「ふるさと平井」シリーズ№9を掲載

投稿日:2020年10月16日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 9 p.65-69)

          第3章 池田藩政下の平井

   6.教  育

近世前期の教育
教育県岡山の名声を高めたのは、名君、池田光政の文教政策によるものが大きい。寛永9年(1632)池田光政は鳥取から、岡山に転封になり、学問をもって治国の要道とした。光政の設置した教育施設は、政治的意図のもとに置かれたものだったが、幕末から明治維新における寺子屋や私塾の隆盛をもたらせた素地が、光政の文教政策の中で育まれていたのではなかろうか。

岡山藩学校

藩政下の平井地区の教育を振りかえるにあたって、まず、岡山城下はずれの上道郡花畠(現岡山市内)に初めて設置された教育施設から略記してみよう。
花畠教場と石山仮学館 花畠教場は、今の小橋と桜橋の中間東山中学校付近にあった。光政は寛永18年(1641)旧領主、池田忠雄(ただかつ)の建てた花畠の別邸を仮教場として、藩士の子弟に文武両芸の教育をした。そして生徒数が次第に増加して狭くなったため、寛文6年(1666)石山(今の内山下)にあった松平政種の旧邸を修理して石山仮学館を開設し花畠教場から生徒をここに移した。
岡山藩学校 寛文8年(1668)には更に生徒が増加し再び狭くなったので、泉仲愛・津田永忠両人を総奉行に任じて、現在の旭中学校の所に南北112間半東西61間半の広大な敷地に整然とした岡山藩学校を開設した。寛文9年(1669)7月、明石から熊沢蕃山を招いて開校式を挙行している。この年の生徒数小子(藩士の子弟)141人、小待者(農民の子弟から登用されて教師や吏員の使役をした者)48人の記録がある。この藩学校こそ全国藩学の先鞭であり、また藩学中最も著名なものである。
手習所 光政は藩学を盛大にしたばかりでなく、領内に手習所を設けて庶民の子弟にも教育を普及させようと企画した。寛文7年(1667)岡山城下町に1か所、翌8年(1668)には、領内各郡にも開設。寛文11年(1671)には、手習所数123か所、生徒数2358人に達した。(内女子29人1.3%)上道郡内には、17か所置かれ、平井村には、次のような記録がある。 

平井手習所 生徒15人 師匠1人 築山 次左衛門 読書・習字を学ばせる

.
各郡の手習所は、農政の末端を担うべき、村役人、上層農民の養成を目的としたもので支配に従順で耕作に勤める農民の創出をめざしたものであった。まさしく上からの領主による統制、教化がその意図するところであったが、津田永忠らの督励にもかかわらず財政的な理由と公儀に対する政治的理由で、延宝3年(1675)藩内の手習所を廃止して閑谷学校に併合した。
閑谷学校 藩学校と並び全国的に著名な岡山藩の庶民教育施設に閑谷学校がある。寛文10年(167O)和気郡木谷村(後閑谷村と改む)に仮校舎で開設され、庶民の教育場とした。施設が完成したのは元禄14年(17O1)である。その後時には盛衰があったが、明治維新まで教育の場として維持されてきたことは、光政の雄大な英知によるものである。
 (注)閑谷学校の原形は、寛文8年(1668)に設立された閑谷手習所である。
近世後期の教育
近世後期になると、庶民教育機関があいついで設立されるようになる。これは封建支配の円滑化のために、領民を教化しようとした意図と、庶民の生活上の必要に基づいた教育熱とが合致して盛んになった。
寺子屋 豪農層の出現と、商品経済の浸透による民衆の活性化により、読み書きを主とする学問の欲求が高まった。その欲求を受けて庶民の子弟に教育を施す寺子屋が各地に普及した。
岡山県はその数1031で、長野県・山口県に次いで全国第3位である。1つの寺子屋の人数は少ないものは10人前後から、多いものになると300人近いものがあるが、普通は30人から50人が多い。
平井地区にも寺子屋が開設されていた。概要次の通りである。

名 称 学 科 開 業 廃 業 教師 身分  生  徒 習字師
神習塾 習 字 天保8年 明治4年 男1 男98・女25 岩藤 義衛

                                            (調査・明治4年)
その他 近在では
・江崎村 慶応元年(1865)~明治5年(1872) 教師士族 渡辺 義雄
・沖元村 安政六年(1859)~明治5年(1872) 教師神官 松島 美雄理
・円山村 慶応元年(1865)~明治5年(1872) 教師農業 日下部 安三
などの寺子屋開業の記録がある。教場は師匠の自宅の一部をあてたところが多い。就学年令は8才か9才が多く、修学年限は1年から12年にわたっているが、最も多いのが3年であった。子供の入学を「寺入」といったが、定期的な学期があるわけではない。父母があらかじめ師匠の許可を得て、酒肴料と机や硯箱を持って行く。学習時間も寺子屋によって異なるが、多くは午前8時ごろから昼まで、あるいは午後2~3時頃までであった。教科は習字が主で、読書・算術を教えるところもあった。教授の方法は師匠自筆の手本を与え、運筆と読み方を教えては自習させる方法であった。躾は厳しく、しばしば体罰が課せられた。それにもかかわらず師弟の情はこまやかで、一家そろって師匠を敬い、寺子屋を巣立った後も生活上の相談に伺うなど長く関係が絶えなかった。
私塾 日常生活とかかわり深い読み書きなどの初等教育をした寺子屋に対して、漢学、国学、洋学などの教育をした私塾も近世後期に随所にできた。寺子屋よりも更に高級な民間教育機関であって、岡山県下の私塾は「日本教育史資料」によると、通計144か所で全国第1位である。郡別設立状況をみると岡山地区が群を抜いて多い。藩士子弟の教育が盛んだったからであろう。私塾の師匠はほとんどは武士で89名、61.8%であった。武士が多いのは、知識層であるからといえるが、生活が苦しい武士の余業としていた部分があったのではなかろうか。
寺子屋や私塾の設置により、封建的身分に関係なく学問・教育の場が与えられるようになったとはいえ、資力のない一般大衆は依然として文盲者にならざるを得なかったであろう。学制発布前の就学者を岡山県教育史から引用すると次の通りである。(明治5年の生徒数)
 岡山県の寺子屋生徒数  47,780名
     私塾生徒数   11,381名
当時の岡山県の人口が約100万人で、うち7才から20才までの人口は22万人余であった。それからみると、就学率は約2~3割とみることができ、全国的には岡山県は就学率が相当高かったのである。
平井村、湊村には私塾はなかったが、近くの藤崎村(現、三蟠)に提醒(ていせい)舎という私塾があり、塾主の中原環氏が漢学を中心に教えていた。生徒は、男子が55名で明治2年から明治4年まであった。また、岡山城下町には数多くの私塾が開かれていたので平井地区の人々はこうした近隣の私塾で教育を受けた人々が多数あったと思われる。

 (つづく)

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