「ふるさと平井」シリーズ№41を掲載

投稿日:2022年2月15日

わたしたちの町「平井」の歴史や文化についてみなさんはどの程度ご存じでしょうか? 「灯台下暗し」で意外に知らない人が多いのではないでしょうか。

 その手引き書ともいえる名著がわが平井学区にはあります。

1994(平成6)年に平井学区コミュニティ協議会・平井郷土史編集委員会が編さんした「ふるさと平井」(A5判、315頁)です。

 この本をひもときながら、平井の地名や町内会名の由来から、教育・文化・産業の変遷など、古代から現在までの平井の歩みをみなさんと一緒に、勉強していきたいと思います。

(那須和夫平井学区連合町内会長)

 

   ふるさと平井の「 目次 (投稿日)」はこちら

平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 41 p.1-7)

       第1章ふるさと平井

   1.地区の変遷と範囲

平井地区のやや南寄り中央に建つビルの屋上から見渡すと、北に操山のなだらかな山並みが望まれ、西側を北西から南東へゆるやかな旭川の流れが河口に向かう。東から南にかけて干拓の歴史を物語る潮土手跡を境に新田が広がり、その遥(はる)か南に児島半島の美しい山々が眺められる。この旭川東岸に広がる平野と操山山麓の一部から成る面積およそ3㎢の地域が「ふるさと平井」である。
つい半世紀程前までは操山山麓と旭川河畔に数える程しか集落がなく緑なす田園が広がっていたこの大地も、今は県道岡山ー玉野線や国道バイパスなどの主要道をはじめ、大小の生活道に車は行き交(か)い、住宅や店舗、事業所などが建ち並び、その間に点々と耕地が残されている状況に変ってきた。そして建設の営みはまだまだ続いている。
平井や湊は何時頃できたのだろうか。この素朴な疑問に今までは深く考えたこともなかったが、この小誌の稿を起すに当り、改めて推考すると、一概には結論づけられない問題のように思える。簡単にその歴史を追ってみると、先ず地形的な面からは、操山南西麓の元上、湊地区は太古から、旭川流域の土手筋に当る地域は古代奈良朝のはじめ頃から、更に上記両者に挟まれた平野部は平安朝の末期から中世・近世のはじめにかけて姿を現したといえよう。次に歴史に登場する事象としては古墳や春湊などの伝説的な事柄は古代、中世に入って荘園や平井城、宗教・寺院に関することなどがあり、近世初期から平井村、湊村などが確認されてくる。何をもって平井や湊の誕生を規定するかによるが、現在の地形ができ、行政上も平井村・湊村として組み込まれていくのは中世後期から近世初期にかけてではなかろうか
以後、約400年余、厳しい藩政時代を経て明治維新後の近代日本への激動期を経過し、更に第2次大戦終結後、かつての閑静な農漁村は徐々に姿を変え、旭川東南地区の市街地として、また交通の要路として脚光を浴び、近代化への道を歩んでいる。
この「ふるさと平井」の小誌は、終戦までの長い時代については広く平井・湊およびその周辺地区を含め、戦後は主として平井小学校学区に限定して、歴史的な事柄や現代の様子などを記載する。

   2.風 土

「平井のよいところは何か」と問われて、迷わず風光明媚と答えたことがある。北東に操山、西に旭川、南に新田地帯を隔(へだ)てて児島湾を望むふるさと平井は自然に富み陽光に輝く明るい街である。南の風は潮の香を運び、操山・旭川堤の四季折りなす自然の変化は生活に潤いと安らぎを与えてくれる。僅(わづか)3㎢の小さな里ではあるが、場所によっては気象の違いも見られる。早春、川沿いの地区では川面を渡る冷たい北西の風が吹きすさぶ日にも、操山山麓の地域では、梅の蕾はふくらみ暖かい。河畔地区より山沿いの地域は春の訪れが早い。
気候は瀬戸内気候区に属し、1年を通じ比較的温暖で晴天の日が多い。地質は操山丘陵は花崗岩層、平野部は、中国山地の奥から旭川が運んできた砂質壌(じょう)土から成っている。
次に、地区内にある操山・旭川・用水などについて少し説明する。
操 山
この丘陵は、旭川下流東岸の平井元町を西端として北東に広がり、岡山市米田(百間川西岸)に至る東西約6km、幅は広いところで3kmたらずである。地質は全部花崗岩で風化も進んでいるが、松や雑木がよく茂っている。丘陵の最高峰は約170mの操山、ついで曹源寺(円山)北東の笠井山の約130mで、その西に同じような高さの峰がに2~3あるがあとの殆どは100mを越えない、なだらかな山並みである。

操  山

古くは瓶井(みかい)山といい、元禄年中(1688~1704)三櫂(みかい)と改められ、正徳4年(1714)みさおと読み変えている。また三棹山・櫂山と記したものもある。
この一連の山並みには、至る所に古墳や貝塚などの遺跡が見られ、また山麓には、多くの古刹(さつ)があり、岡山市街地に近い縁豊かな自然公園として歴史探訪などのハイキングコースが組まれて、市民の憩いの森として親しまれている。
平井地区の北の丘陵は、低い台地が連なり随所に湧水や池があり、古くは田畑や屋敷跡も見られたが、昨今住宅開発が進み、また、西部一帯には墓地が造成され、山並みの風景を変貌させている。神村山・神道(頭)山、赤土山などの呼称が古い文献にみられるが場所が特定できない。
旭 川
この川は、岡山県3大河川の1つ。県の中央部を南々東の方向に流れ、岡山市福島と三蟠の間で児島湾に注ぐ、延長約141㎞。

旭  川

水源は中国山地の真庭郡川上村上徳山といわれている。蒜山高原を東へ、下長田で南へ転じ中国山地を横断する流れは、湯原ダムの長大な人造湖をつくり、その下流では湯原・足(たる)・真賀(まが)などの温泉郷をぬって、勝山盆地まで深い渓谷や河谷平野を随所につくる。勝山では、毛無山から流れてきた新庄川の清流を合わせ、落合では備中川を加えて川幅を広げ、その下流で旭川ダムの曲折した人造湖となる。吉備高原の町、御津郡建部町福渡で誕生寺川を入れ、同郡御津町金川では宇甘(うかい)川を合流、南下して玉柏で岡山平野に出て、岡山市街地を貫流し河口に向かう。
この旭川には、治水・発電・灌漑・都市用水を目的とした湯原ダム・旭川ダムなどの多目的ダムが造られ、流域市町村の発展に重要な役割を果たして来た。

御野郡古図(岡山県通史より)

むかしの呼称 古い文献に「簸川(ひのかわ)、此(この)国 岡山府下を流るる川なり。大川とも西川とも御野川ともいひて今朝日川ともいふ。簸川は古名なり」(寸簸(きび)之塵(ちり))とあり、幕末に描かれた城下絵図には朝日川と記したものもある。このほか備前の国の西を流れる大川という意味で西大川と使われている記述もある。これらは下流での呼称であるが、上流の勝山あたりでは高田川といい、福渡では福渡川などそれぞれの土地でいろいろな呼び名が付けられている。しかし、旭川が固有名詞になったのは明治になって廃藩置県の後、教育制度の普及に伴って旭川に統一されたのではないかと言われている。
河口付近での流路の変遷 太古の時代、旭川の河口は半田山と竜のロ山間で海に注いでいた。その後だんだん南へ堆積が進み、主流は竜のロ山南麓の祇園から南東の方向へ流れ、雄町・長利を経て目黒あたりで児島湾に注いでいた。この河口を古くは「石間入江(いわまいりえ)」といい、今の操山の東端(岡山市米田)と芥子山西端(岡山市目黒)の間の付近であった。
また、この頃の流路は次第に埋没していき、主流は祇園から南西へ向きをかえ、河口正面の中州につきあたり相当量西南の方向に流れ、海へ注いでいたと思われる。
江戸時代の文献によると「簸川(旭川)の末はるかに西へ流れて海へ入る故に、むかし西川尻の藤戸とはいひよし。其の川もいつのごろよりや填(うめ)られて、新に網浜村・平井村の方へ川をほりて簸川の末、海近き方へながれけるべし」(寸簸之塵)とあり、「御野郡古図」が描かれている。これは、そのころ存在した地名をもとに描いた想像図で実体とかけ離れた感があるが、今の岡山市中心部の石山や天神山が島として海に浮かんでいた頃の旭川の河口付近の図として興味深い。なお網書きした部分は太古の海又は川で、その上の線及び文字は、明治時代の状況である。
その後流路はいろいろ変わったようであるが、その時代ははっきりしない。祇園あたりから南流し、中州の間をいくつかに分かれたりまとまったりしながら、操山北側(原尾島・沢田・国富) へ流れ、ここで南西へ向きを変え操山の西麓(門田・網浜)をまわって、平井元町付近で児島湾に注ぐようになる。今に残る「祇園用水」はこの当時の川筋と重なる所が多いので旭川の遺流という郷土史家もある。
この時代の西への流れは、北方辺りから西行して半田山山麓を流れ、笹が瀬川に合流する座主(ざす)川溝、北方の下(しも)、旧倉紡跡付近から中井の南へ出て、岡山市を貫流する西川(古地図で広田川)などが見られ、半田山の南に広がる広い沖積層の間をぬって旭川の支流が流れていたことが窺(うかが)われる。
近世になり宇喜多秀家は、岡山城の築城と城下町の繁栄のため、山陽道と旭川の付け替という大工事を行っている。当時、祇園から南下する主流を中島と竹田の間で東への流れを塞(ふさ)ぎ、竹田の西へ新しい流路を造った。そして南へ掘り進み、城の北側を東へ迂回させてから、今までの流路に合流させたと思われる。また、この流れに新しく京橋をかけて山陽道とした。
中世初期(約1000年程前)、下流では西岸の陸地化に伴い、桜橋の下で東南に向けて蛇行した本流は、さらに上流から押し出された土砂によって両岸に陸地を広げていった。東岸では西からの季節風と沿岸流により、平井地先といわれる砂嘴(さし 沿岸流によって運ばれた土砂が、河口の一方の端から海中に細長く堆積して堤状をなすもの)を形成し、西岸では七日市から浜野へかけて沖積平野(鹿田庄)を造ってきた。この頃の河口は、平井川崎から浜野辺り(旭川大橋付近)であったと思われる。
近世になりさらに下流両岸の干拓が進み、現在の河口に近い状況が造られてきたのである。
用 水
平井地区には、旭川に平行して北西から南東へ流れる祇園用水と、操山南麓を東西に流れる倉安川用水の2つがある。祇園用水は旭川から取水し、地蔵川とも、また下流では三蟠用水ともいわれ、平井地区全域の大切な灌漑用水である。また、倉安川は吉井川と旭川をつなぐ運河の役目と、倉田・沖新田を中心に灌漑用水として使われていたが、今は運河としての役割は終わり、灌漑用水と低湿地の排水という2つの役目をもっている。

(つづく)

月1〜2回のペースで掲載しています。

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