歴     史 幡 多 学 区 電 子 町 内 会

 幡多地区の中央を東から西に横切っている旧国道(通称)は、江戸時代には参勤交代、伊勢も
うで、金比羅参りでにぎわっていた。また昭和36年4月に国道2号線(現在の県道250号線)が
整備され、東京・大阪方面から九州・四国へ、逆に地方から中央に政治・経済・文化等を運んだ、
いずれも国の重要な幹線であった。しかし、平成13年4月に国道2号線が平島から南に付け変
わったため、幡多地区の国道2号線は県道に変わった。
 そこで、備前平野の山陽道の歴史を見ると、時代と共に南下していることが分かる。
 古代には播磨国から船坂峠を越えて、備前国に入り三石・和気から吉井川を渡って槃梨郡の
松本・可真、続いて赤坂郡の日古木・馬屋から牟佐の渡しにより旭川を渡り、三野郡の玉柏に
入っていた時代が平安末期まで続いていた。
 鎌倉時代の南北朝のころには、三石から伊里中の方向に向かい伊部そして香登から吉井川
を渡って、上道郡吉井・西祖・平島・笹岡・宿奥・土田・国府市場・祇園・八幡と竜の口山の南を
通って中島の釣りの渡しで旭川を渡り三野郡の三野に入っていたらしい。
 近世に入ると和気郡三石から片上に至り伊部・大内・香登を経て、邑久郡八日市から吉井川
を渡って上道郡一日市・楢原・沼・北方・鉄・藤井・財(たから)・乙多見・追分・藤原・原尾島を過
ぎて旭川を渡り岡山城下に入る道筋が天正15年(1587年)前後まで続き。その後、藤原の二本
松から南に折れて原尾島・森下・古京・小橋・京橋のルートができた。
 そして、自動車時代へと変貌して行き、さらに交通量の増大から、旧岡山バイパスが国道2号
となって平島から西大寺を経て倉田に繋がったため、長岡や藤原を通っていた国道2号線は、
県道250号線となった。
                               参考文献 :「幡多2000年の歩み」より
○ 地図にリンクします。
◎ ここでは、近世の一日市から幡多村を経て京橋までの現代を辿ってみる。
 
    1.一日市の一里塚  

               

 江戸・上方から岡山城下に入るには、吉井川を渡り、上道郡一日市(ひといち)に入る。今の備前大橋の約500m下流になり、車の行き交う国道2号線沿いに、一里塚の碑が建てられている。
 当時は、松と榎があり木の下で渡し舟がくるのを待っていたであろう。榎は最近まであったが、車の排気で枯れてしまった。
    2.一日市の宿

 岡山市吉井に一日市宿がかってはあり、吉井川が増水すると何日も渡しが止まるため、宿は旅人であふれていた。最盛時期には本陣と旅籠100軒近くあったが、今は無く昔の栄華を想像する事はできない。
 宿場町の入口には、「常夜灯」が今も残っている。「常夜灯」は、当時各集落の入口にあり、灯かりを燈して、集落の目印と集落への「魔よけ」を願って建立されていた。

    3.砂川の標示



 道標は、上の写真中央


 岡山市楢原の砂川沿いにある道標で、(山陽道)幹線から枝線を示唆する交差点であった。
旅人は、ここで津山や牛窓に曲がっていたのだろう。
今は、民家の角に小さくあり当時を偲ぶことができる。
    4.藤井宿     
 

 岡山市藤井は、江戸時代西本陣・東本陣と旅籠があり、多くの諸大名や参拝の旅人が泊まった藤井宿であった。本陣跡には、今も分厚い土塀が残っている。
しかし、鉄道や国道2号線の開通による交通の発展とともに、道幅の狭い旧国道は役目を終えた。

 また、元治元年の長州征伐に赴く藩士が城下への通過を迂回させるため、藤井から牟佐に誘導す
る時代があった。その事を言っている看板が神社前にある。
写真は拡大します。
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    5.長岡の交差点

    
 岡山市長岡の郵便局の前にある道標で、この十字路から東西が山陽道で、南に行くと西大寺、北が軽便鉄道の長岡駅であることを示している。

 
     6.幡多小学校前の旧国号    


 岡山市乙多見から藤原に掛けての一直線の旧国道、道幅5mほどの狭い道だが、かっては参勤交代の大名や多くの旅人が行き交った幹線であった。
昭和の中頃まではバスやトラックが多く運行してお り、民家の塀や家の軒(のき)を壊すことも度々で、今なお家の前に車除けの「石」を置いている民家もある
 しかし、当時の道の周辺は田畑や草むらばかりだったと思われる。現在幡多小学校の前に立って見ても当時を想像することはできない。
    7.二本松交差点

 岡山市藤原の二本松から、山陽道は西に真っ直ぐに延びていたが、岡山城主の宇喜多秀家が城下を繁栄させるために、二本松から南に折れ山陽道を付け替え旅人を城下に引き入れた。この目印に一里塚として二本の松があったことから、二本松という地名になった。

     8.森 下  
  
 
写真は拡大します。
 岡山市森下町、現在も出格子窓の民家が4・5軒ある、当時は城下の東の玄関口として、総門(惣門)があった所である。今は惣門跡の看板を町内会で建てている。
当時は山陽道沿いに米屋、菓子屋、金物屋などの商業通りであった。昭和30年代までは数軒あったが、現在はまったく残っていない。
     9.京 橋
 
            今の京橋西詰交差点
      
 京橋西詰交差点の交番前に「道路元標」がある。当時は岡山の交通の中心は京橋で、江戸に何里というのは、京橋を中心に言っていた。また、交番横には「藤井宿まで貳里壱町五拾八間壱尺」という道標も建てられている。
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