歴     史 幡 多 学 区 電 子 町 内 会

 金蔵山古墳から発掘された円筒形埴輪 『岡山市埋葬文化財センター所蔵』
 幡多地区の南にある操山には、山塊一帯に古墳があり操山古墳群といわれている。
古墳は126基が確認されており、4世紀から7世紀にかけて当地域を統括していた首長および家族や身近な者の代々の墓で、巨石墳から大・中・小様々なサイズの古墳が点在しており当時の権力の偉大さを感じることができる。
古墳内部には、他地域の古墳に見られるような石棺をもつ古墳は無いが、貝類・装身具の装飾品や鉄製の武器・農具・工具などが一緒に埋葬されていた。また、須恵器の陶棺や火葬骨も発掘されているが、長い年月にほとんどの埋葬品は盗掘されており残念です。
 (今回取材にあたり、岡山市教育委員会、倉敷考古館、岡山市埋蔵文化財センターのご指導ご協力を頂きました。)
 発掘された時の円筒形埴輪の状態
◎ 金蔵山古墳から発掘された埴輪 『倉敷考古館所蔵』
蓋(キヌガサ)形埴輪  盾(タテ)形埴輪 A  盾形埴輪 B  高坏形埴輪  家形埴輪
 蓋とは、身分のある人に差し掛ける笠で、埴輪蓋はそれを焼き物にしたものです。
 盾は、戦いで身を守る道具で木・皮・鉄などで作られていますが、埴輪盾は実物を焼き物にしています。
◎ 操山の古墳群
 
    1.萩の塚古墳  







 操山山頂より東150mに築かれている円墳で、築造は6世紀後半の古墳時代後期と推定されており、横穴式石室をもった古墳で全長8.2m・幅1.9m・高さ1.9mの規模をもち、操山北山塊に住んでいた有力者の家族墓と考えられている。
          2.旗振台古墳


 築造は5世紀後半と推定され、当時の吉備国の一部を治めた豪族の有力な構成員が葬られたと考えられている。
古代の瀬戸内海沿岸航路を南に望む尾根の頂部に築かれており、一辺が27m、高さ4mの方墳であり、竪穴式石室とその両脇に粘土槨がある。
  3.沢田後山古墳         

 旗振台古墳から北東約300mの操山と金蔵山を結ぶ尾根に南向きに築かれている。
保存は良好であり、横穴式古墳の特徴として入口が極端に低く0.8mで玄室長5.8m・玄幅1.6m横穴式としては中規模である。
       4.八畳岩古墳       

 操山山塊の主稜線上に築かれている横穴式石室墳である。墳丘の大部分が流出しているが、本来は直径15m・高さ3m程の円墳であったと推定されている。遺骸を葬った石室は左袖形で全長9mあり中型規模といえる。築造は6世紀後半で、山塊の北に住んでいた有力者の家族墓と考えられ、石室の天井石に巨大な石材を使用していることから古墳の呼称となった。
         5.二股(ふたまた)古墳    

 築造時期は、6世紀後葉から7世紀初頭で、当時の有力家族(大家族)のものと推定されている。山塊谷奥の山腹に横穴式石室の古墳で遺骸を安置する玄室が二室に別れていることから二股古墳と呼ばれており、墳丘は山寄せ造りで、直径10m・高さ3mの円墳であったと想定され、石室は左(主)室が長さ5m・幅1.2m、右(脇)室は長さ4.5m・幅1.2mになっている。


       古墳の内部
     6.金蔵山古墳
 金蔵山古墳は、岡山市沢田にある金蔵山の山頂全体が古墳を成しており、県下第4位の規模をもって、操山古墳群では最も大きく全長165mで、最も古く4世紀後半に築造された前方後円墳である。

 墳形実測図       
          7.石鉄山古墳  


 石鉄山(いしぐろやま)古墳は、円山招福稲荷から北に急な山道を約10分登った円山山頂に築かれており、古墳全体が「古墳の森ふれあい広場」になっている。
  8.沢田大塚古墳
               

 金蔵山の東北尾根先端にあり、6世紀後半に築造されたと推定されている。直径が25mの円墳で操山の後期古墳の中では最も大型である。
現在、玄室の正面には札所巡りの石仏が祀られている
歴史メニュー へ
トップページへ戻る