西学区の歴史や自然や暮しの様子!(随筆)総集編1-11

—-西学区電子町内会編集委員・中桐 完さん書下ろしの随筆を連載中!—

第 1回 今村宮 第 7回 今村区に残る古民家(2)
第 2回 今村宮の鳥居 第 8回 今村区に棲むイトトンボ
第 3回 今村宮の神馬 第 9回 今村区に棲むトンボ・ヤンマ(1)
第 4回 日本の戦争の歴史と今村との関係 第10回 今村区に棲むトンボ・ヤンマ(2)
第 5回 今村区の上水道施設への苦戦の道 第11回 今村区に棲むトンボ・ヤンマ(3)
第 6回 今村区に残る古民家(1)

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第1回 今村宮

今村宮の石玉垣

 私が、今村宮に初めてお参りしたのは、今から丁度50年前に長男が誕生してお宮参りをした時です。
私の旧住所は岡山市の中心街の下石井にありましたが,今村宮の氏子になっているのを知ったからです。
近くにある八幡宮か神社の氏子が普通なのですが,なぜ遠くに離れた今村宮になっているのか不思議でした。30数年前に中仙道へ引っ越してきて初めてそのわけがわかりました。

 今村は,1332年に前田重徳と宗沢好家が鹿田の南西のヨシ原を開きました。この新しい村を位真野里(新しい村の意)のち今野村。1600年に今村と改めました。
今村宮は1333年に村を開いた人たちは,新しい村を守るお宮(鎮守)をつくり八幡宮と言っていました。ところが,1580年に浮田直家が岡山城を広げる時に,お城の中の榎の馬場にあったお宮を今村の八幡宮に一緒に祭られて,今村宮となったのです。
その時にお城のお宮の氏子であった岡山市の殆どの町が氏子だったので,そのままついてきたのです。 上の写真を見てください。内山下・川崎町のように今村宮を取り巻く石柵に現在の岡山市の中心街の町名が氏子として刻まれているのです。(今はどれだけの人たちが氏子としてお参りをしているかわかりません。)
もし,時間があってお参りされたら見てくださるといいですね。(2013年9月5日 文責―中桐)平成25年9月20日更新

第2回 今村宮の鳥居

なぜ2基あるの?

(写真-1) 現在の今村宮の2基の鳥居で、前にあるのが社前の鳥居(二の鳥居)

(写真-2) 昔の今村宮正面、鳥居は1基。1950年頃

(写真-3) 竹通の交差点。「一の鳥居」と「唐獅子」があった場所。(昔の庭瀬往来・旧旧国道)

(写真-4) 竹通から県道(旧国道2号線)を見る。左右に唐獅子が見える。竹通から移動したもの。

上の今村宮鳥居の写真-1は、現在の今村宮を映したものです。神社には鳥居は1基あるのが普通ですが、ここには2基の鳥居があって不思議な光景です。

前にある鳥居は、元禄6年8月(1693年)に建立したもので、社前の鳥居で、「二の鳥居」です。後ろにある鳥居は「一の鳥居」で、文化14年11月(1817年)に竹通部落に建立されたが、地震(南海地震、昭和21年12月21日(1946年)、M8.0、震度;岡山4、津山3 )で倒壊したので、社前に持って帰ったので2基になったのです。(移設日は ?)
なお、竹通の唐獅子は安政6年11月(1859年1月)奉納され、社前の唐獅子は嘉永7年9月(1854年9月)奉納、社殿の前の唐獅子は、昭和18年(1943年)に奉納されたものです。もし,時間があってお参りされたら見てくださるといいですね。(2013年11月5日 文責―中桐)

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(参考資料) 今村史(昭和30年9月(1955年)発行))より抜粋

竹通鳥居(一の鳥居)の下にあった唐獅子(現在県道側に移設)

竹通部落を南から見た写真(白い鳥居らしきものが有る)

下図の部分拡大図(今村宮~参道~竹通の当時の家並み)

御津郡今村(岡山市北区の古地図)

第3回 今村宮の神馬

 日本の神社には,神馬が祭られているものが多くある。では何のために祭られているかは神社の人に尋ねてもよくわからなかったので広辞苑で調べると,「神の乗御に供する意で,神社に奉納する馬。」とあった。「神馬」の読みは「新こま」・「しんめ」である。

写真-① 昔の台座

写真-② 台座

台座の石に御大典記念と彫られている(天皇即位、大嘗祭の記念に奉納されているようだ)

今村宮の境内にある写真①と写真②は現在は何も立っていない台座だが,いつ造られたかわからないが太平洋戦争の前には銅製の馬が本殿に向かって立っていたということだ。この台座の上には鉄の棒が残っていてこれに足が乗っていたことが考えられる。この規模から考えるとかなり大きなものであったことが想像できる。しかし,戦時中に貴重な銅として供出されたと話された。(今村宮の管理をしている人の話)

写真-③ 神馬

写真-④ 神馬(奉納された時代は不明)

写真③と写真④は、現在本殿の南東にある小さい建物の中に鎮座している木製の神馬である。いつごろから鎮座しているかは、不明である。

岡山市にはたくさんの神社があるが,私の知っている神社の中では今村宮のほかには神馬を見たことがない。(2013年12月25日 文責―中桐)

第4回 日本の戦争の歴史と今村との関係

忠魂碑

 1945年(昭和20年)までの約40年間に4つもの大きな戦争を引き起こしてきた。当然今村(旧御津郡今村(現在の西学区及び周辺地域))も関りが・・・・。1941年12月8日は日本の悲しむべき悲劇の始まった太平洋戦争の開始日だ。日本は1904年(明治37年から)日露・満州・日中・太平洋戦争の終るまで、たくさんの人たちが出征し戦死をした。そのためにその武勇をたたえて忠魂碑を二つ建てた。
1つは日露戦争の時今村宮に,もう1つは昭和13年から始まった日中戦争の戦死者が出た1939年(昭和14年)に今村小学校(現在の西小学校)に建て,戦死の訃報が入るたびに公葬をし,遺骨を抱いた遺族とともに忠魂碑の前で歯を食いしばって泣いた。
1945年(昭和20年)敗戦を迎えて戦争の象徴である忠魂碑は、2つとも小学校の校庭に
年)学校以外の地であれば忠魂碑の建築が許されたので,小学校に埋めた2つの忠魂碑を掘り起こして現在の地へ再建された。

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旧御津郡今村の戦没者 (現在の西学区と周辺地域)
・日露戦争 3名 1904年~1905年
・満州事変・満州国守備勤務 2名 1931年~1936年
・太平洋戦争 92名(日中戦争を含む) 1937年~1941年

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戦没者の石碑

上の写真は、満州国の匪賊戦で戦死した小野田威夫陸軍歩兵伍長の碑です。

同石碑の碑文

(上記の碑文)
昭和八年九月四日満州国新京外
四間房封匪戦ニ於テ戦死す
関東軍参謀部満州国警察総監游
動警察隊在京各團体依 志建之
陸軍歩兵伍長
満州国警長 小野田威夫之碑

第5回 今村地区の上水道施設への苦難の道

—-細井様の井戸、昔の浄化装置、伝染病と死者—

細井様の井戸

左の2枚の写真は、「細井様の井戸」で、戦国時代に作られた井戸の枠が今も残っていたものである。
中仙道中村は、井戸を掘っても飲料水となる良質の水は極めて少なく説明にあるように共同で使用していたのである。 その訳は今村地区はかつては海であったために良質の地下水は出なかったのである。そのため飲料水の多くはほとんど川水に頼っていたのです。
昭和の初期になっても変わらず,岡山市が発展してくるに連れて川水は混濁した悪水となり下記の図のように浄水装置を設けて,水に濁りがあるときはさらし粉を入れてにごりをとり、塩素の発生で殺菌も行ってきたが,殺菌が十分でなかったり,用水の水で洗い物をしたり洗濯をしたりしていたので,伝染病が多発するようになったのです。

下記の状態から危機感を抱いた村長をはじめ住民たちは、上水道施設への決心をした。
しかし、膨大な工事費の負担と国への起債許可稟請の困難との長い戦いがあった。一時は村機能完全停止の状態まで追い詰められたが、周囲からの調停斡旋もあり、村民の重い負担に対する理解もあって反対する村民との間に妥協が成立した。
昭和六年四月十五日工事に着工し、昭和七年十二月二十六日に通水式を挙行した。私たちは先人の努力に感謝しなければならない。(2014年2月1日 文責―中桐 完)

(資料)

旧御津郡今村の井戸調査結果 (現在の西学区と周辺地域)

 (調査1)昭和4年10月31日の井戸の調査
区分 戸数
 飲用に適する井戸を有するもの 4戸
 飲用に適さない井戸 328戸
 河川水をろ過して使用するもの 104戸
 その他(貰い水等) 58戸

 

 (調査2) 大正2年~昭和4年までに発生した伝染病と死者
病名 患者数(名) 死亡者
 腸チフス 19 合計16名
 疫痢
 赤痢 11

第6回 今村地区に残る古民家

—-今回は、地区内に残る古民家や建築様式について述べます。–

1.民家の建築様式

写真①

左の写真①の住宅は、辰巳にある典型的な旧農家です。家は南向きで南と西は瓦を葺いた一部は、白壁の重厚な塀で囲まれています。電柱の東にあるのは白壁で焼き板を張った蔵です。
車の北に門の棟が見え、その東に農機具等を入れる納谷(倉庫)があります。一番高い棟が母屋です。母屋の前には大きな石や植え込みがある庭園になっています。門を入ると玄関があり、その東にひやの棟があって、棟が6つもある立派な住宅です。

写真②

左の写真②は、明治時代から昭和の初期まで、各地でよく見受けられた典型的な住宅です。2階の窓の形となまこ壁が特徴で日本の建築美の一つです。
なまこ壁と言うのは、壁の保全のため表面に平らな瓦を斜め90度に貼り付けて、「めじ」と呼ばれるその継ぎ目を漆喰(しっくい)で固めたもので、その盛り上がりの形が海鼠(なまこ)に似ているところからその名がついたといわれています。また火災の延焼をくい止める効果があったといわれます。

写真③

左の写真③は、上と同じ時代に建築された白壁となまこ壁を持った土蔵です。もう一つは、
下部の壁が焼いて表面が炭化した杉板を使っているのが特徴です。これは風雨による腐食を防ぐのが目的のようです。これは土蔵だけでなく塀や住居の壁にも用いられています。先人の素晴らしい智恵だと思います。
もつ一つの智恵は表面から見えませんが、焼き板の内側は竹を細かく割って、それは細いわら縄で編んだものに、裁断した藁を入れた泥をしっかり塗って暑さ寒さを防ぎ、また防火の役割もしています。
この白壁となまこ壁と焼き板の黒が対照的で美の表現となっているのです。倉敷の美観地区を思い出してください。
しかし写真②の年代の建物は、長い年月のため次第に傷んで崩れかけているものが沢山あります。後継者がいなくなったということも考えられます。

2.少なくなっていく旧建築様式

写真④

写真⑤

現在の民家の建築様式は、上の写真④、⑤のような重厚な瓦葺や土蔵のあるものは少なく、ましてや家紋のあるものは皆無といっていいのではないかと思います。それだけの民家の持つ建築美だけでなく、家紋のある建築も日本文化の特徴と考えていいのではないかと思います。

写真⑤

写真⑥

 

写真⑦

写真⑧

上の写真⑥⑦⑧⑨は、傷んで壊れかけている古民家の母屋や土蔵です。写真⑦~⑨の土蔵の家はだれも住んでいない民家です。写真⑥は、住んでいる人はいるが、後継者がいないのか補修しないで崩れていく民家です。時代の流れとはいえ、このような民家が目につくようになり寂しさを感じています。(2014年6月18日 文責―中桐)

第7回 今村地区に残る古民家(2)

—-前回に続いて、地区内に残る古民家や建築様式について述べます。

現在の民家には塀は殆どがブロックを積んでいるが、旧民家には塀に、石柱を立てているものが残っている。また、藁葺き屋根だったものを、屋根替えをしないで済むようにトタンで覆った旧民家も平田に残っています。2008年には辰巳にも1軒ありましたが今はなくなりました。この地区は田園地帯から住宅地に急速に変わってきたために、(1)~(3)でみてきたように住宅の様式や生活様式が変わってきています。当然、自然の豊かな地域からアスファルトとコンクリートに囲まれた地域へと変化してきたのですから、生態系も大きく変わってきました。次回からは、生活の変化と同時に生態系の変化についても気の付いたものから記述してみたいと思います。

–石柱のある写真–

旧白石小学校の校門付近(現在は御南小学校に移設)

北長瀬の新しい住宅(1)

北長瀬の新しい住宅(2)

平田の旧民家

今1丁目の旧民家

2014年7月5日 文責―中桐

第8回 今村地区に棲む糸トンボ

現在,著者が在住している今地区の中仙道町内及び西小学校地区並びに御南小学校地区において、確認しているイトトンボ(糸蜻蛉)は、4種類だけで、それ以外は確認をしていない。他のイトトンボを発見したら連絡をして頂ければ嬉しいです。
日本の国では昔、蜻蛉洲(あきつしま)と呼んで”トンボの国”と言われたほど、もともとトンボの多い国です。
現在、日本には偶然飛来した種も含めて190余種が知られ、中四国地方では百余種が見つかっています。しかし、水質の悪化や開発などによって身近な場所のトンボが、大変減りました。
この今地区でも田園地帯が住宅地となり、用水路は3面がコンクリートになったりしているので、例外なく減ってきています。
この回では、イトトンボを中心に載せましたが、次回から、トンボやヤンマを中心に載せていきます。

 イトトンボ

—-身近なところで撮影したイトトンボ—

キイトトンボ(黄糸蜻蛉)

ー私宅の畑で活動しているー

アオモンイトトンボ(青紋糸蜻蛉)

ー私宅の畑と用水の藻の上で活動しているー

カワトンボ(河蜻蛉)

ー私宅で発見した。夕方になるとよく見かけたが、

カワトンボ(河蜻蛉)

ー写真を撮った以後は発見していない。

アオハダトンボ (青肌蜻蛉・オス)

アオハダトンボ (青肌蜻蛉・メス)

アオハダトンボ (産卵中)

ーお尻を水の中に入れてるのが見られる。産卵しているところです。-

アオハダトンボ (産卵中)

2014年9月26日 文責―中桐

第9回 今村地区に棲むトンボ・ヤンマ(1)

現在,著者が在住している今地区の中仙道町内及び西小学校地区並びに御南小学校地区において、確認しているトンボ(蜻蛉)は、前回掲載したイトトンボ(糸蜻蛉)は4種類、今回はトンボ・ヤンマ(1)です。ハラヒロトンボ(腹広蜻蛉)は、腹部が異様に幅広いトンボです。北海道の南部から九州・四国まで広く分布しています。平地や丘陵地の植物の繁茂する沼や沢地などに生息しています。4月中旬から9月中旬ころまで見られます。下の写真は私宅の畑で撮ったものです。
「写真-1」は雌です。「写真-2」は、まだ未成熟のオスです。成熟してくると、「写真-3」のように全身が黒くなってきます。「写真-4」は、バケツにたまっている水に尻尾で水面を叩いて産卵をしている場面です。尻尾で水を叩く場面は短い時間ですので撮れませんでした。

—-身近なところで撮影したトンボ—–

ハラヒロトンボ

—トンボ目、トンボ科、ヨツボシトンボ亜科、ハラヒロトンボ属、ハラヒロトンボ

1.ハラヒロトンボ(メス)

2.ハラヒロトンボ(未成熟のオス)

3.ハラヒロトンボ(成熟したオス)

4.ハラヒロトンボ(メス)産卵

尻尾で水面を叩いて、産卵しているところです。

シオカラトンボ

次は、シオカラトンボです。「写真-5」は、成熟したオスです。「写真-6」は、雌でいわゆるムギワラトンボと言われています。黒い部分のふくらみが何となくふっくらとしていることと尾部の白い部分を拡大してみると,「写真-7」のように白い部分が2つに分かれている間に短い白い突起があるのです。もし,ムギワラトンボを捉えることができたら観察をしてみてください。もし,白い突起がなかったら同じ色合いでもオスなのです。
「写真-5」の色合いをしたシオカラトンボもオスだけでなく雌もいるのです。尾部の二つに分かれている部分の間に短い白い突起があるのです。以上のことからシオカラトンボのオスかメスかは尾部の部分を拡大して見ないと色合いだけでは簡単にはわか判らないことがわかりました。
シオカラトンボの分布は、北海道から沖縄まで広範囲です。平地や低山地になどで、4月から10月にかけて最も普通に見られ,沼や池などでも見られます。雌は尻尾で水面を叩いて産卵します。(打水産卵といいます)

–トンボ目、トンボ科、ヨツボシトンボ亜科、シオカラトンボ属、シオカラトンボ

5.シオカラトンボ(成熟したオス)

6.シオカラトンボ(メス)

6.シオカラトンボ(メス)尾の先端

2014年11月5日 文責―中桐

第10回 今村地区に棲むトンボ・ヤンマ(2)

現在,著者が在住している今地区の中仙道町内及び西小学校地区並びに御南小学校地区において、確認しているトンボ(蜻蛉)は、前々回掲載したイトトンボ(糸蜻蛉)は4種類、前回トンボ・ヤンマ(1)のハラヒロトンボ、シオカラトンボ、今回はトンボ・ヤンマ(2)の2回目です。

ナツアカネ

トンボ科アカトンボ亜科 アカネ属(和名) ナツアカネ

いわゆる赤とんぼと言われるトンボの代表は,アキアカネ・ナツアカネ・ノシメトンボの3種類です。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」と歌われている童謡がありますが正式に赤とんぼと名前がついているトンボはおりません。
この夏私が写真に撮れたのは残念ながら左記のナツアカネだけでした。
このトンボは,アキアカネとノシメトンボと同様,平地の池・沼や水田などいたるところで見られますが,他の2種に比べて数が少ないようです。
ナツアカネは6月上旬ごろ羽化し,日の当たらないような木陰で過ごし,秋になると真っ赤に色づいてきて,遅いものは12月ごろまで見られます。

ウスバキトンボ

–トンボ科ウスバキトンボ亜科 ウスバキトンボ属  (和名)ウスバキトンボ  、撮影地 自宅の畑

秋に明けて,田んぼや畑・原っぱの上を,群れになって舞うナツアカネくらいの黄土色にだいだい色がかったとんぼです。
多くの人は,赤とんぼ(アキアカネ)とおもっているようですが,アカネ属ではないウスバキ科のトンボです。お盆の頃,畑や田んぼでたくさん目にすることから,地方によっては「盆とんぼ」や「精霊トンボ」と呼ばれています。
夏の甲子園球場で高校野球が行われているとき,テレビ画面に群れになって舞うトンボが写ることがありますが,あれがウスバキトンボです。
南方から世代交代をしながら海を渡ってくる南方系のトンボです。翅が薄くて大きくて,体のつくりが華奢で軽いことが長い飛翔が続けられる鍵になっているようです。

コシアキトンボ

–トンボ科ベニトンボ亜科  コシアキトンボ属  ,(和名) コシアキトンボ *撮影地―自宅近くの用水

 全身が黒色で,腹部の白い部分が空いているように見えるために名づけられた。成熟したオスは腹部の付け根が白色,メスと未成熟の雄は黄色。したがって写真のトンボはオス。 腹部の白い部分を,暗闇に輝く電灯に見立てて「電気トンボ」と呼ぶ地方がある。
分布は,本州・四国・九州・沖縄の平地から低地にかけて,沼や池や用水路に6月~10月頃まで普通に見られる。この写真は近くの用水上を飛んでいたのを捕獲して虫かごに入れて撮影をしたものです。(2014年11月5日 文責―中桐)

西学区電子町内会

第11回 今村地区に棲むトンボ・ヤンマ(3)

現在,著者が在住している今地区の中仙道町内及び西小学校地区並びに御南小学校地区において、確認しているトンボ(蜻蛉)は、前々回掲載したイトトンボ(糸蜻蛉)は4種類、前々回トンボ・ヤンマ(1)のハラヒロトンボ、シオカラトンボ、前回のトンボ・ヤンマ(2)は、ナツアカネ、ウスバキトンボ、コシアキトンボ、今回はトンボ・ヤンマ(3)の3回目です。

ウチワヤンマ

ーウチワヤンマ: サナエトンボ科・ウチワヤンマ亜科・ウチワヤンマ属、(和名)ウチワヤンマ

①ウチワヤンマ

②ウチワヤンマ

③ウチワヤンマ

上記のウチワヤンマの写真は,①は2011年7月29日,②と③は2011年8月17日に裏庭にある農機具の倉庫の柱に止まっていたトンボを網で捕獲して飼育箱に入れて撮影したものです。この年に畑で初めて出会ってそれ以来飛来したのを見ていません。非常に貴重な写真だと思っています。名前の由来は,お尻のうちわに似たでっぱりです。
サナエトンボのトンボは、飛来していてもすぐに止まることが多いのですが,ヤンマは長時間飛翔するのが特徴です。ウチワヤンマもすぐに止まることが多いのですが,単に体が大柄なトンボ=ヤンマという思い込みから,ヤンマとつけられたようです。雌雄の違いは詳しく見ないとわかりませんが,生態から判断すると成熟したオスは,縄張りをもち,水面から出た杭や水辺近くの木の枝さきなどの突起物の先端に静止して占有して縄張りをはります。雌は単独で打水産卵をする。
本州・四国・中国・九州に生息し,成虫は5月下旬頃から出現し9月中旬頃まで見られます。上記の写真ではポールの先に静止しているのが雄のようです。

ギンヤンマ 

ーギンヤンマ: ヤンマ科・ヤンマ亜科・ギンヤンマ属(和名)ギンヤンマ 、撮影地:自宅周辺の用水路

ギンヤンマの産卵シーン

写真④

写真⑤

平成26年8月29日、近くの用水路をカメラを持って散歩していた時、偶然にも連結したギンヤンマの産卵している場面に遭遇した。右が雄(オス)、左が雌(メス)である。私が子供のころは当たり前で珍しくもなかった光景である。しかし現在はとても貴重な場面である。
しかも⑤の写真は、雌の尻が水の中へ深く入って浮き草に産卵をしているのである。時には雌の体が水没してしまうこともまれではない。
また、この写真から雌雄の区別も良くわかり、市街化されている西学区の地域では、めったに撮れないシーンでもある。
ギンヤンマは、平地や低山地の池や沼、水田、用水路などに良く見られる。4月中旬から11月中旬まで見られる。腹部のくびれた部分が銀色をしていることからついた名前である。(2014年11月5日 文責―中桐)

 

**昆虫図鑑などを参考に、トンボやイトトンボの仲間の分類は、概略次のようになっています。**

 赤字は、今地区で確認し写真があるもの。)

・トンボ亜目 
 ・トンボ科/
・ヨツボシトンボ亜科 ・(ハラヒロトンボ属)  ハラヒロトンボ
・(シオカラトンボ属)  シオカラトンボ
・他に(ホソアカトンボ属、 アジアアカトンボ属、
  シマアカネ属、 ヨツボシトンボ属)
・トンボ亜科
・アオビタイトンボ亜科 ハッチョウトンボ
・アカトンボ亜科 アキアカネ、ナツアカネ、マユタテアカネ、アイコアカネ、コノシメトンボ
、ノシメトンボ、リスアカネ、ミヤマアカネ、ネキトンボ
ショウジョウトンボ
・ベニトンボ亜科 コシアキトンボ
・ウスバキトンボ亜科 チョウトンボ、ウスバキトンボ、ハネビロトンボ
 ・ヤンマ科/
・アオヤンマ亜科; アオヤンマ、ミルンヤンマ
・ヤンマ亜科; カトリヤンマ、ギンヤンマ、クロスジギンヤンマ
・アオイトトンボ亜科; アオイトトンボ、オオアオイトトンボ
 ・サナエトンボ科/
・サナエトンボ亜科; ヤマサナエ、ホンサエ
・コガタサナエ亜科; ダビドサナエ、フタスジサナエ、オグマサナエ
・ウチワヤンマ亜科; ウチワヤンマ
・ムカシヤンマボ亜科; ムカシヤンマ
 ・オニヤンマ科
・オニヤンマ亜科; オニヤンマ
・ヤマトンボ亜科; コヤマトンボ

 

・イトトンボ亜目 
 ・カワトンボ科
・カワトンボ亜科; ヒナカワトンボ、ニホンカワトンボ、ミヤマカワトンボ、
ハグロトンボ、アオハダトンボ
 ・アオイトトンボ科
・オツネントンボ亜科; オツネントンボ、ハグロトンボ
・アオイトトンボ亜科; アオイトトンボ、オオアオイトトンボ
 ・モノサシトンボ科
・モノサシトンボ亜科; モノサシトンボ
 ・イトトンボ科
・ナガイトトンボ亜科; キイトンボ、ベニイトトンボ
・アオモンイトトンボ亜科; ホソミイトトンボ、アオモンイトトンボ
・イトトンボ亜科; クロイトトンボ
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