備後 福山に行きました

投稿日:2019年4月6日

お糸さん伝説  沖田神社 おきた姫とかぶります

江戸時代初期(1643年)福山藩主水野勝成は、旱魃(かんばつ)対策として、 領内の農民を動員して服部川を堰き止め、備後最大のため池(服部大池)築造に着手しました。
しかし、思わぬ難工事。
そのため、当時の習しとして、水神さまに「人柱」を捧げて土手の安全を祈願することになり、 人柱に選ばれ生き埋めにされたのが、当時16歳のお糸という娘さんだったそうです。
その後、工事は順調に進み2年で完成し、周辺の田畑を潤し続けています。
しかし、生き埋めにされたお糸さんには、許嫁(恋人)がいました。 その許嫁は、毎晩のように服部大池の堤に来て、お糸の名を呼び続けていましたが、 最後には、お糸さんの後を追うように自ら池に身を投げてしまいました。
お糸さんと若者を哀れんだ村人たちが、霊を慰めるため、池のほとりに松とマキの木を植えて霊を慰めたそうです。
松とマキの木は、お糸と若者の姿であるかのように根と根が絡み合い、枝と枝がもつれ合って大きくなり、 比翼の大樹となり、お糸さんの話と共に語り継がれています。 しかし、2本の木は、昭和50年代に相次いで倒れてしまいました。

近年では1997年に改修工事が行われた。池の周辺は公園として整備され桜の名所として市民に親しまれている。

 

備後 吉備津神社

吉備津神社は、備後国の一宮である。創建は八〇六(大 同元)年【平安時代】と伝えられるが、神社名が最初に確 認できる史料は、一一四八(久安四)年【平安時代】の京 都八坂神社の記録「社家条々記録」である。境内を発掘し ても一二世紀以降の遺物しか確認されない。
境内および周辺の山林は、史跡一宮(桜山慈俊挙兵伝説 地)として一九三四(昭和九)年に指定された。また、境 内には一六四八(慶安元)年【江戸時代】に再建された本 殿(国指定重要文化財)や、神楽殿(県指定重要文化財) などの建造物が一八棟現存する。

 

素盞嗚神社      茅の輪くぐり発祥の地

当地は、江ノ熊・江隈・疫隈などとも呼ばれていた地で、
当社は、「備後国風土記」にある「疫隈國社」である。
蘇民将来伝説の発祥の地であり、全国祇園社のもと。

北海にいた武塔神が、南海の神の娘のもとへ通う時、日暮れてしまい、
当地で宿を求めた。
当地には、将来兄弟が居り、弟の将来は豊かであったが、宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、当地で、報復を行う
ことになるが、蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし、
免れたという。

武塔神は、その時、「吾は速須佐雄の神なり」と名のったという。
当地が通過点だとすると、北海は日本海、南海は瀬戸内か太平洋になる。
やはり素盞嗚尊は出雲の神なのだろうか。

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