歴     史 幡多学区電子町内会

西大寺軽便鉄道 ( 後楽園駅から財田駅 編 )
池田動物園に展示されている軽便鉄道の客車

明治43年から昭和37年まで、52年間 岡山市の後楽

園と旧西大寺市を結んで、多く の人と荷物を運んだ軽便
鉄道でした。
明治43年7月29日に西大寺市駅―長岡駅(その後財田
駅と改名、今のJR 東岡山駅前)間を開業し、明治45年
1月28日に長岡駅―森下駅間、大正4年9月15日に
森下駅―後楽園駅間が延長となった。
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この間、岡山―西大寺においてバスとの激しい乗客の奪い
合い、戦時中のガソリン不足から木炭ガスへの切替え等々
の苦難を乗越えて明治・大正・昭和と3代を走りぬいたが、
昭和37年9月のJR赤穂線開通によりその任務を終了した。
普段は通勤・通学者の利用がほとんどであったが、原尾
島競馬場開催日、お大師さまの縁日など目的は巾広く住
人の足となって活躍した。そして、最もヒーローになったのは
「西大寺はだか祭り」の当日である。
中でも軽便に自転車を乗せる、自転車キップがあったことも
ユニークである。
(当時の写真の一部は、両備バス本社より提供いただきました。)
1. 後楽園駅跡=当時は岡山市側の玄関口で、後楽園の北に位置し、蓬莱橋の突き当りにあった。駅舎跡は、現在夢二郷土美術館の駐車場になっている。
・・・2.後楽園駅跡の今
    後楽園駅のホーム
3. 後楽園駅を出発した軽便は、ひたすら東に向かって走り、幡多村、財田村を廻って西大寺までを走る。12`の旅がここから始まる。
4.岡山市浜の道路を横切る軽便。朝の通勤時間帯か、通勤・通学者が多くみられる。
踏切に遮断機もないが、事故はなかったのだろうか。
5. 当時の森下駅
6. 森下駅の今
森下駅は、現在両備バスの岡山(国冨)営業所に変わっているが、駅前にある郵便ポストの形は現代風になっているものの、設置位置は変っていない。
7. 鉄橋跡=岡山市原尾島3丁目(通称六枚橋)近くの祇園用水(地蔵川)に架かっていた鉄橋跡で、今でも当時のボルトが残っている。
8. 原尾島駅跡=岡山市原尾島にあった原尾島駅であるが、地元の人は競馬場駅、あるいは競馬場前といっていた、だが駅舎はなかった。当時競馬開催日には、大変に賑ったものの、普段は乗降客も無く寂しい駅であったそうな。現在は駅のホーム跡を利用して家や塀ができている。
9. 藤原駅跡、今は岡山交通タクシーの旭東営業所になつている。
10. 鉄橋跡=岡山市藤原の竜操クリニック玄関正面にある狭い用水路に架っていた鉄橋跡。普段は気付かないが地図上で見ると、ここを通過していたことは明らかであり、その目で見ると鉄橋があったことを想像することができる。
11. 鉄橋跡=岡山市高屋にある鉄橋跡で、ここでもボルトが残っている。当時は1日に何本もの電車が、多くの人や荷物を運んだであろう様子が、チビて錆びているボルトから聞こえてくるようだ。
12. 路盤跡の道=岡山市高屋地内に残っている路盤跡である。周りは田園地区で見通しが良いことから、当時藤原駅を出た電車は、次の大師駅までのこの一直線で、遅れの時間を一気に取り戻したであろう。しかし今は、周囲が住宅街になっている。
13. 大師駅跡=開設当時[関駅]であったが、その後[幡多駅]、そして大正前期の「お大師さま」信仰が盛んなころから、[大師駅]と呼ばれるようになり、大変賑っていたが、はやり信仰の薄れとともに汽車から降りる人が少なくなっていった。現在は駅のあった場所を老人から聞くだけだ。
14. 財田(さいでん)駅は、今のJR東岡山駅の駅前にあつた。当時の駅舎を西大寺バスセンターに移築して、両備バスの事務所として残している。
52年間、人を運び物を運んできた軽便鉄道も、交通機関の改革で、バスに仕事を譲り幕を閉じる日がやってきた。昭和37年9月8日「52年の輝く奉仕」というメッセージを残し、多くの人になつかしがられ、見送られながら最終ランを行った。

“半世紀の永い年月ご苦労さまでした。”
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