「ふるさと平井」シリーズ№42を掲載

投稿日:2022年3月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№42 p.8-14)

       第1章ふるさと平井

   3.地名について
平井地区に関係する地名についてその解説をするとともに、地区内の小字名をわかる範囲内で掲載する。
備前国
山陽道にあった吉備国が備前・備中・備後の3国に分かれるが、その年代は明らかでない。その後、和銅6年(713)備前国の6郡をさいて美作国が造られた。
備前国は、古くは「きびのみちのくち」といい、山陽道にあって東は播磨(はりま)、西は備中(きびのみちのなか)、北は美作(みまさか)、南は海に至る国で、国府は今の岡山市国府市場付近に置かれた。
文武天皇、大宝2年(702)諸国の境界が改正され、備前国は上国(大国・上国・中国・小国に分けられた)に列していたと文献に示されている。また、平安末期に編纂(さん)された和名抄(わみょうしょう)によると、和気・磐梨(いわなす)・邑久(おほく)・赤坂・御野・津高・児島・上道(かみつみち)の8郡の名が見られる。
上道郡
備前国の8郡の1つで、古くは「かむつみち」といい、和名抄に「備前国上道郡 加美津美知(かみつみち)」とある。上道の名の起こりについて「上道郡とは下道に対しての名、(中略)吉備の道筋にして川邊川を以て之を二分し、其の京都に近きを上道(かみつみち)とし、遠きを下道(しもつみち)と稱す」(岡山県通史)とある。
上道の読みは、古代から中世初期まで「かむつみち」と言い、元禄郷帳(1688~1703)の頃からは「かみみち」又は「じょうどう」とも言われ、明治11年、新郡区編成では「じょうとう」(古い呼称の「かむつみち」でもよい。)と、時代と共に変化している。
和名抄によると、上道郡に9郷(宇治(うち)・幡多(はた)・可知(かち)・上道(かみつみち)・財田(たから)・古都(こず)・日下(くさかべ)・那紀(なき)・豆田(まめだ))の名が見られる。中世末期その一部が上東郡に分かれたので、以後上道郡は6郷となった。寛文年中(1661~1673)上東の名を廃して上道に併(あわ)せ、一時期ロと奥の2郡の時代はあったが、天明2年(1782)もとの上道郡となる。
宇治郷
上道郡の9郷の1つであるが、宇治郷(うじごう)の名の起こりについてはよくわからない。しかし、この「宇治」というのは大和政権下の部民(べみん)の1つで名代(なしろ 皇室の私有の部)の宇治部(うじべ)に関係があると考えられ、近くの郷名に幡多郷(はたごう 秦部(はたべ)から)財田郷(たからごう 財部(たからべ)から)日下郷(くさかべごう 日下部(くさかべ)から)などがある。つまり6世紀中ごろ吉備国が大和政権の人的支配(部民として)を受けていたころの名残といえるようだ。
中世以後になると宇治郷に9から12の村名が見られるようになる。この村々は旭川東岸にあり、操山丘陵と旭川の流れの間に広がる平野で、この風景が京都に近い貴族の別荘地としてよく知られた宇治の地に似ていることから宇治郷となったと考えられる。しかし古い時代にも使われていた郷名なので、そのまま使われたものなのかどうかはわからない。宇治郷には平井村・網浜村・門田村・湊村・原尾島村・藤原村・国富村・森下村・瓶井(みかい)門前村・穝(さい)村・中島村・八幡村以上12村(備陽国誌)の名が見られる。
平井地区
荒野庄 こうやの庄、あらのの庄の2とおりの読み方がある。奈良春日社に伝わる「備前国上道郡荒野庄領地図」正安2年(1300)によって紹介された地名、平井付近に開墾された荘園のことである。おそらく葦の茂る荒れ地を開墾して造られた広々とした野原だったことから、荒野とありのままの姿でいわれたのであろう。
吉岡・吉田 備陽国誌によると「平井水村なり、古名吉岡」とあり、また「平井村、古くは吉田村といひよし」と吉備温故に書いてある。
吉岡は「葦の岡」から転化したものであろうし、吉田は「葦原に開けた田」の転化したものと考えられる。「あし」と「よし」は同義語であり、海辺や湖岸に生える植物のことである。葦原が岡のように見え、葦は悪しに通じるので嘉字(かじ えんぎの良い字)を選んで吉岡・吉田と名づけられたのであろう。
平井村 平井村の地名が初めて見られるのは、慶長10年(1605)の備前国高物成帳(びぜんこくだかものなりちょう)で「上道郡宇治郷平井村」とある。また他の文献では「古くは吉岡村と名づく。何時か平井と改む」(東備郡村誌)とあり、平井という呼称をいつから使うようになったか全くわからない。
地名の始まりについて「平井庄左衛門屋敷、平井村にあり、或る書に天正年中(1573~1592)平井庄左衛門此処(ここ)に居住する故に平井村という。按(あん)ずるに庄左衛門此処に居住する故に平井と名乗りたるなるべし」(和気絹)とあり、姓が地名に、地名が姓に、どちらともいえない記述である。最近発刊された「岡山の地名」では、「大永(1521~1528)の武将、平井右兵衛尉家兼(うひょうえのじょういえかね)が来住して姓が地名になったとも考えられるが、元平井という地もあって狭い範囲の地名が村名になったと考えるほうが妥当であろう」と述べている。この説からごく常識的な推論になるが、操山南西麓に何らかの理由で古くから平井という地名があり、そのあたりへ平井氏が城を築いて勢力を張り、自己の勢力圏である吉岡・吉田村を含めて、平井と呼ぶようになったのではなかろうか。
平岡新田 江戸時代の初期のころ、平井地先の新田として干拓された所であり「平井村、枝 平岡新田」(備陽記)と書かれている。
この平岡新田に最初に入植した数軒の集落を通称「川崎」と言った。つまり沖新田ができるまでは、旭川河口の崎であったので「川の崎」がつづまったものと思える
平井の小字名 次の通りである。(岡山市史より)
出屋敷・杉下・上屋敷・市場屋敷・寺田・国富田・尾崎・摺(すり)鉢・下屋敷・伊庭(ば)・南新田・北新田・北新田野田・野田・広間・浜・三ノ割・二ノ割・ーノ割・村前・八反地・下砂場・上砂場・五軒屋・八反田・西谷・米山・松採

湊地区
春の湊 この地名は古い文献にでてくる伝説的な呼称で現在の湊地区のことと言われている。かつて、瀬戸内海に面した古い湊で、名所の1つにあげられていた。
湊 村 岡山城を築いた宇喜多直家(1570年ごろ)が春の湊という村の名前が長すぎるので湊村と改めたという。慶長10年(1606)備前国高物成帳に「上道郡宇治郷両湊村」とある。操山南面の山裾に西から東へ広がる集落があったのでこのような呼称がつけられたのではなかろうか。およそ400年前、江戸幕府が開かれたころのことである。
福江新田 文献によれば「湊村 東湊」(備陽記)とある。この 東湊は慶安3年(1650)ごろ、東湊新田として干拓されたところで、後福江新田と呼ばれ、貞享3年(1686)湊村の枝村となった。
現在の字粒江・大浜の辺りである。
湊の小字名 次の通りである。(岡山市史より)
暮気(ぼき)・野田・道喜(どうきゅう)・前濱・兼近(かねちか)・大濱・粒江・高田・山下・池外・池內・北山・臺(だい)場・向(むこう)山・明暮(あけくれ)・出崎・饒山(ぎょうのやま)・荒神・上山・村間(あい)・米山・操陽南山・佐古

(つづく)

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