沖新田干拓余聞
投稿日:2022年5月16日
5月13日(金)操南公民館講座「岡山をもっと知ろう会」が開催されました。安倉先生から岡山藩の新田開発について史実にもとずく興味深いお話を聴くことが出来ました。その中から興味深かった①沖新田開墾のスピードと巧みさ ②入植者の苦労 ③沖田姫の存在 について安倉先生のお話しからご紹介します。
この難工事の開始は元禄5年(1692年)1月11日、半年後の7月19日には完成している。重機も資材も限られる中、人手と石・土砂・粘土・松・竹の材料を使い工事を完成させている。扶役延べ103万8867人(1日当たり6千人)と記録されている。2年後に1900町歩の土地への入植者募集がはじまる。応募条件は「田畑が少なく生活が苦しいこと」「1反当たり銀30匁」(当時米1石が銀50匁)苦しい中で金がない者には望みはかなわない、そんななか金持ちが買い占め小作として希望者に分け与える構図が想像できる。
藩の留帖に元禄5年の沖新田開墾の記録 潮止堤防を9つの区分に分けている(1番~9番)
入植がかなっても塩分の濃い土地に稲作はできない。雨が降り続けばすぐ水をかぶる土地での作物作りに堀田を作った。堀を掘り下げ出てくる土を盛り、田として利用した。堀田作りの過酷な労働、堀田での農作業の難しさが思われる。
堀田の景観 堀田作り
過酷な農作業を軽減したのが大正8年(1919年)に米国から輸入された発動機の導入であった。
年配の方には記憶にある動力源
最後に人柱伝説「おきた姫」の話の信憑性について。寛政6年(1794年)沖新田干拓後100年を経て刊行された「続近世畸人伝」にきた女として紹介されている。さらには沖田神社本殿床下に石造物(一石五輪塔、蘭塔)が秘密裏に置かれている事からその存在はありえたのではないか?
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