「ふるさと平井」シリーズ№33を掲載

投稿日:2021年10月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 33 p.237-245)

       第6章 信   仰

浄照山専光寺

専 光 寺

県道岡山ー玉野線を網浜から南へ来ると、左側の山が最も道に迫った辺りの東側、平井1丁目1番地(元町)にある。時に沢山の花環が県道に並べられていることがあり、告別式の会場としてよく利用されている。
この寺は、昭和9年岡山市柳町に開所された浄土真宗の寺で、昭和55年12月現在の地に移ってきた新しい寺である。本尊は阿弥陀如来という。特定の壇家からの回(え)向(布施)にたよらず、求められれば経を読み、宗派にこだわらず境内を解放し、葬儀・告別式などの会場に提供している。真(まこと)はすべて如来の側にありとし、人の力に基ずく一切のものを拒否し、他力念仏によって極楽往生を求めるという開祖親鸞(しんらん)の教えによるものと思われる。浄土真宗は一向宗とも単に真宗ともいう。
松寿山奥聖寺
平井元上町にある日蓮宗不受不施派のお寺で”おおしょうじ”と称す。不受不施派法難の歴史についてはすでに第3章で述べたが、池田藩政下の弾圧の時代に日雅聖人により、現在のお寺の少し北の竹藪の中へ松寿庵という一庵(あん)が開基された。付近に井戸水も湧き、奥まった山の中で内信の場としては格好の庵で、以後不受不施派の拠点として守り続けられてきた。
明治9年(1876)4月12日、日正聖人ほか多くの信徒の奔走により、不受不施派再興が許可されてからは、松寿庵は今の奥聖寺に隣接した地へそのまま移転され、上道郡平井村第8教会所となる。津島妙善寺の御法中が住持となられ、中島・門田・平井・上道郡を担当して布教に当たられていた。続いて昭和4年(1929)6月6日教会所が狭いので、地元信者一同の奉仕により現在地に建立した。更に昭和22年(1947)6月28日 本山から奥聖寺の寺号を賜り現在に至っている。
このお寺は平井元上町の南面した山腹にあり、旭川から児島の山々に及ぶ南西の眺望はすばらしく、境内にはこの地で遷化(逝去)された日正聖人の石碑などがあり、常に信徒により清浄に保たれ、静かなたたずまいを見せている。
青竜山松琴禅寺(略称 松琴寺)
四軒屋から東山へ抜ける峠道の途中、市営火葬場の東側を北へまがって突き当ったところに位置するお寺である。平井と門田の境のあたりで門田地内の寺ではあるが、瑜伽(ゆが)神社が合祀(し)された変わった歴史があるので紹介しておく。
聖観音を本尊とする禅寺で貞和年間(1345~1349)無柳一参禅師の創建にかかり、戦国時代一時荒廃した時期もあったが、池田光政の慶安年間(1648~1652)に再興され、享保12年(1728)曹源寺の柏道和尚の幹旋で臨済宗に改められた。5代藩主池田治政(はるまさ)の明和年間(1764~1772)に至り、児島の瑜伽神社の分祀を行った。以後この一帯を瑜伽山と呼ぶようになる。では治政は何故瑜伽神社の分祀を行ったのか
池田藩は光政以来、歌舞音曲などの遊興を禁止していたが、児島の瑜伽山では黙認されていたので、芝居小屋や茶屋などが並ぶ門前町ができ、全国から役者や狂言師らが集まってきた。治政もしばしば瑜伽山に遊び、芝居などを見物していたが、児島は遠く不便であったので、岡山城下に近い松琴寺境内へ瑜伽神社を分犯して、こちらで楽しむことにした。松琴寺にはお籠(こも)り堂と称して舞台を作り、児島瑜伽山に来演した上方役者を招致して、上級武士と共に楽しんでいたらしい。池田のお殿様の肝煎(きもいり)で瑜伽神社が祭られ賑わった時代もあったという。
往時は松林に囲まれた閑静なところで、文人墨客が好んで訪れるお寺であったようだが、今は近くにホテルや育児施設ができ、交通の便もよく、だんだんと昔の面影がうすれてきている。
瑞光山仏心寺

仏心寺山門

このお寺は東湊、大池の東側、操陽北山の尾根に近い松林の中に南面して位置し、阿弥陀如来を本尊とする天台宗の古刹(さつ)である。備前藩主池田綱政(つなまさ)がその姉一条右大臣教輔夫人(輝子)の発願によって、正徳4年(1714)建立したものと伝えられ、池田光政(烈公)の位牌や綱政(曹源公)・継政(保国公)の絵像を安置している。
創建当初は小さな草堂であったが、宝暦7年(1758)継政の命で今の地に移し建立されたという。この事について継政の書いた「仏心寺建立之記」にくわしく述べられているので次にその原文を記す。

  仏心寺建立之記
抑々(そもそも)瑞光山仏心寺は、其(そ)はじめ、一条大政所靖厳院殿従三位輝子夫人の大願に因て、享保年中に霊空比丘(びく)を開山として、わづかに草堂を建、宝暦の今に至りて、ますます戒律の業を弘めて、遠近の僧尼あまねく当国に此(この)律院ある事を知れり。ここにおゐて、今此山を再興し、境内を広くし、堂宇を高大に造る事、其意旨一に非ず。まづ靖厳院殿の追福のため、ことに曹源寺殿の遺志有ことを思ふ、是一つ。又、武江におゐて、日光准后随自意院宮の仰に、律院建立の事、二世の功徳あさからず、尤(もっとも)よろこび思召所なり。然者(しからば)、永劫にも廃壊なきよやうに、信仰あるべき事、お互にねんごろにのたまはせ玉ふ、是二つ。又、有徳院殿御在世の時、国に此律院有事を聞召されて、永く退転なからしめよと、内々仰ごと有し、是其三つなり。皆これゆるがせにすべからざるの義を思ふに、其寺院を大にして国家と共に繁昌ならしめむにはしかじ、故に余が肖像を此律院におさめ、永代君父の命をおろそかにせざるの志をあらわさんとなり。後代にもこの旨を伝へて思ふべき者なり。

蓮 糸 絹

 于時宝暦七丁丑(ひのとうし)歳三月十五日

建物は寺院としては桁はずれに大きなものばかりであったらしく、頑丈な石垣や練塀・土塀で厳重に囲まれ、一見豪族の構え屋敷といった感じである。山林四町四方二十人扶持(ち)を給せられた池田家の名刹である。現在は庫裡(くり)の一部や石垣・土塀・参道の長い石段などが往時の姿をとどめているに過ぎない。
なお、本寺には池田継政の筆に成る「池田継政自画像」(宝暦4年 1754)、「池田綱政像」(宝暦9年 1759)や「南無阿弥陀仏」と墨書した蓮糸絹(れんしきぬ 宝暦6年 1756)が、岡山市文化財として残されている。
 (注)蓮糸絹とは、経糸(たて糸)に絹糸、緯糸(よこ糸)に蓮糸を用いた珍しい織物。
沖邑山(おきむらさん)妙楽寺
上平井の南端、旧旭川堤から50m程北に入ったあたりに、静かなたたずまいを見せている古刹がある。本堂・庫裡(くり)は享保初年(1716)第7世恵性院日有上人により再建されたものである。本堂の屋根は、宗祖700遠忌に葺替(ふきか)えて新しくなっているが、山門や境内の番神堂の屋根には珍しい鬼瓦が鎮座し、また庫裡には煙出しの屋根が残されている。古くから伝わる日蓮宗の寺院である。
開山縁起 古い文献によると「古へは真言宗にて極楽寺といひしが、天正年中(1573~1591)改宗して今の号に改む」とある。このことについて妙広寺30世日響上人の残された寺記に「同村に沖邑山妙楽寺と申す寺あり。(中略)妙広寺中興2代目実乗院、弟子2人御座候処、1人は立円院と申し候て、妙広寺3代目の住持仕り候。今1人は常林院日祥と申し候て、則ち妙楽寺を天正年中に建立仕り、開山にて御座候。(以下略)」とある。極楽寺当時のことは不明だが今から約400年余の昔、常林院日祥上人により開山された寺で御本尊は宗祖日蓮大聖人の御真筆のお題目である。
現在檀家は上平井をはじめ、平井元町・円山・山崎・倉田・沖元など南東部新田地帯に広く分布している。
建物の殆どは、再建以来270年余に及び、庫裡の老朽化が著しいので、現在、檀家・奉讃会で建替えのための計画がすすめられている。恐らくこの小誌が出版さる頃には装いを新たにした庫院(ごいん)が姿を見せているであろう。

妙 楽 寺

火除(よ)けの大曼荼羅(おおまんだら) ご本尊のお題目(大曼荼羅)は建治3年(1277)、日蓮聖人が身延山ご滞在中に書かれたご真筆といわれている。
妙楽寺21世日舜上人の時、京都で購入したもので京都妙覚寺及び岡山連昌寺の住職が享保3年(1718)と文化8年(1825)に書いたご真筆であるという鑑定書が別に残されている。このお題目は火除けのお曼荼羅 といわれ次のような話が語り継がれている。
京都で入手後御真筆の貴重な大曼荼羅なので、火災や盗難から守るため、檀家代表である富豪の桔梗屋(ききょうや 現岡山市表町3丁目)の蔵へ納めていた。ところが天保5年(1834)3月26日、備前太鼓唄で有名な岡山西大寺町、今屋が火元の大火事のとき、火は折からの風に煽(あお)られ次々と類焼(歌詞は55軒となっているが実際は72軒と寺一宇が焼けた。)して猛威をふるったが、不思議にも桔梗屋の蔵の手前で火勢は衰えて、鎮火したという。これは有難い大曼荼羅が蔵に納められていたからで日蓮さまのご尊徳のおかげということになり、「火除けの大曼荼羅」と呼ばれ、有名になった。
その後この大曼荼羅は妙楽寺に移され、毎年春秋の大曼荼羅会(え 5月12日・10月12日)にはご開帳され、ご本尊として大切に祭られている。
清正公(せいしょうこう)さま このお寺で珍しいのは加藤清正公の御尊像が祭られていることである。天正の昔、清正公は日蓮宗の熱心な信者であったことから、古くから勧請(じょう)され、約10cm位の小さな木像が祭られていた。どういう縁でこのお寺に勧請されたかははっきりしないが、岡山市の日蓮宗の寺院では番町の瑞雲寺とこの妙楽寺の2山だけで、清正公の武勇と誠実さが信仰によるものとして後世敬われるようになったと思われる。その後大正10年(1921)倉田の片岡久衛氏が発起人となり、熊本の本妙寺から現在の清正公像をお迎えし本堂に祭っている。高さ50cm余の立派な座像で、古いご尊像はこの像の腹中に安置してある。なお本堂内には清正公にまつわる古い絵馬が幾つか残されており、また、毎年4月23日と7月23日には賑やかにお祭りが行われている。
三十番神堂など 山門を入って右側に三十番神を祭る御堂がある。宝永5年(1708)4月23日、岡山紙屋町の紙屋加三衛門夫妻が、信心により大願成就したことを喜び建立したという。三十番神とは天照大神を始め全国の著名な神様30柱のことで、今なお毎月(旧暦)1日は何神、2日は何々様というように毎日ご祈念が続けられている。昔から子供の宮参りや七・五・三の祝いの時など、この三十番神にお参りする人も多いという。
更に境内には日蓮聖人450遠忌の享保16年(1731)に建てられた題目石や、600遠忌 (明治13年 1880)の題目石、「天保5年(1835)正月24日建之 23世日是」と刻んだ清正公神祇(ぎ)の石碑などがある。

(つづく)

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