「ふるさと平井」シリーズ№34を掲載

投稿日:2021年11月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 34 p.245-253)

       第6章 信   仰

平井山妙広寺
開山から16世紀末頃までは「妙広寺縁起」として中世の項で書いたので、ここでは池田藩政下以降の主な事象や現代の様子などについて述べる。古いことについてはすべて前掲当山39世都守泰一上人の「妙広寺六百年史」を参考とする。
諸堂の再建・修理 当山39世都守泰一上人が、諸堂の再建・修理の時期について、過去帳や諸像の台座の記録、標札などから推考されている。それによると現代の諸堂が再興されたのは江戸時代中期、即ち1700年代の半ばということになる。享保6年(1721)第22世日現上人により本堂が再建され、以後、鐘楼門建立享保16年(1731・450遠忌)、庫裡(くり)・客殿新築 宝暦2年(1752)、大玄関完成 宝暦3年(1753)となっている。実に250年以上の歴史を持つ古い建造物で、その後、檀家(だんか)や有志の浄財により度々修理・改築がなされ現在至っている。最近の改修は檀家を中心に1億円余の寄付を仰ぎ、本堂・客殿・庫裡の葺替を始め諸修理を行った平成の大改修で、平成3年(1991)6月2日、落慶法要を行った。なお、南門は明治15年(1872)、番神堂 明治39年(1906)の建立ということである。

妙 広 寺

平成大改修余話ー寺宝「刀剣」 前記平成大修理の際、本殿や客殿等の屋根板などを止めていた古い鉄釘が相当量抜きとられた。この古い釘は、本堂などが再建された約250年程前のもので、往時の鉄を1本1本打ち込んだ、断面の四角な堅い鉄釘である。
この古釘を何か形にして記念に残せないものかと護持会で話し合い、当時の護持会長故柾本隆雄氏の発案で刀剣に打ち変えることとなり、早速、備前長船の刀工に相談した結果、倉敷で数年前から修行を積んでいる若い刀工赤松伸咲氏を紹介され、直ちに依頼した。
約1年後の平成3年6月期待の刀剣は見事に完成した。長・短2振りの刀と脇差である。刀は刀身70.8cmで資金面での援助を頂いた故柾本隆雄氏の名を、また脇
差は55.3cm、妙広寺壇信徒一同を刀工の銘と共に刻んである。
江戸時代中期から、信徒の象徴である妙広寺を守り続けてきた古い鉄釘が、今、燦然(さんぜん)と輝く平成の新刀として生まれ変わったわけで、貴重な寺宝の1つとして今後も輝き続けることであろう。
鬼子母(きしも)神尊像 鬼子母神とは、インド神話の夜叉(やしゃ)神の娘で他人の子を奪って喰(た)べたが仏に諭され、以後仏法の護法神となり求児・安産・育児などの祈願を叶(かな)える神として崇(あが)められている。
妙広寺には日蓮聖人御直作の鬼子母神尊像が祭られている。黒い漆塗りの高さ30cm程の厨子(ずし)の中に安置されている。厨子の扉を開けると、内面は金箔が施され、入口は徳川家の三つ葉葵の家紋を刺繍した幕で飾られている。当山38世日乾上人が昭和10年に書かれた縁起書には次のようにこの尊像由来を述べられているので要約して説明する。
当山に安置している鬼子母神の尊像は日蓮大菩薩の御直作で霊験あらたかな尊像である。昔、身延山の日遠(にちおん)上人が御感得(真理を感じ悟る)され、随身仏として法運を開かれ、婦人の難産救済や小児の疱瘡治癒(ほうそうちゆ)など多くの人々の願いを叶えられた。その頃紀陽候(紀州徳川家の祖頼宣(のぶ)公)の御母公に養珠院殿(お万の方ー徳川家康の側室)という人がおられ、法華経の信者で、広く人々に勧めて改宗させ大勢の人を法華の信者とならした。そのため人々は養珠院殿は鬼子母神の再来であると称賛した。日遠上人は養珠院殿が尊い身分でありながら宗門の布教に専心される立派な人であると思われ、御感得随身の鬼子母神像を養珠院殿に授与された。その後、この尊像を信仰し、霊験、奇特がいろいろあったという。
養珠院殿の御局(つぼね)女中に1人の熱心な信者があり、養珠院殿の夢中のお告げに従って逝去後、この局へ尊像を下げ渡された。その後この局は岡某という者の妻女となり、以来岡氏の家は3代にわたりこの尊像を崇敬してお祭りした。元禄年中(1688~1704)の頃のこと、ある夜近所から火災が起り、岡氏の家も危なくなったのでご尊像を他へ移そうと厨子共に抱えようとしたが、巖(いわ)のように重くて動かない。これは火災を除いて下さる奇瑞(きずい 不思議なしるし)かもしれないと思い、尊像をはじめ家財一切を外へ出さず、静かに陀羅尼品(だらにほん お経)を踊えていたら、急に風向きが変わり火難を免(まぬが)れた。これは一重に祖師大菩薩御直作の御尊像の霊験で有難いことだということになり、以来渇仰(かつごう 深く信仰すること)の人々のもろもろの願いごとを聞き届けられたという。
その後当山(妙広寺)第27世日行上人は岡氏と縁があって、この霊像に感得され、宝暦年中(妙広寺六百年史には宝暦13年、 1763とある)永く当山の鎮守として勧請された。
妙広寺では毎年4月7日と9月7日に鬼子母神祭を行い、信徒一同参拝読経してお祭りしいてる。
頓写講(とんしゃこう)など 岡山市史宗教編に妙広寺頓写講について次の様に書かれている。
平井妙広寺にては、毎年5月上旬を期し有縁無縁一切の霊搭を供養する頓写講なる行事あり。本講は文化10年(1813)上道郡新田三蟠村大庄屋藤原弥一衛門、藤原佐太郎、倉田中島村庄屋保崎太郎衛門等相謀り、米穀を出したるものを講員として、一堂に会し供養の誠を捧げたるに始る。嘉永5年(1851)3月平井村庄屋吉岡三平、講員を増加し出捐(しゅつえん)米穀(寄付した米穀)にて田4町余歩を購入し、其の利潤を講費に充つるに至る。

今から180年程前、当時の住職や有志 (檀家に関係なく)が寺の経営護持のため、頓写講という講を創立し寺門繁栄につとめていた。
なお、文化10年(1813)7月には、本山妙覚寺から当山永代聖人号を許され、また明治17年(1887)には当山住職が永代緋(ひ)金欄袈裟(らんけさ)着用を許可されているのも、この講による健全な当山の運営によるものと思われる。
更に古くから、特定なグループや集落単位でお勧経(かんき)講やお日待(ひまち)講などの講中が組織され、お寺を中心に信仰を通じて、生活の安らぎを祈り、お互いの融和協調を図ってきた。こうした講中は現在なお続いているものが多い。
境内諸景 年代を感じる古びた山門をくぐると、平成の大改修で装いを新たにした本堂・客殿(含庫裡)の甍(いらか)が端正な姿を見せ、客殿玄関前から広がる石庭は閑静な雰囲気をかもし出している。古い役目を終えた建物は取り除かれ、山門・南門から本堂・大玄関・庫裡などに通じる御影石の敷石があざやかに映(は)える。再建当時の古いものは見当たらないが、境内には江戸中期以降のいろいろな建物や石碑が残されている。以下に配置図と対比しながら、その由来を説明しておく。

妙広寺境内略図

題目石 寛政12年(1801)第30世日響聖人代に建立、裏に芭蕉の句が彫られている。
題目石 享保10年(1726)建立、下平井土手町内にあったものを移した。
法塔 五輪の法塔で明和7~9年(1770頃)建立、宗祖の遠忌に作られたものと思われる。土手地内から移す。
題目石 明治34年(1901)8月建立、土手地内から移す。
手洗い石 寛政年間(1789~1801)作
常山蛇勢松碑 西微山書 明治16年(1883)9月建立
樹齢数100年の枝を四方に伸ばした勢いのいい松が、終戦の頃まで繁っていた。今は枯れて石碑だけが名残を留めている。常山蛇勢松という呼称は、江戸末期から明治にかけて活躍した吉岡三平氏の依頼で、西微山(びざん 明治の教育者、衆議院議員)が命名したもので、由来を書いた篇額が客殿に残されている。
芭蕉句碑 明治23年(1890)建立
自然石に次の句が刻んである。当時の句会の記念に建てられたものと思われる。
  木のもとに 汁も鱠(なます)も 桜かな  芭蕉
三要大明王 下平井市場地内から移したもの(次項参照)
地神さま 石柱 同上
日朝(にっちょう)さま 大正9年(1920)建立
日朝上人は日蓮宗の学僧、後年失明。大正年間眼病に苦しむ網浜の岩田輝朝氏が、日朝さまを信仰し、ご利益(やく)をいただいて治癒したので、感謝して石像を作ってお祭りしている。以後眼病に効く仏様として信仰されている。
番神堂 三十番神を祭る(妙楽寺の項参照)、昔は鳥居があったが今はない。年代ははっきりしないが、講中で玉井宮を勧請(じょう)しお祭りしている。なお、お堂の正面には鎮守の額がかかげられている。
石灯籠(ろう) 番神党堂前の一対は宝歴11年(1751)と刻まれている。後年この位置に移されたものであろう。本堂前の一対は明治24年(1891)建立。
国旗掲揚塔(けいようとう)台柱 昭和15年(1940)、皇紀2600年に建てられた記念石柱。この柱に旗竿を立てて国旗を掲揚していた。第2次世界大戦の名残である。なお裏面に刻まれている和歌は次の通り。
  みたみわれ 生けるしるしあり あめつちの
    さかゆる時に あえらくおもえば
最上稲荷山東山教会
市道平井ー門田線を四軒屋から100m程登ると右側竹藪(やぶ)のはずれに右に折れるやや広い道がある。そこを少し入ると南面して真新しい朱色の鳥居があり、その奥に本殿・客殿・庫院などが山の斜面に並んでいる。周囲には赤い最上稲荷の幟(のぼり)がはためき、新緑に映えて見事なコントラストを見せている。ごく最近できた最上稲荷山東山教会である。

最上稲荷山東山教会

平成6年4月29日、雲一つない好天に恵まれ、落成式が華やかな中にも厳粛に行われた。稚児や浄衣姿の信縁者らの先導でこの教会の主管永田妙潤女史他60名の行列は、9時30分、中央町綾野商店前を出発、新装成った教会へ向かう。到着後直ちに式典が始まり、最上稲荷教管長日応貌下(げいか 高僧)の慶賛の辞や功労者への感謝状授与などスケジュール通りに進み、最後に主管の挨拶・総代の謝辞で終る。午后は会場を国際ホテルに移して記念祝賀会。政財界・宗教関係者ら約200人で盛大に祝い教会発足の1日を終る。
今、何故、ここに、この土地に住む者の1人として不思議に思ったので梅雨の合間をみてお尋ねした。運よくこの教会の主管である永田妙潤女史にお会いでき、いろいろとお話を伺(うかが)い、参考になる印刷物などを戴いた。それによると永田妙潤主管は、30数年前から最上稲荷を信奉し、総本山への参詣を続け、将来は宗教の道を進むことを心に誓って日夜信仰を深めてこられた。その後仏門の修業に入り、読経の練習やら荒行に参加するなど、仏の道を志す者として自己の研鑽(さん)に努めてきた。また、堂宇の建設や用地の確保についても早くから計画し、一昨年の荒業成満後本格的に取り組み、建築奉讃会の方々やその他関係者の支援により、今日、この教会の発足に至ったということである。
本堂正面中央にお曼荼羅(まんだら)を背に最上位経王大菩薩(ぼさつ)、その左右に八大龍王、三面大黒天の真新しい白木のご尊像が並び、南遙かふるさと平井の里(さと)に霊光を輝かせておられるように拝せられる。また堂宇全体は永田主管の好む緑を基調として調和をとり、華やかな中にも端正なたたずまいを見せてる。平成の世に新しく生まれたこの教会が、ふるさと平井の人達の心の安らぎの場の一つとなると共に教会の今後の充実を地元住民の一人として願って止まない。

(つづく)

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