「ふるさと平井」シリーズ№30を掲載

投稿日:2021年9月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 30 p.215-221)

       第5章 開けゆく平井

平井学区体育協会
戦後間もない昭和23年8月、岡山市はスポーッ関係者の強い要請に応え、15種目の競技団体により岡山市体育協会を創設、翌昭和24年、一般市民に呼びかけて学区体協の設立を指導し、その加盟をうながし、広く岡山市民の体育振興の組織として活動を始めた。
平井学区においても昭和30年代に入り、初代会長故難波秀男氏を中心に、当時の関係者の格段の努力により、学区体育の振興と青少年の健全育成、更にはスポーツ愛好者の相互の親睦などを目的に、平井学区体育協会を結成、岡山市体協傘下の一員として出発した。その後、平井学区大運動会の開催や、市民体育大会への参加をはじめ、各種競技のサークル活動の推進、更には、スポーツ少年団の育成など、健全で明るい平井学区発展の一翼を担って地道な活動を続けてきた。そして、昭和49年、コミュニティ協議会発足後も、各種体育関係諸行事の推進母体として、企画、運営などすべてを担当し、ふれあいのある街づくりに貢献している。なおこうした活動は、すべてスポーツ関係者の献身的な奉仕によって成り立っていることを付記しておく。
平井学区体協としての古い記録は残念ながら皆無に等しいが、岡山国体当時の国体旗リレーの写真を難波会長夫人に提供いただいたので、その時の様子と、各種協議団体の活動状況を記載する。

国体旗リレー 昭和37年国民体育大会は岡山県で開催された。10月21日から岡山市をメイン会場として行われる秋季大会の式典会場中央塔に掲揚する大会旗は、9月22日前年開催地の秋田県を出発、8府県を延1万3000人によってリレーされ10月11日県境の備前市三石町に到着した。そして更に県下56市町村をリレーされ開会式当日(10月21日)会場に入場する。

開会式前日の10月20日、さわやかな秋晴れのもと、福島地区から締め切り堤防を渡り児島路を東走した団体旗は、児島甲浦から渡船で三蟠港に上陸する。三蟠地区の人々による多彩な歓迎の中、三蟠体協の人達により旭川堤防道を北上する。午後1時40分頃、学区の境界に当たる宮道入口付近で平井体協にタッチ、難波会長以下21名の男女隊員によって旭川河畔を力走する。国体マークの入た鉢巻ランニング姿も凛々しく、途中適宜交替しながら、沿道を埋める大勢の人々の歓声に応え、担当地区をかけ抜けさわやかな汗を流した。午後2時、元町あたりで次の旭東学区体協に引き継ぎ、無事責めを果たした。定例的な行事とは異なり、国体という国を挙げての行事に、平井体協として参加したことは、発足間もない時期でもあり実に記念すべきことと言えよう。

スポーツ少年団キャンプ

スポーツ少年団 日本スポーツ少年団は東京オリンピックの年、昭和39年6月、オリンピックの記念事業として生まれた。岡山県でも同じ年に結成、青少年にスポーッを振興し、少年達が自由時間に地域社会でスポーツを中心としたグループ活動を行い、心身の健全な発達を図ることを目的とし、団同志の交流、交歓など多彩な活動を続けている。
平井学区スポーツ少年団は、昭和40年代に入ってから,次々と誕生し、現在、ソフトボール、バレーボール、卓球、剣道、フットボール(サッカー)、軟式野球の6競技で活発な活動を続けている。指導者・活動場所・保護者を含め地区民の協力などスポーツ活動に欠かせない要素は多いが、幸いに平井学区は比較的恵れた環境にあると言えよう。特に指導に当たる方々については、時間と労力を惜しまず、身銭を切っての指導にまさに頭が下がる思いである。コミュニティ協議会から若干の助成を受けながら体協傘下の競技団体として、少年達は誇りをもって心身の錬磨と技術の向上を目ざして頑張っている。以下に各団指導者から提出された資料により、創部の経緯から現在の状況までを書き留める。
  ソフトボール部  元指導者 安原 宏
昭和42年初夏、爽やかな日曜日の午後のひとときを児童と一緒にボールと戯れていたとき、長女の担任の先生がグランドに見えられ、所用で付き添うことができなくなった “富山スポーツ少年団招待 ドッチボール大会” への引率を依頼された。それを契機に異なった年齢の子供による社会体育を復活させてみたら、との先生のご指導のもとにソフトボールのチームが誕生した。
高学年の男子から希望者を募集したところ、先生のご熱心さも加わって30数名の応募があり、地元関係者の方々も驚くとともにご協力下さり、その年の秋PTA会長の指導のもとにスポーツ少年団に加入し、 現在に至っている。
成長期における児童の社会体育のありかたとして、単一種目にかたよる心身への悪影響の弊害を重視し、それぞれの年齢の特徴を十分に発揮できるあらゆるスポーツを取り入れた。山登り・ハイキング・サイクリング・キャンプ・スキーと平素経験できないさまざまな分野で個々の特性を発掘し、希望と成就感による成長の手助けに徹しようと心掛けた。振り返って見ると本当に伸々とした子供たちが多く育ったように思える。特にキャンプ活動では思わぬ行動力に目を見張り、子供達の無限の可能性を秘めた神秘さに心を打たれたことも度々であった。
小学生の時、担任の先生から「他人の幸せを心から祝福してあげられる時、その時がその人の一番幸せな時である」といわれたことを思い起こし、わたしの人生に大きな役割りを与えていただいた10数年の係わりでしたが、年齢もさることながら体調を崩し現役を去るに当たって、社会活動の結果は20年・30年と本当に気の長い先に現われるものであって、それだけに疎かにできない重要な分野ではないかと思っている。
最後に現在活躍していただいている指導者の方々、および関係各位の温かいご支援に深甚の敬意を捧げるとともに、地域の皆様の変わらぬご協力を願って止みません。
  剣 道 部  指導員 松原 敏和
創 部 昭和50年7月8日、平井学区コミュニティ剣道クラブの名称を以って当時公務員宿舎におられた剣道5段範士である田中恵先生を迎え、地区の剣道愛好者数名が補佐することにより、部員数51名の大世帯で発足する。

剣 道 部

創立5周年記念大会を地区の各種団体、部員保護者などの協力を得て、岡山市の各団体を招待し、昭和55年7月20日盛大に挙行する。平井チームの成績は第3位。
昭和55年部名も平井剣道スボーツ少年団と改め、スポーツ少年団に登録。
昭和56年8月全日本少年剣道錬成大会出場、東京武道館において第3位を獲得。
その他各剣道大会に出場、団体戦個人戦などの賞を数多く頂く。
現 在 部員数15名 指導員1名 平井小体育館で練習。
抱 負 青少年健全育成の推進をモットーに努力したい。
問題点 恵まれた時代に生きている子ども達としては、厳しさと立ち向う姿勢が希薄であり、学習塾などの絡みもあり、団員が減少傾向にあるがいかんともし難い。
最後に剣道部の発展の陰には、今は故人となられた、山田隆雄氏、柾本隆雄氏、入沢真都太氏、それに都守健二氏、安原宏氏たちの限りない援助があったればこそと深く感謝している次第です。
  卓 球 部  指導者 木村 弘司
創設の頃 昭和54年4月 部員26人で発足、指導員は女性3人(部長相賀さん)で平井小体育館を借用して週2回(火、土夕刻)約3時間練習に励んでいた。

卓 球 部

その後の経過 3年目に指導員の2人が病気で引退したので私(木村)が加わった。指導員の確保には苦労したが、4年目から保護者会が結成され、何とか部らしい運営ができるようになった。昭和59年(5年目)に女子Aチームがある大会で初優勝、その頃から指導員も7名に部員は40名に増え充実した活動ができるようになり、昭和62年の錬成大会には男女とも優勝の栄に輝いた。また平成元年11月23日には、創立10周年大会を開催した。平井小体育館では狭いので浦安の市立総合体育館を借り、250人程の選手を招待し盛大に行なった。この大会でも平井卓球部は男女とも優勝を飾った。創部7年目から10年目頃までが最も充実した時期だったと思う。
現在の状況 部員26人、指導員5人、数年前の最盛期の成績を取りもどそうと子供達は頑張っている。平成5年には3位に、また平成6年3月には平井卓球部が当番校となり平井小学校体育館で錬成大会を開催し、かなりの成績を挙げた。来年は、創部15周年を迎えるので、できれば記念大会をと考えている。問題点としては、練習後の帰宅時、特に冬期は日没後となるので、自転車の子供の交通事故が心配。また、部の行事は週2回の練習、年5回程度の試合、それにクリスマス会と夏の一泊親睦旅行などを実施、チームワークの育成に努めている。

(つづく)

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