「ふるさと平井」シリーズ№23を掲載

投稿日:2021年5月16日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 23 p.159-165)

       第5章 開けゆく平井

   1.戦後のあれこれ

昭和20年8月15日正午、ラジオから昭和天皇の声で「万世に太平をひらく」と戦争終結の放送が流れた。朝からよく晴れた暑い日で、聞き取りにくい放送に一瞬わが耳を疑ったが、やがてすべてが終わったという空しさと先き往きの不安で呆然たる思いだった。夏草は茂り、木々の緑は濃く、旭川は何事もなかったようにゆったりと流れている。「国破れて山河あり…」という杜甫(とほ)の詩の一節が身近に感ぜられ、不安な中にも厳しかった日々の終焉(しゅうえん)にそっと胸をなでおろしたものだった。
終戦の日、当時の鈴木内閣は総辞職、翌16日、東久邇宮稔彦(なるひこ)親王を首班とする内閣が組閣され、9月2日米戦艦、ミズリー艦上で降伏文書に調印し、以後敗戦国としての苦難の道を歩むことになる。
ここでは戦後数年間のふるさと平井とかかわりのある出来事を思いつくままに書き留める。
終戦前後の平井
当時平井地区は岡山市街地から少し離れた農村地帯であったため空襲前から親族や知人が荷物を持って疎開してきていた。また昭和20年6月の岡山空襲により、罹災した人達が仮の住まいを求めて大勢逃れてきた。広い家の離れや倉、農家の納屋などに寄寓し、雨露をしのぐ状況がしばらく続いた。知り合いを頼って来た人や全く縁のない人達もあり、 乏しい食糧を分かち合い、互いに助け励まし合いながら国運をかけた戦争に耐えてきた。健康な青壮年の殆どは軍隊や徴用でふるさとを離れ、子女やお年寄りが銃後を守る厳しい時代であった。
このため平井地区の人口は戦災前の2倍近くに達したという。
やがて終戦後、寄寓していた人達も焼跡に簡易住宅を建てたり、県や市の公営住宅に移るなどして順次復帰していった。
因みに当時の岡山市の住宅復興状況は他の罹災都市に比べて群を抜いて速く、昭和21年4月の岡山市の発表では次のようである。
家屋の復興、戦災後3か月目…11% 21年1月末…28% 同3月末…63%
一方軍属や軍人として遠く中国大陸や南方の島々に転戦していた人達、また旧満州国や朝鮮半島で国策に沿って活躍していた人達も2~3年の間に順次帰郷し、再会を喜び合い戦後の復興に立ちあがった。
農地改革
昭和20年12月連合軍司令部(G・H・Q)から農地解放についての指令が日本政府に出され、その後幾多の折衝を重ね「農地調整法の一部改正」や「自作農創設特別措置法」などが決定、公布され、昭和22年から実施された。従来の地主的土地所有制を解体し、農村民主化のための自作農創設を中心とした改革である。
岡山県では昭和21年11月担当部局を設置、翌22年2月農地委員を選出し、改革に踏み出した。岡山市は同年12月25日に委員の選出を行い、平井地区の所属する岡山市第3地区委員に妹尾虎夫(湊)、宇治郷実(平井)の両氏が選ばれている。実施計画は地主保有面積を6反とし、所定以上の農地は政府が買収して小作人に売り渡すということが骨子で、岡山市では592町歩という膨大な農地の解放が計画された。そして昭和22年3月の第1回農地買収から始められ、昭和26年の第16回までで、ほぼ計画通り実施された。
平井地区においては、大地主が比較的少なくて大きな影響はなかったが、一部農業者の自作農地は増え、更に残った小作地についても農作権が強化され高率穀物小作料が低率の金納小作料となり、農家経済の改善が大幅に図られた。
旧三万坪については、岡山土地倉庫株式会社の所有であり、終戦までには、周辺部を近郊農家に貸与し、中央部は食糧増産のため学生の勤労奉仕による耕地になっていたので、これを農地とみなすか否かについて種々論議があった。しかし、結局周辺部は農地として解放され、中心部は土地倉庫の所有とし、その後、国や市の公共土地として転売され今日に至っている。
南海大地震
昭和21年12月21日午前4時過、近畿中四国を中心に襲った南海大地震は岡山県にも大きな被害をもたらした。震源地は和歌山市沖100kmの海底でマグニチュード8.1という烈震、岡山は震度5の強震、約10分間水平動が続いた。被害は児島湾沿いの新田地帯で特に激しく、地域によっては家屋の倒壊や多数の死傷者が相次ぎ、沖新田地区では損傷のなかった家は殆ど皆無という状況であった。
平井地区でもかつて経験したことのない強い揺れに人々は眼をさまし、立って歩けないほどの横揺れの中を屋外に避難した。家屋の破損や道路の亀裂などが見られたが幸いにも人や家畜の被害はなかった。
後に岡山県のまとめた集計によると県の被害は死者52人、負傷者152人、家屋全壊1,200戸、同半壊2,700戸ということで、明治以来、平成の今日まで岡山県が被った地震では最大規模といえる。
進駐軍の使役
終戦の年の10月、アメリカ第6軍の一部コート代将の率いる将兵約5,000名が岡山市に進駐し、津島の旧岡山連隊の兵舎や戦災を免れた民家に駐留した。続いて翌21年6月に英連邦軍が交替して占領業務に当った。ジープに占領軍兵士が拳銃を持って分乗し民情視察に出かける姿をよく見掛けたのはこの頃のことである。
進駐軍は兵舎の清掃や修理のため県や市に対し労務提供を要求した。これに対し岡山市では市内及び隣接町村から輪番制で労働力を供出した。平井地区でも当時の旧町内隣組単位で割当てがあり、月に2〜3回兵舎の清掃などの奉仕にかり出されていた。敗戦国の悲哀をしみじみと感じさせられる奉仕であった。はじめは珍しさもあり応じる者もあったが、次第に人数が集まらなくなり、市も遂に一般労務者を公募し、日給を支給して要求を満たすことにした。
隣接村々の岡山市編入
昭和27年4月1日、平井地区に隣接する三蟠、操陽、富山などの10か村が岡山市に編入された。
このとき合併した自治体は、かつての平井村と同じく、明治22年の市町村制施行時に成立した村で、その区域のまま既に60年を経過しており、社会的にも経済的にも1自治体として即応できる規模ではなかった。戦後新憲法のもと、地方自治法が制定されて地方分権的な制度となり、行政事務や財政面において行政改革への対応が困難な状況にあり、政府は市町村規模の面から時代の要請に応え得るよう適正化、合理化施策を推進した。
こうした状況のもとに、各町村も行政水準を維持し、住民福祉の向上を図るためには岡山市への編入が最善と判断、また岡山市でも将来の大岡山市への基盤を固めるためには周辺町村の合併は必要との意向から、この編入が実現した次第である。岡山市にとっては、戦後はじめての合併であり、約116㎢の区域と20万人余りの人々が新しく岡山市に加わったことになる。
ふるさと平井にとっては、昭和のはじめまで同じ上道郡内の農村として提携・協調してきた近隣の人達が、今度は岡山市の一員として共に旭川東南地区発展の一翼を担うことになったわけである。
あおさ採り
旭川の下流、河口に近い平井は、昔から川や海の恩恵を受けて暮らして来た。白魚、蜆(しじみ)、灰貝、いな、ぼら、せい、はぜ、えびなど、魚貝類が生活の糧になっていたことは、よく知られている。このほか、干潟で青海苔(あおのり)採りをして乾燥させ食事の薬味などに使うこともあった。
土地の人は、この青海苔をあおさと呼んでいた。
青海苔は、緑藻植物・アオサ科の青海苔属の総称で、日本各地の海岸の浅海や海水と淡水の混じわったところに普通みられるという。ちょうど旭川の河口一帯はこの条件を満たしていて、平井付近を中心にあおさがよく育つ場所であった。

あおさ干し風景(昭和21年頃)

太平洋戦争後の食糧難時代、駅前にやみ市ができた頃からあおさが売れるようになった。そこで冬になると農家の副業として小舟を使ってあおさ採りを始めた。竹竿の先に金具(うなぎかけの道具など)をつけて、川底の割石や小石に密生しているあおさを引っかけて採る。京橋付近から河口近くの間の両岸で、小舟一杯に採って帰り、近くの祇園用水や井戸端で水洗いして、砂やごみ、潮水を流す。農家の前の広場(かど)や畑のあぜ、近くの堤防の上などに棒を立て、それに荒なわを張ってあおさを掛けて乾かしていた。その様子は緑のすだれを吊るしたように見え、風に揺れ、風情があった。乾燥したものは、小さな束にして出荷していたが、その後粉末にするようになった。
上、下平井でおよそ20数軒はあおさ採りをしていた。仲買人も、3、4人はいたようである。岡山市も徐々に復興し、あおさの小さな束が売られていた。きれいな緑色をして風味が良いので、だんだん大量に消費されるようになっていたが、昭和25年頃から川の水が汚れてあおさの成育が悪くなり、採れなくなった。戦後の短い期間であったが平井ではあおさ採りがブームになり、家計を潤していた。
最近(平成6年)また川の水がきれいになり桜橋付近であおさ採りをしている人が見うけられ、平井付近の沈床の石にも緑色のきれいなあおさが生えかけているようである。
平井の黄蜆(きしじみ)
これは特に戦後に限ったことでなく、江戸期から今日まで続いていることではあるが、特に戦後の食料難時代に簡単に得られる貴重な蛋白源として地域の人は勿論、岡山市街地の人々からも親しまれた平井の産物なのでこで紹介する
江戸期の寺子屋で使われた教科書「備前往来」の名物の項に「額ヶ瀬の蜆・平井の白魚」とある。額が瀬も平井分(元町付近)であるので、蜆も白魚と並んで、平井の特産品に挙げられている。
平井付近の旭川州でとれる蜆はやまと蜆と称し、淡水と海水の入り交る河口域で繁殖する。宍道湖や利根川河口などが全国的な主要産地で市場に出廻る蜆の殆どが本種である
では、 平井の蜆は何故黄色なのか。やまと蜆は通常黒褐色の二枚貝で幼若期にはしばしば黄褐色の放射状の色素を持つと言われている。しかし、平井の蜆は比較的大きくても黄色の殻を持ったものもあった。子供の頃の蜆獲(と)りを思い起してみると、小さい蜆は確かに黄色のものが多く、また泥の多いところのものは黒く大きく、きれいな砂洲でとれる蜆には黄色い殻のものが多かった。このことから考えてみると平井の蜆は他産のものとは別種であるとは考えにくく棲息する砂洲がきれいなことが黄蜆を多く繁殖させる条件になったのではなかろうか。丁度、平井の白魚がビィドロと呼ばれる半透明の最高級品で、河口に近づくと腹部に赤や黒の模様を持つものに変るのと同じように。
昔から戦後にかけて、蜆を大量に獲って商いをする人もいた。舟で少し深いところに出て金網を張った前掻きで掬い、ごみや小石を捨てて必要なだけ獲り、河原の大釜の熱湯で茹でると貝がロを開き身が浮いてくる。この身蜆と貝殻つきの蜆を前後の籠に入れ天秤棒で担いで、市街地へ売りに行ったという。
蜆は古くから夜盲症や黄疸(おうだん)などに効くとされ医療用にも利用されていた。また、昔から身蜆を佃煮や煮物にしたり、殻付きの蜆を味噌汁の具にするなど、多くの家庭の食膳を賑わしてきた。平井から宮道にかけての旭川の干潟で、春先から夏の終り頃まで蜆獲りに大勢の人が訪れる。川の汚れで獲れない時期もあったが最近また繁殖に適した環境が戻ってきたようである。

(つづく)

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