操南中1年生学区の「お宝」を訪ねる
投稿日:2023年5月14日
5月12日(金)操南中学校1年生が学区のフィールドワークに取り組みました。「操南学区をもっと知ろう」と学校の外に出て学区の「お宝」(操南八景に掲載されている歴史遺産・遺構 操南公民館編纂)を訪ねました。操南小学校区では①白鳥神社②御真筆堂③藤原邸他公民館、沖田神社が訪問先として選定されましたが地域住民がその説明にあたった①②③の存在・存続の意味を振り返りたいと思います。(情報・写真は各説明者、操南中遠藤先生から届けられました。)
白鳥神社 説明者 梶原健吾様
倉田新田中央部に1730年(享保15年)に建立される。倉田新田完成後50年を経過した時点で度々起こる干ばつ、洪水、病害虫被害から村を守り、合わせて村人の無病息災を祈念せんがため香川県白鳥町の白鳥神社から分社した。今も倉田中・東・南町内会で社の管理、祭祀を5月8日、9月8日に執り行っている。
御真筆堂 説明者 佐藤真一様 他に笠松様・西村様・三蟠教会の方がお手伝い
日蓮宗の開祖日蓮の御真筆がここには祀られている。100年ほど前近藤家に御真筆が保管されていたことが判明、地域の方約150名がお堂を立てお祀りをされたのが始まりで平成10年に現在のお堂に建替えられた。今も日蓮宗徒の方々によるお祀りが行われています。お堂の前の像は日蓮宗の熱心な信徒であり熊本城の初代藩主としても知られる戦国武将加藤清正である。又境内の大覚大僧正の碑は備前岡山での日蓮宗伝播・拡大に力を尽くされた功績をたたえたもの。沖新田干拓は大覚大僧正以降350年を経てのことですがその教えが引き継がれてきたことを示している。最近では児童の学習塾の場として活用されたこともある。
御真筆堂に到着 堂内に入る 説明を受ける 佐藤様の説明にも熱がこもる 大覚大僧正の碑にお参り
藤原邸 説明者 山口俊介
沖新田の庄屋として池田藩から使命を受けた藤原家は古地図(文政元年 1818年作)では2軒記されている。現存する藤原家は南側の邸宅であり分家である。本家は分家の4倍の規模で明治に入り取り壊され跡地は田になっている。干拓後90年を経た時点では年貢米(収量の6割)が取り立てられている事が年貢米取立算用帳(天明6年 1786の古文書)からうかがえる。干拓後米は作れず綿花、西瓜、大麦、菜種等が作られてきたが庄屋の指導・百姓のたゆまざる努力で土地が豊かになり塩分が低減され米の作ずけが可能となった。藤原家を支えた藤原操南は1830年から35年間にわたって大庄屋として常に村人の立場に深く思いをいたし行動した人として崇められた。明治維新後庄屋制度が廃止(明治5年 1871年)されると庄屋は地主として依然として沖新田の有力者であり続けたが第2次世界大戦敗戦(昭和20年 1945年)により農地改革(1946~1948)が施行され地主・小作人の格差が取り払われた。政府が地主から土地を買い上げ小作人に売り渡した。これにより藤原家の地主の地位も消滅、以後砂糖の製造、パンの製造・販売等を手掛け、一方では青少年の健全な育成に寄与すべく柔道場の開設等も行った。戦後知道、深蔵と継がれた藤原家を今深蔵の奥様と子供さんが守られている。
古地図 205年前 長屋門の前で説明を受ける 長い年月風雨に耐えた長屋門 西側の小門を巡る
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