「ふるさと平井」シリーズ№31を掲載
投稿日:2021年9月15日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 31 p.221-229)
第5章 開けゆく平井
フットボールクラブ 監督 福山 利治
昭和49年、当時私は平井スポーツ少年団でソフトボールのコーチをしていました。その時の6年生の一部が早朝ランニングをやっていたので、ただ走るのでなくサッカーでもやるかといった軽い気持ちでサッカーを始めたところ、子供たちも私もサッカーの面白さに夢中になってしまい、秋頃には操南、富山といったチームにも試合を申し込むまでになりました。
その年の冬に平井スポーツ少年団サポーターズクラブが発足、指導者の数も増えたのでこの機会にソフトボールのコーチをやめさせていただき、昭和50年4月から正式に平井サッカースポーツ少年団としてチーム登録をして活動を始めて現在に至っております。
発足の経緯がサッカーの方が面白いと子供も私も感じて始めたクラブですから、指導方針も「サッカーは遊びだ」をメインテーマに、将来性を大切に個人を伸ばすことと、子供たちがサッカーをやってよかった、楽しかったと感じて、中学校から高校、大人になってもサッカーを続けてくれればと願って活動を続けております。
指導を始めた当初は私自身も若かったため指導もかなり行き過ぎた面もあり、また朝練習をメインとしていたため途中団員数が減って10人程度になり、試合も8人で参加したりと大変苦労した時期もありましたが、7年ぐらい前から団員数も飛躍的に増えてきて今年は80人を越す団員数となりました。
チームとしての過去の試合成績には見るべきものはありませんが、個人としては岡山県レベルで高校の最優秀選手に2名、中学校2名が選ばれ、最近でも一昨年、今年といずれもキャプテンが中国地区選抜16名の中に入り、チームの方針通りよい選手が育っているのではないかと自負しております。
指導者は当初は私1人でしたが、途中鞆三千夫氏を代表者として迎え、チームのマネージメント、学区・保護者とのコミニュケーション等、私の苦手な部分での活動を助けていただくようになり、チームもより一層充実していきました。
ただ2名のスタッフでは仕事の都合等で、なにかあったときに練習・試合などに支障を来すことも多々ありますので、クラブの指導方針を理解して子供たちの指導をしていただける若い指導者を求めております。またチーム名も子どもたちが、かっこいいと感じるよう「平井フットボールクラブ」と6年くらい前に変更し、団員数も現在84名の大所帯となり、練習を平井小学校のグランドで行っております。もともと試合をするには狭かったのですが、最近では練習にも狭く感じております。
Jリーグも始まり選手にとってもサッカーをするのにいい社会環境が整って来つつあります。私達も指導者として益々勉強して将来日本を背負って立つような選手を育てていきたいものです。
バレーボール部 指導者 重光 勝臣
昭和47年4月 小学校高学年を対象に約30名でスタートしたバレーボール部は、同年10月スポーツ少年団として正式に認可され、それまで男子のソフトボール部の活動をよこめにみていた女子生徒にも社会体育の場が開かれました。現在選手は19名、指導者は6名で平井小学校の体育館で土・日曜日の週2回練習を行なっています。平成5年度の県5年生大会に於いては、落合高校に行き20チームのトーナメントで試合をし第3位の成績を収める事が出来ました。抱負として、子供達が最初に取り組む本格的なスポーツです。団体競技としての基礎はもちろん、言葉使い・団体競技による協調性・和・人の立場に立って考えられる心、苦しい中でも楽しかった思い出の方が多く、先(中学・高校)に行ってやりたい、やって良かったといえる思い出を作ってやりたいと思います。
現在平井小学校は児童数は増えているのに、スポーツ少年団の選手数は減っている状態です。バレー部の場合には学校のスマイルバンドの募集が早い為、そちらに相当数行っています。かけもちで入部する子供もいますが長統きはしていません。サッカー部以外はどの部も同じような状況だと思いますが、子供達のスポーツ離れが進む昨今、喜んで参加する魅力あるバレーボール部作りが私共にとって現在の課題だと考えています。
平井少年軟式野球団 指導者 末長 定雄
創部の経緯、昭和48年、当時借りていた家の近くの田んぼで、7~8人の子供達がボールを投げ、木切れでボールを打っているのを見て、もう少し広い場所でのびのびと遊ばせてやりたいと思ったのがきっかけ……。
近所回りの子供を集め、ひとりでチームをつくり、13人の子供が着るユニフォームからグローブまで全部自分でそろえ、練習場所が無く金甲山のふもとまで足をはこんだ事もありました。現在の球場は、葦がいっぱい生えていた旭川の河川敷を子供の父兄と一緒に鎌で刈り、土を入れてならして仕上げたもので、建設大臣が視察に来てお褒めをいただいたこともありました。今は平井第二緑地公園として岡山市より管理をまかされており、時にはチーム以外の団体がソフトボール大会とか運動会などに使用しています。
創部時の名前は、「青空ラビット」と言い、青空の下兎のように跳ねたりとんだりしてのびのびと楽しもうと、子供達で命名したものです。
現在の状況 部員数は2年生から6年生まで男子ばかり19名で、以前は女子が入部していたこともありました。指導者は「監督」末長定雄「部長」元成和好「助監督」今村誠「コーチ」川上定雄・井上和彦・前谷憲一・池田悟・薮木茂美の諸氏で、旭川河川敷の球場を平成5年から2面使用して練習に励んでいます。
抱負は、チームから甲子園に出場する選手を出すこと。昨年は、教え子が関西高校のキャッチャーとして中国大会に出場したが、甲子園には出られませんでした。今は部員数も減少し、なかなか良い成績が得られないが、60名を越す部員がいたころは、県大会にもたびたび出場していました。
問題点はやはり部員がなかなか集まらない事であり、最近はサッカー人気が上昇したため、ますますその傾向が強いようです。
一般同好会 健康と親睦のために余暇を楽しもうとスポーツ好きの同好の方達が集まって自主的に運営している会である。ママさんバレーと卓球部から原稿をいただいたので紹介する。
ママさんバレー 責任者 山本 京子
創部当時の様子 昭和35年、小学校の先生が建康の為にとバレー部を作ってくださった。岡山市内では、早い方だと聞いている。当時は、PTAの人もいて、婦人会の人や役員で人集めをし、部員数は、10~12人だった。
10年ぐらいは、練習試合ばかりで、婦人バレーとして公式戦に出るようになったのは、昭和44年頃である。指導は、小学校の先生(方川先生、小林先生、福田先生)がして下さっていたが、4代目から地区の人(バレーボール経験者)が、教えてくださるようになった。
昭和53年頃には、パパさんバレーも出来、公式戦にも何度か出たようだが、現在はない。
特記すべき成績、苦労談など Cクラスでは、OHK杯準優勝、岡山市バレーボール大会優勝、郵便局大会準優勝と数々の成績を納めた。その後、長い間Bクラスだったが、時々Aクラスでも試合が出来るようになった。平成4年Bクラスで朝日杯優勝、Aクラスで岡山市婦人バレーボール大会で準優勝した。
平成5年、念願のAクラスとなったが、怪我が多くなかなか思うような試合が出来なかったのは残念である。
現在の状況 一時は、部員が20人にもなったが、現在は12人である。練習は小学校の体育館で週2回、午後7時30分から9時まで、地区のバレーボール経験者2人に指導をお願いしている。
平井コミュニティ卓球部 部長 相賀 悦子
昭和和53年9月、当時の体協の方達の呼びかけで、町内会長を通じ回覧で同好の方々を募集したところ、約40人ぐらいの人が集まった。これが平井学区卓球部同好会の始まりである。隔週水曜日の夜、2時間程度平井小学校の体育館で学校の卓球台を借りて楽しんでいた。はじめは台が少ない(5台)ので仲々順番がこなくて、思うようにプレーができなかった。そこで早く台を増設しようということで会費を増やし、やっと3台ほど買い足したので前よりは練習が能率的にできるようになった。この頃までは、会則もなく同好会として気ままにボールを打っていた。
昭和57年4月、発足から4年余を経、運営が軌道に乗ってきたので、平井コミュニティ卓球部として新しくスタートした。部長(初代木村弘司)や会計などの役員を決め、会則を定め部としての活動を始める。最も大きな行事は、町別卓球大会で、この年の11月第1回大会を平井小学校体育館で行い、17チームの参加により学区町内交流の賑やかな1日を楽しんだ。この大会は以後、毎年続けられ今年(平成5年)で第13回を数える。
現在は毎週水曜日午後7時半から約1時間半、平井小学校体育館で練習している。卓球は誰でもできる気楽なスポーツである。各個人の体力と技術に併せて楽しめるので健康づくりのために余暇のある方は、 覗いてみませんか。
消 防 団
沿革のあらまし テレビでお馴じみ「暴れん坊将軍」の町火消。まといを先頭に揃いの火消装束も凛々しく、とび口やはしごを手に、火災現場にかけつけ、身を挺して消火や人命救助に当たる。江戸庶民の財産と生活を守る自主的な組織であり、これが、今日の消防団の元祖である。池田藩でも同じような町火消の組織があり、城下町の殆どの火災は、この町火消によって消し止められていた。
維新後の明治7年、町火消を消防組に再編成、更に明治27年(1894)2月勅令により消防規則が公布され、消防組は町村の公設組織となった。このため各町村では大字毎に支部を設け、諸用具を設備し、必要な組織を整え消火活動に当たることになった。
ふるさと平井には、この頃の記録は全く見当たらないが、恐らく、この時期以降、大正から昭和にかけて、各地区(大字)毎に警鐘塔(火の見櫓)や手押しポンプなどが常備されるようになり、青壮年が防火や水防に活躍したものと思われる。
昭和6年、平井村が岡山市に編入してからは、岡山市消防組の傘下に入るが、設備などは旧来のまま推移した。その後昭和14年4月、戦時体制強化の一翼を担い、警防団に改組、東警察署の指揮統制下に入り、し烈な戦局に対応して消防力の強化を図った。しかし昭和20年6月29日未明の空襲は苛烈を極め、警防団の活躍も及ばず、湊、元上、元町地区では大きな被害をこうむった。
戦後、行政機構や各種団体の改廃が行われた中にあって、消防団体は逆に強化されてきた。即ち昭和22年4月消防団令が公布され、警防団は再び消防団に改組し、その後非常勤団員による新しい義勇消防として水火防の任に当ることになり現在に至っている。消防ポンプや機庫については終戦までは各地区毎に手押しポンプやガソリンエンジンポンプなどを備え、また警鐘塔などを設置していたが、戦後新しい消防分団が発足してからは1か所に総合して整備されている。
平成4年7月、平井7丁目(平井農協南)に旧機庫(昭和33年設置)を改廃して2階建の新消防機庫が落成、1階に最新式消防車を格納、2階を詰所として学区全域の有事に備えている。また、組織としては平成5年4月現在、平井消防分団分団長以下40名の団員で岡山市消防団中第1方面隊に所属し、三勲、操陽など7分団と共に活動している。
消防余話 昭和20年代の半ば頃まで、ふるさと平井での背の高い建造物は電信柱か火の見櫓ぐらいだった。何か事が起こると若者が火の見櫓に登って様子を見ていた。上平井、下平井、四軒屋、元町には鉄塔型の櫓が、また、元上、西湊にははしご型の火の見があり、そのほとりに機庫が設けられていた。各火の見櫓には半鐘と呼ばれる小さな釣鐘が吊してあり、これを打ち鳴らして火災や洪水の状況などを知らせていた。連打は近火(学区内)、三連打は隣接地区、二連打は近隣地域の火災などと、約束事があって、その折々の状況が理解できた。子供の頃、夜、半鐘の音に眼をさまし、表にとび出して火事の様子を見に出かけたことなど思い出される。
ふるさと平井は、かつては静かな農漁村であったため、市街地のように何軒もの家が焼ける大火はなかったようであるが記憶に残る火事は戦前2夜にわたる煉炭会社の火災や近隣の山火事、また戦後(昭和27年)の成徳学校の火災などであろう。下平井須賀町内新堤防沿いにあった煉炭会社の火災は、山積みされていた煉炭や石炭に火が回ったため、火持ちがよく1ヶ月ぐらいくすぶり続けたという。近所の人は大変だったと思う。
最近の消防活動の状況を現分団長の沖高明氏は次のように語っている。
「昭和58年の12月上平井で2件火災があり、焼死者(1件はその後病院で死亡)が出たのは誠に気の毒だった。昭和60年代のはじめ下平井でも2~3件火災があった。消防活動で大変なのは山火事。学区内ではないが四御神や金甲山、貝殻山の火事には度々出動した。山火事の時はポンプを搬送して消火に当たるが、常に火に囲まれたり落石の危険がある。また、住宅の火災と異って状況によっては夜を徹することも多い。水防にっいては旭川ダム築造以来、大きな問題はないが、それでもつい15年程前までは倉安川沿いの土のう積みや、湊のがけくずれなどに当った。また、平素の訓練も大切で、今年(平成6年)は操法訓練(基本動作)で予選を通り、4月に行われた岡山市消防団の大会にはじめて出場した。」と。
消防団活動は藩政期から今日まで、地域住民の安全と財産を守る自主的な活動として脈々と続き数多くの成果を挙げてきた。火災、洪水など有事に際しては勿論、防火、水防に備えての訓練、また年末警戒 (毎年12月28日から3日間)や住民への啓もう、指導など、その活動範囲は広く、昔も今も地域の安全のため活躍している。その原点は江戸火消しに見られる任侠の精神といえよう。平素から地味な活動を続けている団員の方々の労に感謝すると共に真の防火、防災は住民一人々々の心の中にあることを忘れてはならない。
(つづく)
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