旭川の思い出
投稿日:2025年12月20日
水泳やシジミや小魚採りを楽しんだあの頃
今から65年前、旭川の土手は道幅も狭くて舗装もしてなく、川の両岸にはのどかな風景がありました。
夏には川を渡る涼風が吹き、夕方近くになると須賀の元気な小学生たちが土手の上に集まり、川向こうで遊んでいる浜野の小学生たちに「浜野のハ〜マグリ~(はまぐり)」と数回呼びかけると「平井のヒッキンド~(ひきがえる)」と声が返ってきました。
終戦後、今の土手が出来るまでは、河川敷には多くの民家が建ち並び、川面は小さな防波堤に守られていたそうです。土手の新設工事に伴い私の祖先が住んでいた家は、東に30m近く家引き業者さんに引っ張ってもらい、土手沿いの現在の住所に移転しました。
1965年頃までは、河川敷に元の住宅があった人たちは河川敷を畑として利用し、季節の野菜や麦、陸稲、サトウキビ、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモを栽培していました。夏休みには子供たちは川で水泳やシジミや小魚採りを楽しんでいましたが、時々、浜野の元気な少年たちが川を泳いで渡ってきて、畑のスイカやマクワウリ、トマトを失敬して、上手に泳いで持ち去ったこともありました。
当時の旭川は、南備海運(現在は、両備グループ)の「白い客船」や児島半島を巡る小型の貨客船、岡山製紙に製紙原料を運ぶ木造の機帆船、十日市の魚市場に出入りする焼玉エンジンの漁船団などで、早朝から夜半まで船のエンジン音が響いていたそうです。
あの頃の須賀、土手、川東、北川、市場の冒険好きで泳ぎ上手な男子の少年たちは、旭川を往来する船の防げん材にさばり付き、デッキに乗船しては川に飛び込む「短い船旅?」をしていました。しかし、船の船頭さんや乗組員さんに竹竿で頭を叩かれたり、舵を切った船の船底に吸い込まれてケガをしたり、中には、スクリューに触れて亡くなった少年が出て、この危険な冒険に挑戦する少年たちはいなくなりました。
高度成長のさなかには、綺麗だった旭川の水も酷く汚染され、一時はシジミや魚類も姿が消えてしまいました。その後、川の汚染は解消に向かい、水質も随分改善されてシジミや魚類も戻って来ました。しかし、シジミはアカエイによる大量の捕食や人による乱獲で、現在絶滅状態になっています。
思えば、脳裏に映るあの頃の浜野や平井の元気な少年や子どもたちは、すでに74歳〜80歳を過ぎており、懐かしい風景と共に皆さんどうされているのか?と、気になる今日この頃です。(須賀町内会広報委員投稿)
カテゴリー:行事
平井学区連合町内会








