「ふるさと平井」シリーズ№38を掲載

投稿日:2022年1月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 38 p.278-286)

       第7章 ふるさとの祭り

   5.秋 祭 り

10月は秋祭りの月である。全国各地の神社を中心にさまざまな祭の行事が行われている。五穀の実る秋の祭りは、庶民の生産への祈りと感謝であり、新毅を神に捧げる神事が重要視され、その喜びを各地域独特の形式で表現し今に伝わっている。
ふるさと平井の氏神は、玉井宮と石高神社である。10月24、25の両日に行われる玉井宮のお祭りと10月3、4、5日の石高神社の祭祀(し)が毎年賑やかに行われている。日時は異なるがどちらも同じような行事が行われているのでまとめて紹介する。
行事
前日までに各町内の主要道出入口に笹竹を建て、しめ縄を張り、幟(のぼり)を立てだんじりの飾り付けをして準備をする。一昔前までは各町内の中心部に額をかけ、各家々の玄関に「献灯」と書いた提灯(ちょうちん)を吊るしていたが今は余り見掛けない。また各家庭では岡山ずし(祭りずし)や甘酒をつくってお祝いする。この岡山ずしは備前藩主池田光政の倹約精神から生れたものだというが、今は随分贅沢(ぜいたく)になっているようだ。それだけに美味しい。
さて、夜になると各家々の提灯に火が入り、モールや提灯で飾り立てられただんじりを子供達が引き太鼓や鐘をたたき、備前太鼓唄を歌いながら世話役の指示に従い町内を練り歩く。その後を町内の老若男女が提灯を手に続き、秋の夜を楽しんでいる。まさに郷愁を育てる故郷の秋である。獅子頭が先導するところもあれば子供みこしがかけ回る町内もある。ボリュームの大きなスピーカーで、祭り気分をあおり立てるところもある。
下平井の5町内では最近交通事情から、妙広寺西の道路に勢揃いし、一斉に旧土手道を流し歩いている。5つの町内のだんじりが競い合うようで誠に壮観である。こうして2日とも約1~2時間だんじりの競演がくり広げられたあと、各町内に引き上げ、参加者にはお祭りの菓子などが配られ秋祭りを終わる。本来なら氏神様へお参りして感謝と喜びを奉納するところであるが、地理的な関係で、昔から町内の行事として行っている。
なお備前太鼓唄の歌詞は次のようなもので、庶民的なリズムでいつ聞いても懐かしい。
 備前岡山西大寺町大火事に、今屋が火元で55軒、
   こうちゃえこちゃえ
 べっぴんさんに貰うた手拭を、川端の柳の小枝にちょいとかけて、
   こうちゃえこちゃえ
 なんぼ○○町が強いとて、弱いとて、
    ○○町の子供衆にゃ勝てりゃせぬ、こうちゃえこちゃえ
など。また最近では、世話役や子供達の都合で祭祀日の前の土・日曜日に実施している町内もある。
だんじりや獅子頭など
辞典によると『檀尻・楽車・山車』と書く。花車・段尻と書く人もいる。備前地方には昔から形式はさまざまであるが各地で見られる。恐らく池田藩が庶民の楽しみと融和のため奨励したのではなかろうか
岡山市にも昔は各町毎にあり、岡山神社や今村宮、玉井宮などの祭りには、その優劣を競い賑やかに練り歩いていたが、昭和20年の空襲で殆(ほとん)ど焼失した。現在新調したものも幾つかあるようである。

須賀町のだんじり

ふるさと平井では、山沿いの地区は空襲で焼けたものもあるが旭川沿いでは、比較的被害が少なく、昔からのものが残っている。先祖の残した貴重な文化財といえよう。台座の彫刻などの詳しい紹介は又の機会に譲るとして、その主なものを写真で紹介すると共に、最近新しい町内で作られた子供御輿(みこし)について書き留めておく。
須賀町内だんじり 上にかぶせる収納箱に慶応二丙寅(ひのえとら)年六月とある。すでに130年近く経過している。太鼓や櫓(やぐら)は何回か修理したが、台車や太鼓台の枠などは昔のままである。まさに時代物である。彫刻の龍や鳳凰(ほうおう)には昔からの眼が残っており現在を見つめている。
北川町内だんじりと獅子頭 だんじりは下平井他町内と同じように古いものである。特筆すべきことは、昭和21年4月14日、奥市グランドで行われた岡山市復興祭に土手・川東町のだんじりと共に参加したことである。四軒屋から東山へぬける凸凹(でこぼこ)の山道を越えるのに台車の車輪が磨滅して煙が出だし随分苦労したと往時を知る大谷耕一氏が語っている。また岡長平氏は「復興祭にだんじりが4台揃い、涙が出る程嬉しかった」と随想に書き残している。4台のうち3台が平井のだんじりということになる。
更に復興祭から4、5年後、このだんじりは岡山市の代表的なものとして後楽園前に展示し、市民や観光客を楽しませた。その時の説明に、
規  模 重量約380Kg(100貫)、長さ225cm、
     幅105cm、高さ206cm
製作年代 約150年前(詳細は不明)
とある。ふるさと平井の貴重な古い財産の1つといえよう。

獅子頭については現在2面保存されている。白塗りの面は昔から町内に伝わる古いものでもう1つの赤い獅子頭は最近入手したものだということである。

市場町内だんじり、土手町内だんじり 何れも須賀・北川のものと同じ頃作られたものと思われる。台車や台座の彫刻はそれぞれに異なった意匠をこらした立派なものであるが、大きさ、形態などは大体同じようである。
川東町内だんじりと獅子頭 以下は町内の坪田八百象氏が故吉岡三平氏から聞いた話として語ってくれたことである。
「昔、川東町内には雌雄2面の獅子頭があった。共に立派な変った面で雄獅子には大きな角が1本、雌には小さい角が2本あり、特に雄の獅子頭はいろいろな細工が施され見事であった。時代ははっきりしないが(恐らく明治の末頃か)岡山市中島の人がこの獅子頭を見て、是非雌獅子を譲って欲しいと懇願された。時の長老が相寄り相談した結果、当時だんじりが無かったので、では、中島のだんじりと交換しようということになり、話がまとまった。それが現在のだんじりである。雌の獅子頭はその後、花街のシンボルとして活躍したが、岡山空襲で焼失したらしい。」と、

このだんじりは少し小振りではあるが総欅(けやき)造りの堅牢なもので、太鼓台の掘物なども手の込んだ立派なものである。また、雄の獅子頭は町内の人々によって大切に保存され、今なお祭りの日には姿を見せ、祭祀の象徴としてだんじりの先導役を勤めている。この川東の獅子頭は近隣に希(まれ)な芸術品で、美作の作楽(さくら)神社を建てた棟梁で名人の評判の高い「坪井鹿之介」の力作といわれている。
この獅子に噛んでもらうと頭痛がなおり、頭がよくなるというので、玉井宮の祭りの日にはわざわざ岡山から平井まで子供を連れてくる人もあったという。
また、昭和3年の昭和天皇ご即位奉祝ご大典には、この川東のだんじりと獅子頭が参加、岡山市公会堂(現県庁舎のところ)に集合し、式後旧市内のだんじりと共に表町を練り歩き、稚児行列にも川東の往時の子供達が参列したという。
余談になるが、だんじりの太鼓を乗せている座布団は昭和40年祇園用水で幼児が溺れているのを町内の婦人が救助した際、東警察署から人命救助で表彰され、その際いただいた報奨金を元に町内有志の浄財を足して作ったものである。
平井上町だんじり、湊だんじり どちらも少し小さいが、古くからのものでしっかりした彫刻が施され立派なものである。上平井にはかって大小2台のだんじりがあった。大型のだんじりは川東町のだんじりと同じように昭和3年のご大典のとき、岡山市で行われた式典に参加し、当時の子供達も行列に加わったという。戦後この大型のだんじりは町内の都合で売却されたらしく、現在は小振りの1台が上平井全体のお祭りのシンボルとして興を添えている。

湊地区にも2台のだんじりがあったが、石高神社に属する地区のものは空襲で焼失したので戦後簡易なもので祭りを祝っている。残っている1台は玉井宮を氏神とする地区のもので、古くからの歴史を刻んでいる
その他町内のだんじり 中央町では昭和35年市内油町(清輝橋付近)から約50万円で購入、秋祭りには町内の人達が大勢出て引き廻している。
その他元町・四軒屋では、戦後、台車を作り太鼓を乗せて祭りには町内を流し歩いている。最近東町もお手製のだんじりを作ったようである。
すみれ町内の子供神輿(みこし) 写真の御神輿の屋根の部分の裏へ、次のようにその由来が書かれている。

すみれ町子供御輿

「平成3年9月、ジャスコ創立記念に際し、利益還元を目的に御輿キッド全国へ10基アンケート募集、応募により当選。平成4年1月授与をうける。柴田・松本・藤野出席。以来柴田・松本その他にて組立・塗装を行ない平成4年9月末完成をみる。」と。すみれ町内会は55年に発足した新しい町内で当時の役員の方々が町内の結束と融和のためみんなで楽しみ参加できる試(こころみ)を思考する中で、幸運にもこの御輿が生まれたようである。組立や補強・塗装などに約半年、関係者は随分苦労したようだが今では、この御輿を子供達がかついで町内を練り歩くことが秋祭りの楽しい行事として定着している。平成御輿縁起として紹介しておく。

   6.白 魚 祭

平井には、昔から全国でも珍しいお祭りがあった。郷土史家故吉岡三平氏は岡山歳時記(岡山文庫)に次のように書いている。
「旧正月25日に行われる『白魚祭』である。漁業には季節や潮の加減によって豊漁もあれば不漁もあるが、白魚は旧暦1月の25日前後が一番獲れない時期なのである。この時期、平井の漁師たちは、川岸のえびす様をお祭りして豊漁をお祈りし、その後で恵比須講など行い漁の中休みをした。これが白魚祭の始まりである。漁を休むので酒もいる。酒の肴(さかな)がいる。ましてえびす様の祭りをするのであるから『親戚知己』を呼んで、それまでに漁った白魚を使った料理をするようになった。
ふつう白魚祭というから、いろいろな生物(いきもの)の祭をするように、白魚の慰霊祭かと思っていたが、事実は前記のようなことから始まった祭りだから慰霊どころか反対に料理という料理は全部白魚を使う。白魚めしか白魚の寿司をこしらえ、煮物の上置きに白魚を煮たもの、小皿に白魚の酢のもの、味噌汁も白魚、すまし汁も白魚の卵とじという具合に白魚づくめである。だから、白魚不漁の時に祭りをするというのではなく、白魚の一番おいしい時に白魚祭りをするという人もいた。」
土地の古老の話では「戦前には白魚専門の漁師が2、30人程いて、えびす講は賑やかでした。おえべっさん(えびす様)は、須賀の川岸にあったが、改修工事(昭和12年頃)で取り壊されてそのままになった。」という。別に上平井の公会堂横に石造りの祠(ほこら)があり、えびす様が祭られている。
このようにおえべっさんの祭りが、白魚祭として、平井村の伝統的な祭となり昭和20年代後半まで続いたが、平井で白魚が獲れなくなった頃から、白魚祭りは行われなくなった。

(つづく)

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