「ふるさと平井」シリーズ№36を掲載
投稿日:2021年12月1日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 36 p.261-268)
第6章 信 仰
大日地蔵大権言(通称、汗かき地蔵さん)
湊のほぼ中央、倉安川から北へ50mほど入った山の麓にある。「汗かきて願い叶(かな)え地蔵尊、助けたまえよ後の世までも」とうたわれて、地域の人々に敬愛されている「汗かき地蔵さん」である。
このお地蔵さんは、いつごろからここに住まわれたか不明であるが、古くは饒山 (じょうのやま 湊の山腹)にあったものを、現在の場所に移したものだという。その跡地は、今でも「地蔵の元」と呼ばれている。小屋の正面には頭身大の花崗岩の碑が2基並んでいる。左側は自然石の表面を削って笏(しゃく)を斜めに持たれた「お地蔵さん」が浮彫りされた見事な作であるが、彫刻者はわからない。「享保2年(1717)丁酉(ひのととり)十一月二十四日当所念仏講中」と刻まれているから、 約270年程前に再刻されたものであろう。右側の碑はずっと時代が新しく、天保5年(1834)午(うま)年「奉為弘法大師一千蔵御忌供養塔」と刻された4角柱で地蔵堂に合祀(し)されたようである。8月23日と30日に夏祭りが行われている。
このお地蔵さんが有名になったのは「汗かき地蔵」という呼び方である。願いごとを熱心に祈っていると「その願い叶えてやるぞよ」とのお声が聞こえ、お顔のあたりが汗でビッショリ濡(ぬ)れるという奇跡が起こるといわれている。
言い伝えによると「昔々、孝行息子が母の病気の願をかけて、3・7・21日おこもりをしたところ、満願の朝、どこからともなく『お前の孝心にめでて母の病を治してあげよう。先程から、その修法を行っていたので汗をかいてしまった。ぬぐうてくだされや』とやさしい声が聞こえる。息子はおそるおそる頭を持ち上げてみると、地蔵尊の全身が汗でびっしょりと濡れていた。早速きれいに拭きとってあげてから家にとんで帰ると、戸ロに母がにっこり笑って出迎えていた。それ以後これを伝え聞いた善男善女が願いごとをすると、お聞き届け下さった折には、いつも汗をおかきになるようになられた」ということである。
昭和20年(1945)6月29日の大空襲で御堂は焼け、しばらくは雨ざらしであったが、昭和27年(1952)地元の篤志家により再建基金の托鉢が行われ、現在の御堂が再建された。
今も、いろいろな願いをこめて、お参りする人が多い。お地蔵さんは年に3回ほど、額に汗をかかれるという。それを身体の悪い所にぬれば病気が治るといわれている。また線香の灰をつけると、イボがよくとれるともいわれている。
昔から地蔵の十徳とは1、女人泰産 2、身根具足 3、除衆病疾 4、寿命長遠 5、聴明智慧 6、財宝盈溢(えいいつ) 7、衆人愛敬 8、穀米成熟 9、神明加護 10、証大菩提(広辞苑)で福徳が授かるといわれて、宗派を越えての信者が多い。
六地蔵
四軒屋から門田へ越える市道の登り坂左側の墓石群の中に道に面して6体のお地蔵さんが並んでいる。また、東湊大池の西、墓地の中ほどに同じく道に面して石の門柱があり、その上段に六地蔵と題目石がある。これら六地蔵のある場所はかつて土葬が行われていた時代、死者と最後の別れをする大切なところであった。
死者がでると、講中などで葬儀を行い、近隣の者に見送られ、若者に担がれて出棺する。墓地に着くと六地蔵前に棺を置き、僧が経をあげ、参列者が線香を手向けて最後のお別れをし、各戸の墓所へ埋葬した。現在の火葬場における祭壇に相当する場所が六地蔵の前と言えよう
わが国では平安末期頃から地蔵信仰が高まり、地蔵菩薩が地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に現れて、苦しむ衆生を救うことから六体の地蔵が作られ祭られるようになった。墓地の入口に立ち、死後の救済者、墓地の墓守り役として信仰されている。
足神さま(才の神)
上平井の旧堤防沿いの三叉(さ)路に題目石と地神さまがある。この題目石の側の小さな瓦(かわら)社が「足神さま」と呼ばれる「才の神」である。かつて足と咳(せき)の神として信仰されていた。願立てのときぞうりやわらじの片足を持参し、大願成就の暁にはあとの片足をお礼に奉納する。また、昔の街道にあった関所の関が咳に転じて”かぜ”の神としても信仰されていたという
この足神さまについては昭和13年発行の郷土史学に児島重三氏が「岡山県下の才の神」と題して、その冒頭に次のように書いている。「明治のころまでは平井の上の村はずれにあったが、ある夜光(みっ)っあんという人が、岡山からの帰途、すてきな美人に出会い、その美人が崩れるような愛きょうで近寄ってくるのに肝をつぶして逃げ帰ったところ、その夜から大熱に冒されて床についてしまった。医者や薬といろいろ手を尽くしてみたが一向に効き目がないので、祈とうをしてもらってみると、先夜出会った美人は『才の神』で、茅(あし)の茂みのなかで淋しいから、どこか他所へ祭ってもらいたいとの事であった。早速現在の所へ祭り代えたところ、光っあんの病気も忘れたように直った」と言い伝えられている。
塞(才)の神は、辞典では、さえの神と同じで「障の神・塞の神・道祖神」とあり邪霊の侵入を防ぐ神、道行く人を災難から守る神とある。塞はふさぐという意味もあり、日本各地に見られる道祖神と同じように、集落の入口付近の道ばたに小さな祠(ほこら)で祭られているものが多い。
えびすさま(通称おえべっさま)
上平井の公会堂横の道路沿いに、地水神と並んで石造りの祠がある。土地の人の語り伝えによると、えびすさまが祭られているという。下平井の須賀にもえびすさまが祭られていた祠があったが、河川改修で取り壊され今はない。夷(えびす)さまは漁業の代表神であり、漁民の守護神として信仰が篤(あつ)い。すでに藩政下の漁業の項で述べたように、平井村は児島湾に近い漁村であったので、この土地にえびす信仰があったものと思われる。瀬戸内海地方では広く信仰され、豊漁をもたらす神として大切にされてきたという。
「えびすさま」と呼ぶよりは「えべっさま」と訛(なま)って言う方が、釣竿を肩に鯛を小脇にかかえたにこやかな「福ノ神」らしくてむしろ親しみやすい。
中世以降に七福神の一人へ奉りあげられてからは、都会地の商業・市場神となり漁村から全国の大衆層へ浸透して行った。
小さな祠
三神社 下平井の南より須賀町内の堤防内にあり、古くから地域の守り神として祭られていた。この祠は河川改修の前、昭和初期までは現在地よりやや南西よりの堤防の外にあって、低い石垣が回りを囲み、松や雑木がこんもりと繁った鎮守の森の中にあった。
三神社とは、岡山市内の住吉宮、今村宮、玉井宮の3社のことで、春と秋の2回、地域の安全のために祈禱(きとう)が行われている。
三要大明王 平井の妙広寺南門から入った右側に赤い鳥居があり、その奥に小さな祠がある。この祠はいつから此処に祭られていたかわからないが、この社については、次のような話が残されている。
「むかし下平井の市場に住む娘さんが、ふとしたことから変な病気にかかり、寝こんでしまった。薬を飲んでも、お医者さんに診(み)てもらっても病状がよくならない。そこで祈禱師にたのんで拝んでもらったところ『どうも狐にとりつかれているようだ』とのお告げがあった。家の人は早速近所の人と相談して、お稲荷さんを祭ることにした。そして、小さな祠に三要大明王と名づけた。こうしてみんなで拝むようになったので、娘さんの病気はすっかり治ったということである。」
徳善さま(稲荷さま) 川東町内に祭られているお稲荷さまのことである。明治の中頃町内に頻々と火災(小火 ぼや)が発生したり、伝染病が流行するなど災難の続く時期があった。何とかしなければということになり町内の主だった者が話し合って、厄除(やくよ)けに高松の最上稲荷を勧請(じょう)してお祭りすることになった。以後火災もなくなり疫病の流行も治まったという
毎年正月初午(うま)の日と9月13日に町内でお祭りしている。
(つづく)
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