「ふるさと平井」シリーズ№25を掲載

投稿日:2021年6月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 25 p.172-180)

       第5章 開けゆく平井

   3.道路網の整備

宅地化が進み、自動車交通が発達するにつれて道路網の整備は安全で住みよい街づくりに欠かせない緊急の課題となってきた。国道2号線バイパスや県道岡山ー玉野線の建設をはじめ、既存道路の拡幅・舗装・住宅地への取付道などが次々と整備され、かつての静かな田園風景は一変し、岡山市東南地区の交通の要衝として最近は喧噪を極めている。以下に平井地区にかかわりの深い主な道路・橋梁の整備状況を順を追って記しておく。
桜橋(昭和35年開通)
京橋より下流には旭川を渡る橋が1本もなく、岡南地区と旭東を結ぶ架橋の必要性が早くから叫ばれていたが、市財政や国庫補助の関係から延び延びになっていた。すでに取付道は完成していたので市は関係方面へ熱心な運動を続けた結果、昭和30年度、国庫補助基本額が内定し着工の運びとなった。
工事概要は、橋梁延長225m、総幅員9m、取付道左岸162m、右岸184mで、総工費2億2400万円で昭和35年完成した。
これにより従来の渡し船は廃止され、京橋まで大回りしていた岡南・岡西への交通は時間的にも距離的にも短縮され、われわれ平井地区住民にとっても便利になった。
県道 岡山ー玉野線(昭和47年開通)
北は網浜を経て国道2号線及び桜橋・大学病院方面へ、南は三蟠江並までの都市計画道路で、片側3車線、平井地区を貫通している。その後新岡山港や児島湾大橋が完成し、県道岡山ー玉野線となり旭東地区の幹線道として重要な役割を果たしている。この道路が平井地区にもたらした経済的付加価値は極めて大きく、道路沿いに店舗、スーパー、病院、食堂、娯楽施設などが次々とでき、また宅地化に一層の拍車をかける結果となった。昭和46年3月に平井小学校の南まで、昭和47年中にバイパスまで、即ち平井地区分が開通し、その後三蟠まで延長された。
国道2号線バイパス(昭和49年開通)
建設省岡山国道工事事務所は昭和36年、国道2号線の交通混雑緩和のため、岡山市浅川ー倉敷市大西間38.3kmにバイパス建設を計画した。昭和41年に岡山市中島ー大西間23kmに着工、昭和45年4月に妹尾ー早島間5.4kmの完工をはじめとして昭和49年1月旭川大橋・大樋橋・洲崎・豊成・泉田・米倉の4高架橋を含む岡山市中島ー倉敷市笹沖間20.3kmが完成、時を同じくして倉田一君津間5.2kmが片側1車線で開通した。このバイパスは平井川崎地区を高架で通って倉田交差点に至っており、これにより東西交通は一層便利になり、地域発展に大きな役割を果たしている。なお旭川大橋は延長340m幅26mで昭和46年4月に着工、工費2億5300万円で昭和47年10月1日、片側2車線だけで開通式が行われた
道路の拡幅、整備
倉安川沿い市道の拡幅(昭和54年~56年) 児童通学路の安全確保のため平井排水センター建設を機に元町・元上町・国富田3町内の関係者で協議し、市当局へ要望を重ねた結果、昭和51年9月、市長との間に覚書を調印し実現の運びとなった。元町の県道交差点から四軒屋4つ角までの倉安川沿いの市道を幅6.5mに拡幅し歩道を設ける工事で、昭和54年秋着工、翌々年の春に完成した。従来は車の対向も難しく、大人でも身の危険を感ずるような狭い道だったが、今はバス等の大型車輌もすれ違うことができ、歩道も舗装され、子供の通学にも安心できる道になっている。地元住民の地味な努力が実を結んだ環境整備の1つといえよう。

倉安川に転落・横倒しになったバス
  (山陽新聞より)

平井ー門田線市道の拡幅(平成元年~2年) 平井四軒屋から山越えで門田・東山方面へぬける市道の拡幅である。この道の門田分については早くから整備されていたが成徳学校入口の三叉路から南下し倉安川に至る平井分については幅3間程の狭い道で車の擦れ違いは難しく、危険な状態であった。昭和62年、倉元家石材店の墓地造成を機に当時の四軒屋町内会長を中心に市当局と交渉を重ね、市道拡幅が具体化した。平成元年6月から用地買収交渉に入り、地権者とのさまざまな困難な問題を解決し平成2年8月第1期工事に着手した。1期工事は倉安川から山へのかかりまでで、引き続き第2次、第3次と工事が進められ、同年12月完了した。これにより平井ー東山間は県道へ迂回することなく直接車で往き来でき、また墓参りなどにも極めて便利になった。当時の町内会長の努力と関係地権者の協力の賜である。

   4.教育施設の充実

保 育 園
戦後の保育所 昭和22年11月児童福祉法が公布され、児童福祉施設としての保育所の重要性が認められた。同法第39条に「保育所は、日々保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳児又は幼児を保育することを目的とする施設とする」と規定されている。

私立平井保育園(昭和30年頃)
 (上平井 妙楽寺提供)

幼稚園も保育所も共に就学前の幼児を保育する機関でありながら、幼稚園は文部省に属し、保育所は厚生省の管轄に属している。この相異が戦後の経済復興期における政策に現れた。政府は経済面に関するかぎり幼稚園に対しては消極的であり、保育所にはかなり積極政策をとり、補助金が得られたのである。
平井学区においても小学校と同時に要望した就学前教育の施設も、補助金の得やすい市立保育所が小学校開設の5年後設置され、幼稚園の開設は更に18年も遅れたのである
平井学区は岡山市の中心市街地から車で約10分以内という交通の便もよく、戦後は市営住宅の建設をはじめ、住宅地としての開発が急速に進んだ。産業構造の変化とともに、主婦の家庭外労働世帯が増加し、保育園の設置要望が多く聞かれた。この要望を受けて開設されたのが上平井妙楽寺内の私立平井保育園である。
私立平井保育園 第2次世界大戦の終戦により、いわゆるベビーブームが始まり、幼児人口は急上昇していった。昭和21年に生まれた子供が5才児になる昭和26年に妙楽寺住職田島惠康上人により境内の一角に保育園が開設された。平井小学校の開校と同年だったので、操南幼稚園や旭東幼稚園まで行かなくてよくなり、距離が近くなったことで私立平井保育園の開設は平井地区の人々に大変喜ばれたのである。その後岡山市立平井保育所が昭和31年8月に開設されるまで園児数は増加の一途をたどった。昭和49年に岡山市立平井幼稚園が開設され、公立の幼児教育機関が整備されたので、妙楽寺の私立保育園は閉園された。それまでの23年間、園長の田島上人をはじめ、妙楽寺保育園関係の方々は平井地区の幼児教育に大きな貢献をされたのである。

市立平井保育園

岡山市立平井保育園 建設用地は地域で確保するから就学前の幼児保育の施設を早急に建設してほしいと市当局に要望していたが、平井小学校開校から5年後昭和31年8月やっと岡山市立保育所が開設された。岡山市の施設台帳には「地域の要望により、秋山藤吉氏より土地の寄付を受け、岡山市平井635の7番地に創立する」と記されている。市立平井保育所が創立された場所は、平井小学校の南、現在は地区の人々のゲートボール場になっている所で、移転するまで26年間就学前幼児の保育所だった。(昭和53年4月から市条例改正により保育園と名称変更。)保育所への入園希望者が多くいつも定員いっぱいで希望者全員を入園させることができなかった。
施設も老朽化したため昭和57年現在地に新園舎を建設し全面移転した。敷地面積3170㎡に建物面積567㎡と広い施設に定員80人が保育されている。
幼 稚 園
岡山市における幼稚園の歴史 明治17年9月池田藩学校の跡(現在の岡山市立旭中学校の敷地)に、岡山県立師範学校附属幼稚園が設立されたのが岡山市における幼稚園の最初である。
明治18年には現在の旭東幼稚園の前身が、また同20年には深柢・弘西・清輝幼稚園の前身が、それぞれ私設の幼稚保育場として誕生している。この4つの園は何れも明治24年3月岡山市に移管されて市立幼稚園となった。
その後これらの幼稚園は一時民間有志により経営された時期もあったが明治28年4月に各小学校内に公立附属幼稚園として設置され、明治44年7月には、各小学校附設幼稚園と改名されている。昭和2年4月に至って、幼稚園は小学校から独立し、岡山市立幼稚園と改称されている。
わたしたちの地区である当時の上道郡平井村には幼稚園も小学校も設置されていなかったが、一部地域は岡山市立旭東小学校に通学していた関係で、同じ敷地に設置され、八角形のモダンな園舎で有名だった岡山市立旭東幼稚園に通園した人たちがいたようである。また昭和8年5月に開設された操南幼稚園に通った人もいた。

市立平井幼稚園

岡山市立平井幼稚園 開設されたのは昭和49年4月1日である。平井小学校の開校から23年後であった。それまで就学前の幼児教育は市立保育園と妙楽寺にあった私立保育園にゆだねられていた。戦後の混乱した時期も終わり、産業の高度成長と共に人々の生活も安定して来るにしたがい教育への関心がたかまってきた。更に家庭における少子化傾向が強まるに従い就学前教育の充実を望む声が多くなってきた。岡山市では63番目の市立幼稚園として平井小学校に隣接し、小学校長が兼務園長となり待ち望んでいた岡山市立平井幼稚園が開園された。当初は年少学級37名、年長学級69名で第1回入園式が昭和49年4月10日園名表示式と合わせて挙行された。翌50年度から園児増により、プレハブ教室も1室増築され4教室となった。
園児数が更に増加した昭和53年度(167名)5学級編成で専任園長が着任し独立園となった。プレハブ教室が5教室となり新園舎の建設が要望され、昭和53年8月には全面移転による
園舎建築が決まり、用地買収が行われた。
翌54年度は園児数は更に増加し174名で6学級となりプレハブ教室も増築された。新園舎の建築は、コミュニティ協議会との複合施設として昭和55年1月、平井3丁目の現在地に着工された。同年8月31日新園舎が竣工して同9月28日新園舎への移転を行った。以後遊具や花壇、飼育舎などが年々整備され現在の立派な平井幼稚園となったのである。

山陽学園短大附属幼稚園

山陽学園短期大学附属幼稚園 短期大学に隣接する附属幼稚園は、昭和49年4月総合学園の一環として創設された。広々とした敷地に、緑のまぶしい丘の斜面を有効に使った遊具や花壇、飼育舎など、まるでメルヘンの国を思わせる。この豊かな環境に恵まれた中で、幼児たちは3才児から3年間保育を受け心身の健やかな成長をはかっている。また短大の幼児教育学科の実習生たちが、実際に子どもたちに触れながら勉強していく教育実習の場として運営されている。
また、園児の地域別表でわかるように平井地区外からの通園が多いため、園児の約80%はスクールバスを利用してる。運行路線は幼稚園より、東山、操陽団地、湊、円山、山崎、倉益、藤崎、江並、江崎、倉田、平井を経由し、所要時間は約50分である。岡山市立幼稚園は保護者が幼稚園まで送り迎えするという条件があるため、両親共働きの家庭が増加している昨今、送迎バスのある幼稚園を希望される家庭が多いそうである。

(つづく)

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