牟佐大塚古墳と歴史の道ウォーク・おもてなし<12月8日>

投稿日:2019年12月11日

2018年、日本遺産に認定された「『桃太郎伝説』の生まれたまち おかやま」 ~古代吉備の遺産が誘(いざな)う鬼退治の物語~ の構成文化財の中に、わが町内の「牟佐大塚古墳」が入りました。

2019年12月8日、地元町内会として「牟佐大塚古墳」や近世まで賑わったであろう「渡場」(当時は「倉敷往来(備前往来)」)の当時を推察できる街並みなどを中心に「牟佐大塚古墳と歴史の道ウォーク」を開催しました。約50人の参加で、とても盛り上がりました。鬼退治伝説は古代吉備の繁栄と屈服の歴史を背景として生み出されたものと聞きますが、何といっても、岡山市教育委員会文化財課から草原課長にお越しいただいて、「牟佐大塚古墳」をバックに、大和の国と吉備の国の戦いの壮大なストーリーを語っていただいたことがよかった。わが地域も、まさに伝説の舞台となったことが、とても興味深く、多くの参加者からも好評をいただきました。一番皆さんが驚いた点は、なぜ牟佐の大塚古墳に井原の石でできた石棺があるのかというところ。しかもこの石棺は、この辺りでは一番大きなもの。牟佐よりも大きな真備町箭田の大塚古墳には石棺がないのに、なぜなのか?その答えとなるストーリーが実に面白かったです。詳しくは別便としましょう。

さらに、鏡原さんから興味深い質問がありました。「6世紀末ごろに造られた牟佐大塚古墳には、吉備津彦命の子孫とされる上道氏が葬られたとされていますが、地元高蔵神社に伝わる鳥居扁額(1332年)には、国造神主上道康成が記されています。ということは、上道氏は700年以上、この地で繁栄していたということですか?」の問いがありました。
その答えは、「神主だった上道氏は大和から認められた大豪族の地方官だということ。古事記や日本書紀にもある。吉備には10人の国造がいたと書いてある。それが10世紀には全部消えていく。将来的には武士となる新しい階層が出てきた。このあたりで唯一残ったのが上道氏だ。賞田廃寺を調べてみたら瓦とかお茶碗がそれを示している。上道氏が生きていたことを示している。そういう意味では、上道氏は自分たちの生き残りをいち早く探っていって、扁額がある時代まで生き残った大豪族であるといえます。」とのお答えをいただき、一同納得。

その後、渡場地区に歩みを進め、街並みを形成する家々の屋号復元を担当していただいた平井さんから説明をいただきました。

併せて、会場では、地元特産の黄ニラ、岡山パクチー、新鮮野菜、川ガニ、「産地牟佐」イノシシ革製品などを販売させていただきましたが、盛況でした。

お陰様で事故なく終えることができましたが、準備や運営にかかわっていただいた皆様に心から感謝申し上げます。

 (参考資料)
  ① 岡山市教育委員会文化財課から提供いただきました資料「倉敷往来
   (備前往来)街道図」及び「牟佐大塚古墳石室実測図」は「こちら
   をご覧ください。
  ② 日本遺産 桃太郎伝説のWEBサイトに、牟佐大塚古墳と歴史の道
   ウォークが開催されたNews最新情報がリンクUPされています
   「こちら」をご覧ください

<牟佐町内会 会長 田尻祐二>

 

「牟佐大塚古墳と歴史の道ウォーク」の詳細資料は「こちら」をご覧ください

 
 
 
 

 

カテゴリー:町内のみなさまへ

SNS
検索
ページトップ