「ふるさと平井」シリーズ№10を掲載
投稿日:2020年11月1日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 10 p.69-74)
第3章 池田藩政下の平井
7.池田藩家老の船置場
文化・文政(1804~1830)ごろの様子を描いた「網浜村・平井村絵図」がある。この絵図は幕府の命で伊能忠敬(いのおただたか)が日本全土の地図を作成する際、この地方の状況を描いて両村名主が提出したものの控(ひかえ)である。これによると現在の下平井須賀町から八反地にかけての旭川原に船屋敷が3か所描かれている。また文政8年(1818)に書かれた「沖新田絵図」には、大川端の同じような場所に倉庫のような建物が4棟認められる。何れも藩政期に平井村の旭川河畔に船置場があったことを物語っている。
吉備温故によると、平井村のところに「老臣 日置(ひぎ)元八郎・池田隼人・伊木長門・土倉四郎兵衛・池田和泉の5人の舟入りあり、和泉舟入り辺りより八反地という」と書かれている。老臣とは池田輝政以来の家臣又はその家系の者で、池田藩の家老である。土倉四郎兵衛は光政の頃は既に隠居してその子の市正が家老職についており、土倉市正は後に二日市の池田勘解由(かげゆ)の舟入りを借用しているので、平井の舟入りは早い時期のもので、規模も小さかったと思われる。従って日置・池田隼・伊木・池田和の4家老の船置場が17世紀ごろから明治維新まで平井村にあったのではなかろうか。なお残る家老の1人池田伊賀の舟入りは、延宝2年(1673)池田藩のお舟入りが網浜から浜野へ移った後、網浜を与えられている。
光政移封時に家老の陣屋(所領に設けた居舘と政庁を兼ねた施設)は領内要衝の地に配置され、知行地もおよそその周辺地域を重点的に与えられていた。伊木長門は邑久郡虫明、池田和泉は児島郡天城、池田伊賀は赤坂郡周匝(すさい)、日置豊前は津高郡金川、池田隼人は津高郡建部、土倉市正は磐梨(いわなし)郡佐伯である。そして家老は、平素は岡山城下に住いして政務に当たっていた。従って陣屋町や知行地からいろいろな物資や人を送迎するには、当時最も効率のよい水上交通が利用されたので、それぞれの舟入りや舟置場が必要であった。
では、 平井の旭川原が船置場として利用された理由について考えてみると、
➀岡山城下に比較的近い。
➁旭川の流れが浜野の上あたりから下平井の方へ曲っているため、下平井須賀から八反地にかけて水深が深く、比較的大きな船も繋留(けいりゅう)できた。
➂当時は一面畑地が広がっていたので、倉庫や小屋を建てるのに都合がよい。
④加子浦の指定もあり、賦役の人が得やすい。
➄旭川河口で児島湾・瀬戸内海の海運の便がよい
などが挙げられる。平井の河畔はこうした条件をすべて満たした場所であったと言える。沖新田絵図で見られるように、相当大きな倉庫が屋敷内に建てられ、役宅や水主(かこ)達の小屋もあったようである。
次に撮要録(さつようろく)に記載されている平井村名主治郎兵衛の文書により、平井村船置場の概要を述べる。
伊木家船置場
一、五反二畝二十二歩 伊木豊後様御船入
一、一反五畝十七歩 貞享三年(1685)御買添
一、七畝十二歩半 元禄十二年(1699)御買添
高 六石一斗六升二合 (注)高ー収穫石高
物成(ものなり) 三石九斗四升四合 (注)物成ー年貢
右御船入地請地之儀 、御尋被成候処不残御年貢地にて毎年御年貢米麦共御蔵御切手にて被遺請取申候
宝暦三年(1753)酉(とり)五月朔日(ついたち)
平井村名主 治郎兵衛
これは平井村名主が郡役人の諮問に応えたもので、これによると伊木家御船入の土地は約7反程(ほど)あり、すべて年貢を納める土地で、年貢は毎年御蔵切手で受取っているというものである。他の御船入に比べて面積も広く、買添え時期も早い。恐らく絵図の真ん中の一番広く且つ条件のいいところではなかろうか
日置家船置場
一、下々畑 二畝十八歩 日置玄蕃様御船入
一、下々畑 五畝十歩 元禄十二年(1699)御買添
一、下 畑 六畝十五歩半 同断
高 一石五斗
物成 六斗七升二合 (注)以下は伊木家と同じ
この船置場は次の森寺家と共に、合わせた面積もあまり広くなく(約2反)、またすべて畑地であるため絵図の最も上に当たるものと思われる。
森寺家船置場
一、下々畑 三畝十二歩 池田隼人様御船入
一、下 畑 四畝十四歩 寛延三年(1750)御買添
高 六斗一升七合
物成 三斗九升五合 (注)以下は伊木家と同じ
家老池田隼人(下総)の先祖は森寺清左衛門といい、池田輝政の弟の3男を森寺家の養子として迎え、後池田と改姓している。従って森寺家についての記載は家老池田下総のことである。
天城屋敷船置場
天城屋敷は家老池田和泉(出羽)の屋敷である。この船置場は前記3者の場合と異なって設置の経緯(いきさつ)などが書いてあるので要約して紹介する。
寛延3年(1750)家老の用人2人が内々に見聞。その後名主治郎兵衛を呼んで堤防外の大川端に船置場を作るが、平井村の加子(かこ)長三郎を召抱えて長三郎の名儀で内見の場所を買求め、更に荒地の発返(おこしがえ)しをして船置場としたり、また番人の小屋を建てた場合は長三郎が引越しするので心得おく様にと申し渡している。このことはその後村役人と郡奉行の了解のもと次のように決定している。
一、下 畑 六畝二十歩 長三郎請 寛延四年(1751)発返し八反地
一、下 畑 三反三畝十歩 同 同年 御買地
〆 四三反
高 四石、 物成 二石五斗六升(若干の免除あり)
なお、宝暦7年(1757)の平井村名主治郎兵衛の留書(とめがき)では、発返し地もすべて年貢地となり、御年貢米を毎年御屋舗から渡されていると述べている。
この天城屋敷の船置場は絵図の上では最も下手のものと思われる。また発返しの荒地については、平井村仁介ほか2人の田畑〆6畝20歩が永代荒蕪(こうぶ)地になっていたものを、長三郎名儀で再び耕地にしたという申し出をしている。
今は下平井須賀地内から旭川大橋付近まで少年野球のグランドがある程度で、緑の河川敷が広がっている。然し往時は新堤防もなくもっと広々としていたところに家老の船蔵が立ち並び、大小の船が出入りし、賦役に従事する人達で賑わっていたと思われる。
(つづく)
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