金岡のあゆみ

私たちの住む金岡地区は東を吉井川,西を江戸時代初期に干拓された田園地帯に挟まれた,長さ2.5㎞南北に細長い地域です。江戸末期の歌人であり、また歴史家でもあった平賀元義自筆の「備前国上道郡都郷金岡東荘金岡村考證」(大化の改新の頃以降についての書)にみられる金岡,都紀郷は歴史家の考察によれば,この地域ではないようであるが,これらの地名がこの地になぜ残されているのか,不思議である。現在の海抜,満潮水位を調べてみるに,宝琳寺の南辺りまでは吉井川河口のスカに成っていたのではないだろうか。
言い伝えによれば,約1200年前、菅原道真が九州に流された時,丘に見えた観音堂の明かりにより暴風雨の難を逃れたことも全くの伝説とは思えない。歴史の上ではっきりしていることは,江戸元禄年間金岡村は美作の幕領,私領の年貢米のほか麦,木材,薪炭を,戻りの便では諸国の商品を積んで上った高瀬舟が多い日は一日数十艘出入りした金岡湊でたいそうににぎわっていた。沖では遠海用の大船に積み替えし江戸,大阪方面へはこんでいた。吉井川は古くは雄神川,葦田川と呼ばれ最近までは大川と言われ金岡に住む人々の生活の大きく影響を与えてきた。
明治20年代になり山陽鉄道の開通により美作の荷物は和気で荷揚げされ吉井川の海運は寂れてしまった。しかし戦後まで魚市場,旅館その他あらゆる店屋が軒を連ね村内沖新田の人達始め多くの人でにぎわっていた。戦後エクスラン工場が誘致され,県堂中野九蟠線(産業道路)が整備されてから,中小の工業も進出,また宅地造成も進みベッドタウンの様相も伺え,市街化が進んでいる。
1860年頃              池田藩文書による金岡村 家数310軒 人数1377人
1874年  明治 7年 法幢院学舎を金陵小学校と改称
1889年    22年 町村制施行 金岡村となる
1891年    24年 山陽鉄道開通し,訳以南の吉井川水運は衰退
1914年  大正 3年 金陵小学校校舎を新築し,高等科を併置し,金陵等小学校と改称(約200名在校)
1937年  昭和12年 金岡村,西大寺町へ合併家数332軒 人口1415人 小学校は西大寺国民学校金岡分教場となり4年生まで,5年からは本校へ
1953年    28年 市制施行して,西大寺市となる
1955年    30年 産業道路開通
1958年    33年 日本エクスラン工業 西大寺工場操業開始
1960年    35年 小学校が現在地に移転
1962年    37年 第17回岡山国体 開催 赤穂線開通
1969年    44年 西大寺市 岡山市と合併西大寺小学校金岡分校が西大寺南小学校となり独立
1974年    49年 岡山ブルーライン開通
1986年    61年 コミュニティハウス開通
2008年  平成20年 戸数1689戸 人口4417人

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