平井の歴史

平井の史跡案内図

「平井は何時頃出来たのか」という質問には、先ず操山は岡山平野が穴海と呼ばれていた時代すでに緑の岳として姿をあらわし、次に旭川沿いの地区は平安朝末期頃から吉備高原を削る大川の土砂により盛り上がった土地が出現し、そこに数戸の家が散見され、更に中央の平野部は久しく沼地の様相を呈していたが、16世紀はじめ頃から開拓や自然の力で徐々に現状に近づいて来た。平野が出来るに従い山に住む人達は平野へ、堤防が補強されれば堤防沿いに家が増え、新しい土地へと人々の生活は変わってきた。
次に、この学区の歴史を語る幾つかの事柄について簡単に説明する。

◆湊茶臼山古墳
 古墳時代前期の前方後円墳で西湊の
最高峰にあり、全長130米、当時海に勢力を持つ有力者の墓と伝えられている。
◆汗かき地蔵
 湊・倉安川から少し入った山麓にあり、大日地蔵大権現、通称「汗かき地蔵」と呼ばれている。
昔孝行息子が母の病気治療に信心されたと言う地藏さんで、今も信仰が絶えないという

◆倉安川
延宝7年(1679)新田の灌漑(かんがい)と 吉井川・旭川を結ぶ水路として開発された。池田光政が参勤交代の帰路、最初に使ったとされ、物や人を運ぶのに馬で運ぶより安いというので,この名がついたという。現在は一級河川で、学区の約3分の1程度が改修施工され、新しい川に生まれ変わっている。
◆牛頭天王碑・題目石等
天平5年(733)、吉備真備が唐から持ち帰た荒人神で,日本では素戔鳴尊(スサノウノミコト)があてられている。疫病や災害より強い神として集落の入り口付近に祭られている。
網浜茶臼山古墳
平井元上町と笹山墓地に続く山頂・平井と
網浜の境界付近にあり,今は現在の墓石で埋まっている。全長92メートルの前方
後円墳ですぐ南100メートル程のところに
平井城があったという。
不動塚
横穴式古墳で6〜7世紀古墳時代のもので
盗掘が容易なため副造品は殆どない。朝鮮
半島から伝えられたもので,小さな集団の
有力者か、大和朝廷の関係者のものと思われる。
◆権八井戸
権八とは平井権八講談で有名な白井権八のことで、権八が産まれた時は岡山に居たので、産湯を使った井戸として名を残している。
◆平井清水井戸
「和気絹」という古書(1709)に「五軒屋という所に良質の水があり、児島の人が酒を作る。美味で児島諸白(モロハク)という」とある。
昭和30年頃まで岡山市の造り酒屋も使っていたという。
◆馬の足形岩
佐々木盛綱の伝説として「源平藤戸合戦に出陣した盛綱の馬の足跡」と記している。
◆奥聖寺(オオショウジ)
池田藩政下、弾圧された日蓮宗不受不施派は日雅聖人により、元上町の竹薮の中へ
松寿庵を開き内信の場として守り続けた。
明治9年再興が許可されてからは信徒の
奉仕寄付により、現在地に建立した。
◆日蓮宗不受不派
  教碑・柳原刑場跡碑
   元町旭川堤防近くにある。寛文8年
(1668)和気郡佐伯町本久寺の日閑聖人及びその弟子6人が柳原刑場で処刑された昭和42年処刑三百遠忌に当たり、平井の
関係者がこの石碑を建立したという。
柳原刑場は明治の初めまで続いた。
◆洗床=ケレップ水制
 現在、平井を中心に19基が残っており、
明治14年オランダ人ムルデルが伝えたもので河川の推没を防ぐため、粗朶の上に割石を積んであり、ケレップ水制とも云う。昭和13年頃完成した。この付近の砂地で蜆貝がとれる。
◆妙広寺
 大覚大匠の弟子日実聖人が元平井に
永和年(1375〜1378)に法華山妙家寺
として開山。永録年(1558〜1569)中に至り平井城の平井助之進が両親の
菩提のため今の地に移し、名を平井山
妙広寺と改め、以後400年余り旭川地区の日蓮宗の名利として栄えている。
◆妙楽寺
 真言宗の極楽寺と云っていたが、天正年間
(1573〜1591)に改宗し日蓮宗が妙楽寺となる。
本尊は日蓮聖人ご眞筆の大曼茶羅で、
加藤清正公のご尊像が祭られている。
◆孝女満喜の墓
 父は病弱、母は狂人、姉は白痴の貧しい満喜女は、他人の扶助も断り、懸念に働き続け文化9年 (1812)38才で早逝した。藩からの表彰が得られなかったので、平井の人達 が浄財を集め碑を建立して後世に残している。
◆軽便鉄道の跡
岡山市の玄関として発達した三蟠港を有効に活用するため大正4年桜橋―三蟠間が開通、その後国清寺まで延長される。平井地区にはみなと(元町)・上平井・下平井の三駅があり大勢の人が利用していたが、旭川の浚渫や
自動車の発達により昭和6年6月廃線の
やむなきに至った。
   
 
 
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