「ふるさと平井」シリーズ№37を掲載

投稿日:2021年12月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 37 p.269-278)

       第7章 ふるさとの祭り

古来人々は生活の無事息災を願って、神仏や自然や祖先の霊に真剣な祈りをささげ、感謝の気持を素直に表してきた。その祈りや喜びがさまざまな形の祭行事として伝わっている。盆や彼岸の行事は祖先の霊に対する回向(えこう)の祭りであり、神や自然に対する季節的な祭りは五穀豊穣の祈りと感謝を表す行事である。そして、こうした行事は庶民の楽しみであり、郷土意識を育(はぐ)くむ大切な場でもあった。
ふるさと平井にも昔からいろいろな祭りが行われてきた。すでに姿を消したものもあるが、形は幾分簡素になっても今なお続けられているものも多い。この章では古くから伝わるお祭り行事について、その主なものを紹介する。

   1.湊のトーヤ(頭屋)

湊には古くから荒神様をお祭りするトーヤという行事が行われている。トーヤとは本来、祭祀行事を主宰し、または饗宴の宿となったり、その世話をする、所謂(いわゆる)講中の当番の家のことで当屋とも書く。昔から受け継がれているこのトーヤの仕事は格式と伝統のあるものだが、最近は随分合理化されて簡素になった。現在講中に伝わる祭祀に使用する器具の箱に、元禄とか文化という年号が書いてあることから察するとこの行事が始められたのは、今からおよそ300年余前、沖新田が完成し、山腹の荒神様を今の地へ遷宮した頃からではなかろうか。
オトーヤ仲間
昭和の始め頃までは、オトーヤ仲間という家が4、50軒あった。オトーヤ仲間とは、トーヤになることのできる家、即ち講仲間のことで、恐らく古くからこの地に住んでいた土地の者と考えられる。境内には、倉田の銘のある手洗い石などがあるので、古くは、倉田方面の者も含まれていたかもしれない。
さて、オトーヤ仲間でトーヤを受けることは、本人一生の名誉で、重大な儀式とされていた。それを受けた家をオトーヤといい、その人のことをホントウと呼んでいた。トーヤを受けると

 荒神社 村中安全
 明治十二歳 乙卯(きのとう) 九月吉日、祠掌岡久行謹書

と書かれた「御神号様」という掛軸(幅40cm長1.3mぐらい)を前のトーヤから受けとり床の間に祭る。他に洗い物をする桶2つと30人前ほどの膳・椀・皿の箱がトーヤ用として伝わっている
トーヤの行事
荒神様の祭とは別に行われていた。古くは旧暦9月28日を中心に1週間とか、後には5日間・3日間続けて行われていたが、今は新暦の10月28日、1日だけで済ませるようになった。
さて、戦前までの3日間にわたって行われたトーヤの行事は次のようである。世話方は、昨年、トーヤをした人、今年トーヤをする人(ホントウ)と来年の受取りに当っている3人である。従って、一度トーヤに当たると、3年世話をすることになる。
第1日(27日)は、米つきである。世話人が講中の家から玄米3升(以前は新米)ずつを集めて米をつく。講中の青壮年層が当番の家に集って庭先きに木臼を並べて杵(きね)で威勢よく米つきを始める。3日間に使用する分であるからかなりの量がある。そのあと、赤飯(おこわ)を作って当番の家に配り、手伝いに来てもらうように頼む。
第2日(28日)が、トーヤ祭で、地域の手伝いの人や、当番の家の人で、ご馳走の準備をする。昼を過ぎると、講中(オトーヤ仲間)の者(家の代表1人)が揃って荒神社へ参詣して、石高神社の宮司が祝詞(のりと)をあげる。この後、翌年の当番(受取り)へ、ご神号の掛軸の授受が行われる。神事が終わると「ホントウ」の家へ引きあげて、盛大な宴(うたげ)が行われる。ひとしきり宴が終わると、こんどは、「受取り」の家へ行って、再び同様な宴が催される。夜が更けて、お客が引きあげてから、ホントウで働いた人たちが揃って「受取り」の家へ行って、また賑やかに宴が開かれる。
その夜「ホントウ」から「受取り」へトーヤ移りのとき「きつねでこん、こん」といいながら、手伝い人大勢がついて移る行事があったらしい。
第3日(29日)は、「客呼び」といって祝ってくれた人や親類、手伝いをしてもらった人たちを招いてお礼の宴が行われる。
また、この3日間は村内の者はもとより、近隣の者でも「オトーヤおめでとう」と慶(およろこ)びをいうと、ご神酒がいただけ、また下戸や女子供には、甘酒がふるまわれた。大釜に甘酒を沸かしておいて飲み放題にしていた。他村の通りがかりの者も立ち寄って飲んだから、1斗樽10丁も甘酒を作ったという。
湊のトーヤは、荒神様を祭る行事として戦後も1年として断絶することなくともかく今日まで、毎年秋に行われている。近年は荒神社で神事があり、その後ホントウの家で宴会をする時期もあった
平成5年現在、オトーヤ仲間も10数軒と、大へん少なくなったが、10月28日の夕方から荒神様の拝殿で行われた。参加は、12~3人で拝殿の正面に御神号の掛軸がかけられ、石高神社の高原宮司によって神事が行われた。皆で、祝詞を奏上して、町内安全と五穀豊穣を祈願し、その後会食の宴を持ちその場でご神号の授受が行われた。

   2.奥聖寺再興会(さいこうえ)

日蓮宗不受不施派の受難の歴史と宗派再興については、すでに第3章で述べたが300年余に及ぶ迫害にもめげず、法灯を守り通し、明治を迎え、釈日正聖人を中心とした僧俗一丸となっての請願が実り、信仰の自由をかち得た喜びは、例えようのない無上の法悦であったと思われる。明治9年(1876)4月12日、白日の下での布教が許され、その感激を同聖人は次のように詠(えい)じている。
 明治九年春四月  明治九年の春四月
 百紅千紫放香時  紅や紫の花々が香を放つ時
 東君似解主人意  太陽が主人(自分)の気持を理解しているように
 蝶舞鶯歌慰所思  蝶が舞い鶯(うぐいす)がさえずりさまざまな思いを慰めてくれる。

不受不施派各寺院では、この日を記念して殉教の先師先人の苦難を偲(しの)び、再興会の儀式を毎年盛大に行っている。奥聖寺住職代務の一樹院日行上人は再興会の意義を同派の広報紙上で次のように述べておられる。
蝶が舞い驚がさえずりさまざまな思いを慰めてくれる。
 「再興会は、『信仰の自由』をかち得た記念すべき日であると同時に、不受不施派の歴史の意味を考える日でもある」と。
今年(平成6年)は早くも119回目を迎える。祖山妙覚寺(御津郡金川)では毎年4月10日から3日間、県内外の多数の信徒により、盛大に行われ、平井地区からも代表が参加している。
奥聖寺においても、毎年4月8日、平井地区をはじめ近隣の信者が相集い厳粛な中にも楽しい再興会を奉納している。参加者による行法の後、僧侶の法話に耳を傾け、法華経の御教えと先人の遺徳に思いを馳(は)せ、続いて、信徒による演芸、余興が行われ共に再興の喜びを分かち合っている。なお、余興については昭和のはじめ頃までは、大掛りな芝居なども奉納されていたようであるが、最近では、有志による歌や舞踊などで、幾分簡素になっている。また、信徒による手芸品や生け花などで会場を飾り、賑やかな一日を楽しんでいる。

   3.妙楽寺清正公(せいしょうこう)祭

すでに信仰の章で述べたように上平井妙楽寺には古くから加藤清正公のご尊像が祭られている。清正公は日蓮宗の熱心な信者であり、熊本にある加藤家の菩提寺本妙寺には、清正公の淨池廟(びょう)がある。余談になるが本妙寺は、清正公肥後への移封の際、大阪から熊本城内に移し、更に2代忠広によって建立された菩提寺で九州一円における日蓮宗の代表的な古利である。

境 内 風 景

清正公は、豊臣秀吉子飼いの武将の1人で、性、豪胆にして勇猛、信義に厚く、秀吉の天下統一の戦いや、朝鮮の役で数々の武功をたてている。常に「南無妙法蓮華経」の幟(のぼり)の下に戦場をかけ巡り、己を滅して活躍した勇者で、日蓮聖人の再来を彷彿(ほうふつ)とさせるような武将であったという。
この清正公の遺徳を偲び、ご尊像をお祭りしている日蓮宗のお寺が西日本には各所にある。岡山市では前掲番町の瑞雲寺と平井の妙楽寺である。瑞雲寺は小早川家の寺である。妙楽寺に祭られる経緯については不明であるが、一つの想像を述べると第2章の平井氏の項で書いた平井城主右兵衛尉家兼の子孫がお家再興を願って当寺へ入山したことが事実であるとすれば清正公の遺徳にあやかるよう、ご尊像をお祭りしたとも察せられる。
毎年春4月と夏7月の23日に清正公祭を行っている。特に夏祭りは昔から賑やかに続けられている。本堂に鎮座する木造のご尊像の厨子(ずし)が開帳され、その前で、住職をはじめ檀信徒の方々でお経をあげ、更に清正公賛歌をおごそかに唱和し、高祖日蓮聖人のご高徳と清正公の誠実な人柄を偲び、敬虔(けん)なお祈りを捧げている。

清正(せいしょう)公御賛歌(各節の後に南無妙法蓮華経を唄える)
(1) 遥々(はるばる)と 迎えし肥後の清正公
    幾世の後まで 鎮座まします
(2) 尋ぬれば 元は久成(くじょう)の佛にて
    御法(みのり)の為に 盡(つ)きぬ功績
(3) 御頭(みつむり)に 戴き給う御兜(みかぶと)は
    信心込めし 法華経の文(もん)
(4) 御旗には 首題の七字(しちぢ)を表わして
    外国(とっくに)までも法(のり)の光を

また、境内では清正公祭の幟(のぼり)の下で、檀家世話人により金魚すくいやかき氷の店が開かれ、子供達の絵や書が奉納されて、浴衣姿も入り交った子供達が祖父母や両親に連れられ、夜の更けるまでお祭りを楽しんでいる。つい終戦の頃までは、境内の外の用水沿いに子供達の額が並べられ、屋台が立ち並び、近郷近在の人々がお参りに訪れていたが、今では少し規模が縮小されている。
世の中が変り、価値感が多様化し、このような古い行事が失われてゆく中で、檀信徒の努力により、今なお続けられていることは、誠に妙法のお蔭といえよう。

   4.日蓮宗お会(え)式(お講)

毎年11月12日、13日、妙広寺・妙楽寺ではお会式と呼ばれる行事が行われている。本堂の内外をしだれ桜の造花で華やかに飾り、5色に色付けした花餅をはじめ、数々のお供え物が、日蓮聖人御尊像の前に並び、近在・近隣の信徒がお参りする。逮夜(たいや 12日夜)には檀家の方々が本堂を埋め、お経をあげ、その後住職の説法を聞き、翌13日には近くの日蓮宗寺院の信者が相互に寺々を巡り日蓮聖人の遺徳を偲んでいる。妙広寺・妙楽寺でも檀家の人達はお互いにお参りしたり、また妹尾や浜野の日蓮宗信者が巡拝団をつくり、バスで寺々を巡って訪れるなど、今なお盛大に行われている。
お会(え)式とは日蓮聖人の忌日の法会、即ち報恩会(え)の法要のことである。日蓮聖人は弘安5年(1282)10月13日、東京池上の地で入滅(ご逝去)されたので、この日を中心に全国各地の日蓮宗寺院で毎年法要が営まれる。この10月13日は旧暦のことなので、現在では1か月遅れの11月に行われるところが多い。入滅の地である池上本門寺のお会式は、特に賑やかで逮夜の12日夜は数10本の万灯行列と共に数10万人の参詣者で境内を埋めつくし、終夜団扇(うちわ)太鼓の音が絶えないという。元禄の頃には江戸を代表する盛大な行事であった。

このお会式には必ず桜の造花が飾られ、5色に彩った花餅を供え、寺内や仏壇をきらびやかに輝やかしてお祭りする。桜の造花の由来ははっきりしないが、聖人入滅の際、季節はずれの桜が開花したという伝承かららしい。また花餅のもとは、こまくら餅(小枕餅)といい、細長い半円筒形をしていたらしく、その形が枕の形に似ていることから出た言葉だという。現在は半円筒の祭器に5色の花餅をつけてお供えしている。花餅はつきたての餅を板の上でうすくのばし、少し固まったころ2寸(6cm)角ぐらいに切り、それを色々な型に切ったり曲(ま)げたりして、三階松や藤の花・蝶・桜などの形を作り赤・黄・青などの食用染料で染めて作る。また、丸餅にも色付けしてお供えする。
お会式のことをお講ともいう。中世には大会(だいえ)・御影講(みえいこう)・御命講(おめいこう)などとも言われていた。これは日蓮聖人の御影(肖像)の前で行う講会という意味で、経典の読誦より説法に重点があったから、このような呼び方がつけられたらしい。
妙広寺においても数年前までは、境内に子供達の絵や字を張った額が並び夜台なども出店して、ローソクやはだか電灯が明るく照らし、賑やかにお祭りしていたが、現在は簡略になって、報恩の額が本堂正面に掲げられている程度である。また、昔は檀家の各家でも、このお会式の日には、床間に「おまんだら」を掛け、祖師像を祭り、花餅を作ってお供えし、親類・縁者を招いて法会を行なっていたが、今はあまり聞かない。

(つづく)

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