎えてくださっていた。2日目は日中に同様に回った。この頃は“わっせっ、・・どんどん(太鼓を叩く)わっせっ、・・どんどん・・”と掛け声をかけながら行なっていた。
天神様とお祭りについて
l 昭和20年頃までは 春は5月24日、夏は7月24日、秋は10月24日、年3回実施していた。しかし7月はい草収穫時期に当たるため日中はお参りが少なく、早朝のお参りが多かった、夜のお参りもありました。
l お祭りの準備:戦前は記憶によると 町内代表者常光忠治氏(常光末氏親)に続き竹原八十八氏(竹原一郎氏祖父)がご神殿を開きお祭りの準備をしていましたが 戦後は町内会役員で準備をしています。
l 秋祭りのお火焚き:戦前お祭りの日には子供は小学校より帰ると麦わら(わらには小麦わらと大麦わらがあり小麦わらはよく燃えていた)を集めて午後7時頃より焼いていた。最近では竹原良一氏、建部善平氏 町内土木役員が準備してくださっています。
l 天神様改築時(昭和39年:詳細“天満宮新築記”は井上彰敏氏により記述された資料が天神様へ奉納書として保管されています。)本尊は京都に修理を出した。各戸寄付金(各戸520円)を出し本殿屋の屋根を銅板でふいた。復修後お祭り(餅投げなど)を実施した。工事は1月より5月まで毎週日曜日に町内のメンバーが人力奉仕をした、また本殿は此寺勝彦氏父 此寺英夫氏により建てられた。この時鳥居も移設された。
l 以前の天神様の位置は此寺勝彦氏、此寺保氏宅の間の上部にありましたが昭和37年山崩れ(長雨により)より倒壊し 上記改築記に記入されている復旧作業により現在の場所に移されています。なお現在の天神様の境内は此寺勝彦氏宅地を借用しています。以前の天神様の境内は此寺勝彦氏が神社庁より購入されています。
l 天神様に掲げられている社殿額(2額)は伊丹毅氏による作品です。
牛神様のお祭りと十二本木大権現
l 8月22日に坊主山 十二本木 (八畳岩より尾根伝いに西方面)にて行なっていた。牛神様の前では酒宴(太鼓、魚、お酒を持参)が行われていた。また当日は現在竹原一郎さん宅の畑付近で盆踊りも行われた。その後盆踊りがなくなり太鼓をたたいて歌に興じていた時代もあった。現在でも十二本木大権現碑の前は大きな木もなく広場があります。
l 牛神様は各々の村にありますが この付近では日応寺近くに大きなものがあります。以前は日応寺付近の十二本木より東楢津の十二本木にあった大きな松の木を望むことが出来た。
l 昔は此の山は池田藩の管林で磯伝い道より下部は私有地でした、明治の廃藩置県後売り買いされた、現在一部は町内会の山として登記、管理されています。
百年講記念碑
l 大正15年(1926年)町内有志14氏により設けられ “百円X100年間で壱万円”のかけ声で始められたとのことです。 記念碑は当初遊園地北 常光末氏宅地(県道側)に設置されていたが現在は裏山市道近くに移設されています。(詳細は伊丹毅氏作“東楢津文化財(NO1)” 平成25年2月8日版を参照下さい)
公会堂の扁額
l 「集会所」扁額は常光末氏先祖 常光定吾氏の筆によるものです。
兵隊宿舎
l 昭和12年頃 津島練兵場へ演習に来た兵隊が2週間ほど東楢津の家庭に(2〜3人単位)宿泊していた、大きな家(常光末氏宅等)には上官が泊まっていた。
昭和18,19年頃の共同農作業
l 村で毎日の耕作地を決め、お互いに牛、耕作用具等を 持ち寄り共同作業を実施していました。食事は朝食より現在の公会堂にて大鍋(町内会倉庫に保管されています)でご婦人数名により準備されていました。
楢津橋、首部橋
l いずれの橋も川底の流れに石橋がかけられていました、したがい笹ヶ瀬川を渡るには堤防を登り、川底に向け堤防を下り石橋を渡り、堤防を再び登り川を渡っていました。昭和20年の撮影の楢津地域米軍航空写真には堤防の川側斜面を斜めに通る道が写っています。
l 楢津橋はその後木製で堤防から堤防へ渡されたものが設けられ、現在のコンクリート製の橋は昭和49年3月に竣工、また首部橋は昭和50年10月に竣工されました。
東楢津と空襲(昭和20年6月(1945年))
l 神田班 奥田氏宅付近に肥料工場がありましたが 空襲で破壊されました、また神田班の北側付近の田に砲弾が多く落ち長い間用水路が鉄錆による茶色な水が流れていたそうです。
演劇・相撲大会
l 演劇は昭和22,23年ごろ現在の竹原一郎さんの畑付近(盆踊りの行われていた場所)に小屋を建て演芸を披露した。(常光久芳氏、竹原正雄氏、井上彰敏氏など)見にきた人より花代を得た。
l また同じ場所で相撲大会も行った。そこで必要なお金は裏山で松葉を集め、奉還町や山手まで売りに行った。なお相撲大会はその後昭和30年ごろまでお盆に笹ヶ瀬河川敷で行った。参加者は子ども会(当時は中学2年生まで)まで。
食料の物々交換
l 昭和24,25年ごろは家で収穫した小麦を矢坂、一宮のパン屋さんへ持参してパンと交換してもらっていたこともありました。
東楢津町内会の借家とその収入
l 遊園地南部に昭和39年頃 町内奉仕作業、寄付(木材等)により借家を建てた、昭和45年度の会計報告書によると この家賃収入(遊園地学生用借家より 161,000円/年、公会堂東借家より64,000円/年)があり町内会費の徴収はなかったようです。
こぼれ話
l 遊園地の昔:現遊園地の昔はゴミ捨て場所として使用されていて、1本の橋が掛けられていた。冬はそこで焚き火をして暖をとり子どもたちは小学校に通っていた。
l 富原に泥炭炭鉱があり昭和30年頃まで採掘されていた。
l 柿泥棒:現在の平津コミュニティハウスの場所に平津小学校がありました、その裏に柿畑があり小学生が柿を黙って食べて、翌日校長先生に怒られた生徒が東楢津におられました。
l 松茸:裏山・若宮神社の下方でも昭和28年〜30年ごろまではよく探す人では1日10本ほどの収穫があった。
l 砂場(地名)裏山より流失した砂を集積した土地で久世憲文氏の家(楢津48番地)を以前砂場と読んでいた。
l 昔の川掃除(昭和20年以前):1週間から10日程続けて川掃除を実施していた。またその時年長者より昔の話をよく聞かされた。
l 貝塚の貝:若宮神社の東下部(道沿い)に貝塚があり 多くの貝がありましたが鶏の餌にされ今は見ることができません。
l ムクの実:若宮様の登り口にある岡山市記念樹“むくの樹”の実を昭和20年代の子供は食べていました、大きな子供は熟した紫黒い実を採って美味しそうに食べ、小さい子はそれをもらえないので熟れてない緑色の実を採り 家に持ち帰り“ぬか”の中に入れ 熟したものを食べていた。