ギャラリー

牧山地区町内会会員の趣味や特技を生かした投稿、記録写真等のコーナーです。ご覧ください。

  1. JR津山線・てらちゃんの至福の気動車空間(2018.3公開。2020.12更新)
  2. 2018.7月豪雨 被災状況(写真)
  3. ふるさとへの思いを繋ぐ 牧山コミュニティだより(2021.12 三戸岡慿之氏投稿)



1 JR津山線・てらちゃんの至福の気動車空間
           (写真・文責 岡山市北区下牧 寺﨑貴博)

こんにちは。ボクは気動車(ディーゼルカー)が好きな”てらちゃん”こと寺﨑貴博です。分かりやすく津山線の車両や祖父が残してくれた懐かしい牧山駅の写真を紹介します。
ボクは、祖父が津山線や吉備線等の駅員だったこと、津山線が家のすぐそばを走っていたこともあり、ちびっ子の頃から気動車がとても身近な存在で自然と好きになっていたのです。小学生の頃は走行する列車を時計代わりにできました。そんなある日、引退した祖父から「近々、最新のすごい気動車が津山線を走るぞ」と聞かされ、当時のボクは今か今かと目を輝かせながら待っていたものです。そしてついに初めて目にしたのが朱色5号の単色(首都圏色)を身にまとったキハ47でした。あの時の感動は今でも忘れられません。
さあ、それでは、てらちゃんの至福の気動車空間、出発しんこぉーぅ!


=津山線・現在運用中の車両=

キハ47形

現 在

1977(昭和52)年から全国に配置され始めた期待の新型ディーゼルカー。津山線にも1978年から順次投入され、朱色5色の単色で塗装されたボディはそれまでの赤/クリーム塗装の一般的なディーゼルカーとは違い、急行型と同じく車体下部の裾を絞ったスマートなイメージで登場した。
片運転台式でトイレ付とトイレ無しの2タイプあり、当初は220馬力だったが330馬力へ。ホワイトの岡山色から登場時の朱色5号単色への塗装変更がなされたが、これは塗装工程の簡略化によるコスト削減を狙ったもの。 

少し前:岡山色だった頃(1997~2017)

津山線高速化事業で機関変更と共に地域別色の導入で、岡山色に塗り替えられた車両が1997(平成9)年に走り始めた。
初期は写真右の淡い紺色の窓枠塗装が快速ことぶき用、左が普通列車用と区別されていたが、後期はあまりこだわらず運用されていた。しかし、塗装工程簡略化により検査入庫のタイミングで登場時の色に戻され、最後まで残っていた142番(写真左のタイプ)もついに朱色5号単色に戻された。

キハ40形

現 在

1979(昭和54)年、キハ47に続き朱色5号単色の新車で投入された。全車トイレ付きで、両運転台式、単行運転(一両編成での走行)も可能。キハ47同様、高運転台化で床下前面にスカートを装着し、当時としては車体下部の裾を絞ったスマートで洗練されたイメージであった。登場から40年近く経っているが、キハ47同様、現在も主力で活躍中。当初は220馬力だったが現在は330馬力へ変更。キハ40も白色の岡山色から登場時の朱色5号への変更は完了。ところで、この朱色5号の車両は春から夏にかけての萌える緑の里山の風景に燃えるような朱色のボディが実によくマッチし、見事に写真映えするので感動してしまう。

少し前:岡山色だった頃(1997~2017)

キハ47と同じく地域別色が施されたが、キハ47のような淡い紺色の窓枠塗装の車両は存在しない。キハ40も、登場時の朱色5号単色への塗装変更中だったが、最後まで残っていた2036番も検査のため入庫後、朱色5号に塗装完了。これにより岡山色は全滅。それにしても岡山色はオフホワイトの車体に裾は渋いブラウン、そしてそのすぐ上部には鮮やかなブルーのラインと、なかなかセンスがいいと思う。しかし、視認性からは今ひとつの面もあった。

キハ120形

キハ120形は塗装変更対象外。なお、JR 吉備線では キハ120形は運用されていない。

1992(平成4)年から全国に投入され始め、津山線にも1996(平成8)年に300番台が新車で登場した。
ステンレスの車体で、オレンジと赤のラインがアクセントの明るい岡山色である。(地域によりラインの色は異なる)
軽快な全長16㍍の小型気動車であるが、意外にも330馬力ある。登場時は軽量化のためかトイレがなく客から苦情があり、一部座席を取り払い設置された。外から見ると、座席の窓がはめ殺しになっているのでよくわかる。
登場時は朝から夜まで運用本数も多く大活躍していたが、現在は一日2往復まで激減した。編成も3両や2両、1両とバリエーションに富んでいたが、現在は2両編成に落ち着いている。因みに、余剰になった3両は数年前、大糸線(長野~新潟)に転属、現在も岡山色のまま活躍中。

=ノスタルジー車両(国鉄一般色)=

2016(平成8)年、岡山ディスティネーションキャンペーンで、旧国鉄時代の一般車両の塗色である朱色4号とクリーム4号(昭和30~40年代)で再現した観光列車である。内部も座席を当時の青色のモケット(シート生地)に変更、テーブルに栓抜きも設置、天井の扇風機にはJNRマークまで再現してあった。車両は既存のキハ47(47番と1036番)の2両を改造し、2016年春デビュー、同年秋にはキハ40(2134番)もデビュー。現在も定期運用の他、イベント列車として津山線以外でも活躍。

  キハ47形(47番、1036番)

(2016.4.9~2019.12)

日々の定期運用時は普通・快速問わず運用されたが、ヘッドマークからステッカーに変更されている。
なお、イベント列車で使用の際は、登場時のように各種ヘッドマークを付け運用された。

デビュー時 ヘッドマーク付(2016.4.9~6.26)

2016(平成28)年4月デビュー。4~6月の土日にイベント列車「みまさかノスタルジー号」(快速)としてヘッドマーク付きで1日2往復していた。専属の車掌(OB)も2名乗車し、サービス満点だった。

キハ40形(2134番) 運用中

待望のノスタルジー色が2016(平成28)年11月デビュー。キハ40形にはステッカーがないが、イベント列車で使用時は各種ヘッドマークが付けられる。

キハ47形+キハ40形

キハ47+キハ47+キハ40のノスタルジー堂々完成。この編成は運が良ければ、岡山行き普通列車(牧山駅8:11発)で見ることができた。

ノスタルジー車両(国鉄急行色)=

先にも記述した国鉄普通列車一般色ノスタルジーを今度は急行色に塗装変更し、2020(令和2)年2月29日(土)に再デビュー。早春の早朝、6時35分に岡山駅津山線9番乗り場を快速ことぶきとして津山へ向け出発。ボディの塗装変更だけでなく、車内の内装や床も一新。さらに足回りも新品同様にピカピカに一新。しかし、新型コロナウイルスの猛威の始まりの頃の再デビューだけあって、季節ごとの各種イベント列車として大活躍だったはずなのに、それも全て中止。現在は、日々の定期運用(普通列車や快速ことぶき)にとどまる。なお、キハ40(2134番)ノスタルジーはそのままの塗色であるが、2019年11月にボディも車内も下回りも新品同様、化粧直しされている。

 キハ47形(47番、1036番)

早朝の9番ホームから津山へ向けいよいよ急行ノスタルジーが出発。この日、報道陣や熱心なファンが詰めかけていた。彼らがフレームから姿を消した一瞬を狙って激写。

本来ならこの写真のようなキハ40一般色ノスタルジーとの堂々たる編成で各種イベント列車として他の路線でも大活躍のはずだった。写真は岡山行き普通列車(牧山駅8:13発)を運よく撮影できた。

懐かしの急行「砂丘」=   1962(昭和37)年~1997(平成9)年

1962(昭和37)年9月、宇野~岡山~鳥取間の準急として運転開始。後の1966(昭和41)年に急行に格上げされ、区間も岡山~鳥取間に変更、陰陽を結ぶ急行として多くのサラリーマンの出張や旅行客の足として活躍した。本数もJR化後の最盛期には一日5往復まで増発されるなど需要があったが、1994(平成6)年、智頭急行の開業で特急「いなば」(現在のスーパーいなば)がデビューし、砂丘号は廃止に追い込まれ、1997(平成9)年11月28日に35年の歴史に幕を下ろした。

国鉄色

急行「砂丘号」は、1997(平成9)年に廃止されるまで、グリーン車を組み込んだキハ58系の編成が一貫して使用された。代表的な編成例として、キハ58+キロ28+キハ58+キハ65がある。JR化後の1988(昭和63)年にグリーン車のキロ28を改造したキロハ28なる合造車も登場した。本数は1972(昭和47)年から一日3往復、1985(昭和60)年には4往復であった。ところで、グリーン車洗面室の通路側に冷水機があり、夏場に備え付けの紙コップを広げてキンキンに冷えた水を注ぎ込み飲むことができた。

砂丘専用色

1992(平成4)年に今までの国鉄急行色から砂丘専用色へと塗装変更が行われた。上半分は薄いグリーン、下部はエメラルドグリーンで中央部にはパープルのラインが入り、車体裾部分はライトパープルという明るく美しいカラーリングである。室内も壁や内装が変更され、0系新幹線のリクライニングシートが転用されグレードアップ。例のキロハ28も連結し一日5往復、まさにこの頃が砂丘の最盛期であった。結果的に智頭急行開業に伴い35年の歴史に幕を下ろしたが、全国の大勢のファンが詰めかけ名残を惜しむ涙、涙のラスト・ランだった。そしてラクダを模した三代目ヘッドマークには「さよなら」の文字が・・。

砂丘専用色キロハ28

砂丘号ではキロ28として一両丸ごとグリーン車として連結されていたが、「キロ28」を改造して車両の半分がグリーン車、残り半分が普通席(自由席)というグリーン車+普通車のいわゆる合造車が「キロハ28」として1988(昭和63)年に登場した。グリーン席と自由席は壁で仕切られており(通り抜け可能)、それぞれが独立した客室になっていた。国鉄色の時にキロハ28に改造されたが、1992(平成4)年に砂丘専用色になると、なんとも美しくかつ大胆なカラーリングとデザインでより一層キロハ28の半グリーン室+半自由席が際立ったように思う。

⋘⋘急行「砂丘号」ヘッドマークの移り変わり⋙⋙

1985~1992年

1992~1994年

1994~1997年

1997年11月

砂丘号のヘッドマークが付けられて運用されたのは意外にもデビューから結構後のことであった。懐かしの木造牧山駅舎にまだヘッドマーク無しの砂丘号が通過している写真が写っており、それを物語っている。

=短命だった急行「つやま」= 1997(平成9)年~2009(平成21)年

砂丘号廃止の後を受け継いで1997(平成9)年11月29日デビュー。JR側は乗り気ではなかったが、津山市からの何とか急行を残してほしいという熱い要望で、元砂丘号の車両(ヘッドマークなし)を使用し、一日1往復で運行。しかしその後、元砂丘号の車両は老朽化が著しく、代わりに普通列車用のキハ48を投入するのだった・・。

前期 1997~2003

とりあえず砂丘号の車両を流用し運用開始。運行本数は砂丘時代に比べ大幅に減便された結果、僕の大好きなキハ65は全車廃車に。残るキハ58+キロハ28+キハ58という編成になったが、2003(平成15)年ついに車両老朽化のためキハ48にその席を譲る。キロハ28は全車廃車・解体され、キハ58も廃車・解体されたが2両だけ残りミャンマーに譲渡された。

中期 2003~2006

2003(平成15)年10月のダイヤ改正でキハ48広島色の車両を急行「つやま」として使用。因みにキハ48が津山線を走るのは今回が初めてだが、今までは急行型車両が使用されていたのに対し、このキハ48は一般型の普通列車である。あえて津山線にないキハ48を広島色のまま走らせ、他のキハ47や40との区別をつけたのだろうか?しかし、キハ48は急行型ではない。なんというか・・。

後期 2006~2009

キハ48も2両とも岡山色へと塗装完了。ただ、専用色にしなかったことで、せっかくデッキが付いているのに急行という特別感がない。キハ47やキハ40と同じ普通列車と変わりないのが残念だ。しかし、2009(平成21)年3月13日のラストランにはJR最後の昼急行ということもあり、全国から鉄道ファンが詰めかけた。

=津山線を走行したヘッドマーク付きの車両たち=

キハ28・58ラストラン

2010年11月20・21日、国鉄時代の人気の高い急行型気動車で全国を駆け抜けたキハ28とキハ58のラストラン。津山線では急行「砂丘号」で活躍。

津山B-1グランプリ

2013年5月25・26日に津山でのB級グルメの祭典PR用ヘッドマーク。撮影は4月27日、岡山駅にて。

みまさかノスタルジー

2016年4月9日~6月26日まで、土曜と日曜のみこのヘッドマークを付けて快速で岡山~津山間を走行。現在は定期運用についており、ステッカーに変更されている。

吉備之国漫遊ノスタルジー

22016年5月27・28日に県内一周ツアー「吉備之国漫遊ノスタルジー」の一泊2日コースの2日目復路のみ津山線を走行。

キリンビール列車

2016年6月5日、おつまみ付きで飲み放題!ビールサーバーやちょうちんの他、ハッピを着たキリン関係者らも乗車。

津山さくらまつり

毎年恒例、津山さくらまつりのPR用のヘッマーク。3月下旬からの祭り期間中、1編成の前後に付けて走行。2017年4月7日、牧山駅にて。

津山夜桜列車

2017年4月8日、津山さくらまつりの夜桜見物に便利な「夜桜列車」用の美しいヘッドマーク。岡山駅にて発車前に激写。

地酒列車

2017年6月10日、ノスタルジー列車の車内で沿線ゆかりの地酒をいただきながら県北を巡る「美作国地酒列車」

ごんちゃん号

「津山納涼ごんごまつり」をPRする「ごんちゃん号」のヘッドマーク。毎年8月上旬の土・日曜日に祭りがあるので、6月下旬からPR用に付けて運行。

津山線開業120周年

津山線開業120周年を記念して2018年12月22,23日に岡山~津山間を各日一往復運転された。写真は津山駅にて発車前に撮影。

開館5周年記念

津山まなびの鉄道館では2016年のオープンから2021年4月に5周年を迎えたのを記念して、ヘッドマーク付きノスタルジーが4月28日~5月5日、他で定期運用についた。

ここで取り上げたヘッ ドマーク付き気動車は津山線を走行したものに限定しています。全部を撮影するのは無理ですが、皆さんも気にして津山線を見ていると、面白いヘッドマークに出会えるかも。

=最近のラッピング列車=

美咲町が募集したエッグデザインコンテストの応募作品や観光名所がラッピングされた2両編成、キハ47‐85番+キハ40‐2043番。2012年10月に登場。

2013年4月から登場した「NARUTO列車」。約1年運用された。キハ47の2両編成、車内も登場キャラクターのイラストだらけだった。

キハ120‐353番の「NARUTO列車」。こちらは一両のみラッピングされた。

=津山線作業車両=

軌道検測車

写真手前がキクヤ141-2、2両目がキヤ141-2。津山線では軌道・信号通信関係の検測車として活躍中。キクヤ141とキヤ141の2両で一編成、それがJR西日本には2編成あるという。走行システムはキハ187系(スーパーいなば等)を基本としているので、加速力等の動力性能は良いのではないかと思われる。ドクターWESTという愛称。
この車両は津山線に限らず他の鉄道路線でも偶然出会えるかもしれないので、皆さんもぜひ実物をご覧になって感動を味わっていただきたい。

マルチプルタイタンパー

略称マルタイと呼ばれ、列車の走行によるレールの歪み矯正用に使用される。歪みは乗り心地を悪くするだけでなく、高速走行にも影響がある。そのため、定期的な保線用(バラストをまくら木の下に入れていく)に活躍する。最終列車が通った後の真夜中の作業となる。車の「パァン パァン」というクラクションが付いている模様。

牧山駅下の車道から撮影。くまなくとたびにゃん
のイラストが描かれている。
深夜の保線作業のため牧山駅の側線と呼ばれる
留置用の線路に数日間待機している

DE10

定期運用は既にないが、現在はバラストやレールの運搬用に年に4~5回運用している。2001(平成13)年11月、自室より偶然撮影。

=牧山駅舎今昔物語=

かつての牧山駅は、1962(昭和37)年に国鉄職員がいなくなり委託職員が管理していた。当時は、切符を売り、いろんな指定券も求めることができ、手荷物も送れ、旅行の案内、忘れ物の手配もしてもらえた。その後、1971(昭和46)年に無人駅となり、残っていた木造駅舎も1973(昭和48)年10月に取り壊され、同年末に現在のような待合所が完成した。
当時の古い写真は国鉄に勤務していた祖父が撮影していたもので、こうして皆様に見ていただける機会ができ、ありがたいものだと思う。(:牧山駅舎今昔物語に掲載の写真17枚は転載禁止

在りし日の牧山駅舎

1973(昭和48)年10月撮影。この後、取り壊された。

急行砂丘号通過。この頃はまだヘッドマークがない。

現 在

味もそっけもない現在の待合所(2番のりば)。昭和50年代の中ごろまでは左手に木造の自転車小屋があった。(2017年10月撮影)

写真は2番のりばの現在の待合所。
1973(昭和48)年10月に完成、その後手直しが行われている。

写真は 1番のりばの待合所。
1982(昭和57)年7月、駅複線化工事完了と同時に完成した。

単線だった頃の牧山駅

複線工事前の貴重な写真。1981(昭和56)年頃。
新車導入された当時のキハ47も写っている。

岡山へ向け出発。工事前は桜がきれいな駅で有名だった。

かつてディーゼル機関車DE10が昭和50年代は朝夕1往復で6両の客車を牽引していた。先頭のDE10を含めて7両が停車できるよう岡山側と津山側の両方のプラットホームを延長工事し、全車両停車できるようになった。

ボクは学生の頃、この列車で通学していたので、特に思い出深い。6両も車両が連結されているのに特に朝はいつも満員で、通路も人が立っていて、たいていボクたちはデッキに立っていた。駅に停車するたびに乗客が次々に乗り込んでくるので、中に押し込まれ、ギュウギュウ詰めになるという、現在では考えられない状態だった。

岡山行きの列車を待つ乗客の数はこの頃は今と違いかなりいたことが分かり、活気があった。人口減で乗客が減り、車両の両数も減った今となっては、延長されたプラットホームを見ているとなんだか寂しい。

かつては郵便・荷物車(キユ二28)や車両の半分が客室で半分が郵便・荷物室というユニークな車両(キハユ二26)なども連結されていた。気動車の両数は3両、4両、5両は当たり前で時には6両の時もあった。現在は2両が普通で、朝夕の3両や4両が最長である。

複線化工事着工(時期は不明)

津山方面に向けて撮影

岡山方面に向けて撮影

そして、1982(昭和57)年7月完成!

完成直後の牧山駅。左手が1番のりば、右が2番のりば。左はキハ30、右は6両の客車を牽引していたDE10。岡山行き朝7時40分頃と思われる。CTCが完成するまでの間、タブレット交換のための臨時の駅員も写っている。

1982(昭和57)年7月の工事完成で列車の行き違いができるようになったが、まだ肝心のCTC(列車集中制御)が完成しておらず、同年8月の完成までの数日間は臨時で駅員が派遣され、タブレット交換(列車衝突防止のための通行手形のようなもの)をしていたのが写真から見て取れる。なお、CTC導入により、複線で行き違いができる他の駅もタブレット交換は廃止となった。写真の列車は急行型気動車キハ65-81番。

陸橋ができたのは、行き違いのための複線化工事終(1982年7月)から5か月後の同年12月。それまでは、左右を確認して線路を歩いて横断していた。
左手に写っているコンクリートの建物は、俗称「ヘッド」と呼ばれるCTC等の信号制御システムの管理場所である。基本的にこの風景は1982年の完成当時からあまり変わっていない。因みに、陸橋の補修は数年ごとに行われている。2017年10月撮影。

写真奥が岡山方面で、右が1番のりば、左が2番のりば。陸橋完成までの間、乗客が歩いて渡っていた場所。列車が来ると警報機が鳴っていた記憶があり、特に急行砂丘号通過の時はドキドキ物だった。ボクが中学2年生の頃だった。2017年10月撮影。

ーおわりにー

<てらちゃんプロフィール>
1968(昭和43)年7月10日(ウルトラマンの日)に登場。趣味は気動車の他に、車(三菱限定)、ガーデニング、カブトムシやクワガタのブリード、それにウルトラマンシリーズ・必殺シリーズ・マジンガーシリーズ・太陽にほえろ!の研究とそのコレクションで、貧乏の割には多趣味でマニアックな日々を送っている少々厄介な妄想中年であるが、料理を毎日作るというしおらしい一面も見せる。

さて、いかがでしたか?難しいところもあったかもしれませんが、少しでも津山線に興味を持っていただけたらなと思います。そういえば、ボクの娘がかつて高校生の頃、津山線の気動車で通学していたので、よく娘に「いいか、キハ120ってえのはな・・・」と講釈を垂れてたもんです。だから、同年代の女の子たちよりは少しわかっているようです。

ところで、いつも思うのは、せめてボクが生きている間は津山線は電化などせず、新型のハイブリッド気動車など環境対応のものが導入されるのを見てみたいものです。電車は雪に弱いし、味気ないし、コストがかかり過ぎるし、やはり津山線は気動車でいて下さい。最近は津山線のヘッドライトがLED に変更され明るい車両が増えてきましたが、ライト同様、津山線にも明るい話題が増えるといいですね。

最後に、このコーナーはボクが写真・レイアウト・文字原稿を持ち込み、牧山地区町内会広報部会の方に入力からアップまでしていただき、このように皆様に見ていただける運びとなりました。お礼申し上げます。

それでは、てらちゃんの至福の気動車空間&牧山駅舎今昔物語にご乗車いただき誠に有難うございました。



2 2018年7月西日本豪雨 被災状況

2018(平成30)年7月6日夕方から翌7日にかけて西日本は豪雨に見舞われ、牧山地区を流れる旭川の水位もこれまでにないほど高くなり、地区内は堤防を越えた濁流の中に水没した。

下の写真は7日朝5時半ごろ撮影したもので、ピークの水位より1mほど下がった状況である。

中牧地区

郷地区

クラインガルテン
ブドウハウス
JR津山線



3 ふるさとへの思いを繋ぐ 牧山コミュニティだより
             横浜市 三戸岡憑之(1936年生まれ)

          牧山・中牧出身で、現在、横浜市在住の三戸岡さんの寄稿です

   ふるさとへの思いを繋ぐ 牧山コミュニティだより

 小中学時代の学友が送ってくれた牧山コミュニティ協議会発行の「牧山の歩み」を初め WEBサイト「牧山地区町内会」搭載の「牧山コミュニティだより」などは 終戦の年からわずか14年という短期間ながら 青少年時代を牧山・中牧地区で過ごした今の私にとりまして ふるさとへの思いを繋いでくれるものとして いまや貴重な存在になっております。

 その当時から 郷地区には小学校 役場 農協などの主要施設が存在し 牧山地区の中心的な役目を果たしてくれておりましたが 今ではKlein Gartenと言った 瀟洒な名の施設も完備され 近隣地域への貢献の環を広げようとしている 地元各位の意気込みに感服。
 春には そのあたりから旭川を遡った 県道沿いの桜並木が満開の花をつけてくれているようですが その端緒は 1956年頃 私共が青年団活動の一環として桜の苗木を植樹したことにあったのではないでしょうか。
 桜の話題をもう一つ。小学校グラウンド沿いの南側に桜の大木があったはずですが 小学校閉校3年後の2007年 桑原昭男くんのお世話で 小学卒後48年にして初めての同窓会がラポート牧山において開催されたその際 そうした桜は一本も見当たらず 学校入り口に向かう坂道横の片隅に佇む牧山校120周年記念樹のソメイヨシノが健気にも花をつけ ひっそりと出迎えてくれていたのが印象的でした。

 ふるさとの夏は旭川とともにありました。水泳技法の習得をはじめ 岡山市青年団 そして 大学学友と中牧河原でキャンピングしたこともありました。このように 平素は穏やかな旭川でしたが 先の西日本豪雨のように 時折刃を剥き 暴れ川と化すこともありでして ずっと以前のことになりますが 終戦の年の夏に襲来した枕崎台風のときのことが思い起こされます。
 中牧 大樋あたりで堤防二か所が決壊したのを初め Klein Gartenから少し南に寄った「ワダ」と称していた?と思われる場所の 下の道路はもちろん 上の津山線線路までもが崩落し その場所前後で一年近く列車が折り返し運転されていたこと そして その工事現場を訪れ 機関車に載せてもらうまでは良かったのですが 野々口駅まで連れていかれるという 大失態を演じたことなども苦い思い出のひとつになっております。

「牧山コミュニティだより」掲載の 対向線路や跨線橋などの設置ですっかり見違えた「牧山駅」での 列車の入線を待つ小学生たちの写真で始まった各地区の「一押し」は 楽しみなひとこまでした。牧山駅は 高校大学在学中の7年間 お世話になったところでして 残念ながら今は無人駅。乗降客も減ったようですが 懐かしいところです。
 中牧の「一押し」は 当然「石井八幡宮」の大銀杏以外になかったでしょう。鎌倉鶴岡八幡宮の 樹齢1000年の大銀杏があっけなく倒れたという報道を耳にして 「石井八幡宮」の大銀杏のことを思い出し その八幡宮での遊びに興じ 避暑代わりに緑陰を求めたり はたまた 演芸会までも催したことなどを思い起こしましたが 樹齢300年とされる大銀杏が 何故 ここ中牧に存在しているのかは 今もってミステリーです。熟したギンナンの実が放つ鼻をつまみたくなるような 特有の匂いも郷愁を誘いますが この大銀杏には これまでと変わることなく 世の中の動きをいつまでも静かに見守っていてもらいたいものです。

 ふるさとの冬は 時折 木枯らしが樹々を揺さぶる以外 そして 夜のしじまを縫って遠くから聴こえてくる その当時 走っていたSLの汽笛以外 耳にすることのない静寂さに包まれており そうした中で見上げる 満天の星で埋め尽くされた冬の夜空は オリオン座を初め大三角形など 冬の星座観測に極上の 澄み切った環境の中にありました。今では聴くこともできなくなったらしい県庁屋上からの ミュージックサイレンの音色が 高倉の山肌を這うように流れてくるのを耳にできたのも この地の静寂さを物語る証のひとつだったでしょう。
 昼夜を問わず 自宅から南方向に視ていた こうした天空の下に慄然と佇む高倉山は 今もなお 私にとって心の山です。帰省する頻度も少なくなりましたが 新幹線が旭川鉄橋を渡るとき 北に眼にする高倉山が いつも やさしく「おかえりなさい」と言ってくれているように思えます。「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」 まさに啄木の心境です。