原の紹介

原村「現、原」

 城下上出石町から北二十八町にあり、御野郡三野郷(御野郷)に属した。東は大川向こうは中原新田、南は宿村、西は津高郡横井上村、北は河本村に接した。
 旭川の氾濫源に当たり高燥の地であったため、原という地名がついたのであろう。

 平安後期三野新庄として一時東寺領となった。
村の北に船山古城があった。須々木豊前守の居城であった。
 先祖からこの地に住み、初めは郷士のようなものであった。
しだいに家作などを広く大きくしていったので、人々はこれを城と呼んだようである。
 『太平記』に四條綴の戦(1347)で幕府方に須々木備中守高行がでているが、豊前守の先祖ではなかろうか。
豊前守は子四郎兵衛を三野村の妙見山城に置き、金川城主松田氏に従った。
永禄十年(1567)の明善事合戦では、宇喜多氏に内通したが、松田の軍勢に備えるため出兵しなかった。

 合戦後宇喜多直家に信用されず豊前は隠居、船山と妙見山の城は取り潰された。
当郡の金山寺が所蔵している古簡の中に、長亨三年(1489)須々木備中行景・須々木四郎盛行・須々木新四郎信行などの名がある。

 いまも原村には須々木姓が多く、みな須々木備中守の末葉という(温故秘録)。『備陽記』には村高四百四十五石二斗八升、田畑三十町三反九畝、家数六十四軒、男女四百九十ニ人。枝村に船山があると記している。
江戸後期に原村と船山は合併して原村になっている。

 池田光政は寛文八年(1668)に領内に手習所を設けたが、この地区では当村に置かれた。延宝二年(1674)一郡一カ所に設置する方針に変わり廃止された。
元冶元年(1864)当村の須々木英太郎が寺小屋を建てるが、当村は教育に対して関心が高かった。明治に入り玉柏小学校が置かれたのもこのような素地があったからであろう(岡山県教育史)。

 明治三十一年(1898)中国鉄道(現、JR津山線)が開通し、昭和四年(1929)備前原駅が設置された。大正十年(1921)牧石村に編入され、昭和二十七年、岡山市に編入合併された。古くから野菜・果物の産地であったが、市街地に近く住宅地として近年人口が急増している。

                                  岡山市発行・岡山市の地名より



なお前期古墳時代から始まる原の古代史について、岡山市埋蔵文化財センター所長 根木 修氏にとても親切にお教えていただきました。

 地域に伝承されている古図、言い伝えなどと併せ今後順次お知らせしますのでお楽しみに。

 根木所長ありがとうございました。いつの日か地域の仲間と一緒に片山古墳の発掘などができれば・・・・歴史とロマンの町<<原>>は魅力いっぱいの町です。