「ふるさと平井」シリーズ№35を掲載

投稿日:2021年11月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 35 p.253-261)

       第6章 信   仰

   2.民 間 信 仰

平井地区では、操山丘陵に古代ロマンを秘めた古墳群があり、いくつかの文化財や文化遺産は、見られるものの、その数は比較的少なく、まして、南麓に広がる平野部では、古い史跡はほとんど無く、文化遺産もあまり見られない。
しかし、この土地に住む人々の、心の支えである信仰の対象としての石碑や祠(ほこら)を見ることができる。これは、宗派宗門を越えて天の恵みに感謝する素朴な信仰の表れであって、今の私たちの暮らしの中にも、このような慣習がいろいろな形で残されている。
地神さま
地神さまは、それぞれの土地の農業の神様として、集落単位であぜ道や道路わき・神社の境内などに建てられている。場所によっては題目石や、水神さまなどと同じ場所に祭られていて、礎石も大小いろいろである。建てられた年代は、江戸時代後期から、明治の初期までといわれ、幕末の凶作や、疫病の発生が直接の原因と考えられる。当時は石碑を建てることが流行したようだが、詳しいことはわからない。

地 神 碑

岡山県の地神さまには、2つのタイプがあり、県中北部に多いのが丸い形の自然石に大きく「地神」と彫りこんだもので、高さは数10cmから1m前後のものである。県南部のタイプは高さ数10cmの5角柱の石柱が多く、5面には農業に関係のある次の神々の名が刻んであり、地区内のものはほとんどこのタイプのものである。
天照大神(あまてらすおおみかみ 天下を治める神、日の神で物を支配する神)
おおくにぬしのみこと
大己貴命(おおなむちのみこと 大国主命“おおくにぬしのみこと”の別名、少彦名命“すくなひこなのみこと”と協力して天下を経営し、医療などの道を教え人民を守る神)
少彦名命(すくなひこなのみこと 医療、まじないを司る神)
はにやトSSSみこと
埴安媛命(はにやすひめのみこと 土を司る神)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと 五穀を司る神、食物殊に稲を司る神)
このように地神さまは農民の生活に最も身近な諸事を司(つかさど)る神々であり、昔から五穀(米・麦・粟・きび・豆)豊穣を願って大切にしてきた農業の神様である。
この地神さまは集落の人たちの講組織で祭られ、春と秋の社日(春分・秋分の日に近い戊“つちのえ”の日)に地神講(社日講)が行われていた。
「春と秋の社日には、地神さまにしめなわをはり、米や豆、ご神酒を供えて豊作を祈ったり、収穫を感謝して祈禱(きとう)をしてもらい、そのあと当番の家で宴会を開いた。そしてこの日は農作業を休むしきたりになっていた。」という。
社日には、「田畑に入るな」「くわを使ってはならない」とか「土地を耕すと地神さまの怒りにふれる」などといわれていた。また、この日は春の種播(ま)き、秋は稲刈りなど農業の目安になる大事な日でもあった。
水神さま
水神さまも地神さまと同じように各集落の用水沿いや、堤防の樋門の側などに小さな祠(ほこら)で、祭られていた。上平井では「妙地水二神」「妙地水両神」と刻まれた5角柱の石柱が見られるが、これは特殊な形である。
また、各家々では上水道ができるまでは、飲み水はすべて用水か井戸水を使っていたので、井戸端や水汲(く)みの石段の側にも、黒い小さな素焼きの瓦でできた祠(瓦社)を祭っていた。しめなわをはって内部に清めの塩やお米を供えられる簡素なものである。今も井戸端にこの瓦社が祭られている所もあり、往時がしのばれる。祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)といって、流水の分配をつかさどる神である。俗に水分(みなわり)の神といって水を配り、水を施し、水を与える功徳を持った神様で、伊装諾命(いざなぎのみこと)の孫にあたるとされている。
ある古老の話では「北川地内を流れる祇園用水の岸辺に祭られていた瓦社の所で、ござを敷いて拝んでいた。七月ごろだったようだ。」
日本人は農耕民族だから水神信仰は古くから多く見られ、雨乞(ご)い等の行事も行われ、特に灌漑(かんがい)用水を司(つかさど)る神としての信仰は深い。また、水稲の豊作をもたらすといわれるから、田の神とのつながりも深い。平井地区の田でも水の取り入れロや苗代田などで、水神様のお守り札を挟んだ短かい竹の棒にしめなわをさげたものをよく見かけた。
水道のない時代の人々は「川には神さまがいなさる。」といって、子どもを水難から守る、疫病を防ぐなど、生活と水とのかかわりは深く、とても身近にあった神さまである。
こうした水への信仰や感謝の念も時代とともにだんだん忘れられてきているのは寂しいことである。
牛頭天王(ごずてんのう 祇園信仰)
平井地区には、自然石に牛頭天王と刻まれた碑が3基ある。下平井土手町、旧県道沿いに地神さまと同じ場所にあり、もう1基は須賀町内で旧県道沿いの家並みの間にあり「南無牛頭天王」と刻まれている。またもう1つは、四軒屋から峠道の登りロの西側に建っている。(元は倉安川の道路脇にあった。)

牛 頭 天 王

この牛頭天王はもともと天竺(てんじく インド)のお釈迦さまが法を説いた祇園精舎の守護神である。奈良時代天平5年(733)に吉備真備(きびのまきび)が唐の留学から帰朝し、神託によって、播磨(兵庫県)の広峰神社に初めて、牛頭天王を祭ったとある。その後平安初期の貞観18年(876)京都の八坂神社に勧請(じょう)されてから、牛頭天王は日本神話の素戔嗚尊(すさのおのみこと)にあてられ、この荒神が全国にある祇園社・天王社系の祭神とされるようになった。
古い信仰では、恐ろしい疫病の流行・風水害などの天災が起こるのは、非業の死をとげた人々の怨霊のたたりと考えられた。この怨霊を封じこめるには、さらに強い個性をもつ神として、牛頭天王のような神を当てる必要があった。このようなことから祇園信仰とは、牛頭天王、または素戔嗚尊に対する信仰をいい、この神は、たけだけしい強い神であるため、疫病退散に霊験あらたかとされ、農村では作物の病虫害も悪霊のしわざと考えられて、牛頭天王にすがるしか方法がなかった。
この碑の建てられた年代ははっきりしないが、かなり古いものと思える。牛頭の文字が刻まれていることから牛神さまと混同され、「牛馬の安全と農作業が順調に進むように願って、春秋、碑の前にござを敷き講中の世話でご祈禱(きとう)が行われ、後でお菓子など参列者に配られていた」という。しかし、さきにも書いたように、この祭神は、怨霊を払い、災害から地域を守り、疫病を防ぐなど、あらゆる不幸から村人を守ってくださる強い神として信仰されていた。
木野山神社

木野山神社

西湊と東湊との境近く、県道より少し北に入った用水路の側にある瓦ぶきの小さな社が木野山神社である。この社は、コレラを防ぐ神として勧請したものである。明治12年県内各地でコレラが大流行、県下全域に広がり患者が9000人をこえ、死者およそ5000人を出す大流行となった。湊の西新田地区でもコレラが発生して10数名の死者が出た。そのころ、祈禱やまじないにたよる以外に方法はなく、「コレラに強い木野山さま」の噂(うわさ)とともに、高梁市郊外の木野山神社への信仰が集まった
そのわけは同神社の末社にタカオカミの神、クラオカミの神を祭っていたが、このオカミの呼称がオオカミ(狼)となまり狼は木野山さまの使者として恐れられるようになった。コレラは漢字で虎烈刺と書く。「虎」より強い「狼」を祭る木野山神社をお招きすれば、コレラを防ぐことができると信じたわけである。
医学的な知識もなく、予防の方法もわからず、薬もなかったころの人々の切なる願いを感じることができる。
題目石
備前地方では古くから道路脇に「南無妙法蓮華経」とか「大覚大僧正」と刻んだ石碑が建っているのを見かける。すでに述べたように中世以降この地方には日蓮宗が広まり、信者はお題目の「南無妙法蓮華経」を紙に書いて本尊にしたり、石に彫って題目石として村々の辻に建ててお祭りするようになった。大覚大僧正とは日蓮聖人の孫弟子で、備前地方に日蓮宗を布教した最初の人である。
以下にふるさと平井に残されている題目石について紹介する。なお、妙広寺・妙楽寺境内にあるものについてはすでに書いたので、下平井土手地内から移したものを除いて他は割愛する。

西湊の題目石 倉安川に架(か)かる米山橋近くの山側に、寛政8年(1796)と年代の入った大きな石柱の題目石と、小さな自然石に「大覚大僧正」貞治3年(1364)と刻まれた石碑が並んで建っている。ここは湊地区の西の入り口に当たり、妙広寺の祭礼の日には幟(のぼり)を立ててお参りしている。
東湊の題目石 大池西の山側の墓地の一角に、道に面して文政3年(1820)に立てられた題目石と六地蔵がある。今は無縁墓などが置かれているが、石の門柱が2本入り口に残されており、往時は題目石・地蔵さんの祭られた聖域だったことが偲(しの)ばれる。前の道は池田藩時代東山峠を越える牛窓往来で、大池茶屋が付近にあった場所と思われる。
上平井の題目石 大覚大僧正と一対で祭られている題目石が2か所ある。1基は旧堤防沿いの妙楽寺参道入口にあり、寛政8年(1796)と刻んである。もう1基は旧堤防の三叉路、大きな樹の下に明治39年(1904)に建立されている。この題目石は平井堤防沿い集落の上の入口に当たり、明治時代に流行した疫病や災難を防ぐ願いを込めて建てられたものと思われる。
最も古い題目石 妙広寺境内、山門南側の中央の題目石で側面に享保10年(1726)と彫ってある。この左右の五輪の塔と、北向きの題目石を含めて、この一連の石碑は、かつては下平井土手町内の旧県道沿いにあったもので”ほうとうさま”として祭られていたものだそうだ。
元町の山裾にある題目石 次のような話が語り伝えられている。「昔、村人が三櫂(みさお)山へ薪(たきぎ)を取りに行ったところ、奥市の辺りの谷川に石橋として題目石が架けてあった。それを見つけた人々は村に帰って『もったいないことだ』とみんなに話したところ『村に持ち帰って祭ろうではないか』ということになり、みんなで運んで帰り、現在地に祭った」という。この題目石には年号が彫られてないので、いつごろのものかわからない。また道路沿いにないのも後でこの場所に祭られたためであろう。

元町の題目石

下平井八反地の題目石 旭川大橋北の船着場の東、新堤防外にあり、これについては、次のような話がある。
「八反地上手の川岸は、石垣が高く、岸からすぐ深みになっていて流れの が急であった。明治の中ごろまで、この辺りで身投げをする人が多かった。やがてこの場所近くへセメント会社(明治24年創業)ができたが、自殺者が絶えなかった。そこで地元の人たちや会社の人が話しあって、明治45年に『南無妙法蓮華経 溺死者各霊』と彫った題目石を川岸近くに建立した。ところが昭和の初めセメント会社が倒産して工場用地が荒れたことや、河川改修のため、この題目石は倒されたまま数年放置され、川原の石の間に転がっていた。新堤防が完成してから後、土手町内に住む奇特な人が見つけて何とかしなければと考え、堤防外の現在地へ移転した」ということである。
この他に旭川の堤防、平井バス停のところに昭和34年に建てられたものが1基ある。これは旭川での水難事故者の霊を慰めるために建てられたものであろう。
このように題目石は、主要な街道の入口や災難の多い場所に建てられている。恐らく伝染病や災害の進入を防ぐ意味の庶民の願いと思われる。そして今日なお季節季節には花が手(た)向けられ線香の煙が絶えない。古い時代から現代まで、幸を求める人々の信仰の深さが偲ばれる。

(つづく)

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