「ふるさと平井」シリーズ№24を掲載
投稿日:2021年6月1日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 24 p.166-172)
第5章 開けゆく平井
2.急速に進む住宅化と人口増
明治から大正・昭和にかけて、少くとも終戦後数年までの平井地区は、北の操山、南東の新田地帯、西の旭川にはさまれた長閑(のどか)な田園地帯で、緑なす山野が広がっていた。旭川という大河にかかる橋が京橋より下流になく、東西の交通がままならなかったことや西高東低の行政の姿勢などから、距離的に岡山市街地に比較的近いにもかかわらず、平井地区の発展は進まなかった。
戦後、人々が落ち着きを取り戻し、復興のきざしが見えはじめて以来、平井地区も徐々に旧市街地のベッドタウンとしての脚光を浴びるようになり、昭和40年代後半からは急速に都市化が進んできた。その要因は早くは平井小学校の新設、旧三万坪の解放であり、更に道路網の整備などが挙げられる。しかし、何といっても岡山市中心部に近く、交通の便がよく、南が開けた空気のきれいな地域ということが最大の原因といえよう。
以下に戦後から今日までの平井学区発展の過程を宅地化、住宅化の面から追ってみる。
主な住宅地等の造成、建設
〇昭和20年代
市営住宅 平井A団地30戸 昭和26年
戦後最も早く建てられた住宅団地、平井小学校新設に際して生徒数が基準に達しないため当時の耕作者が土地を提供してこの市営住宅を誘致し生徒増を図ったという。つい最近(昭和61年頃)まで赤屋根の住宅として親しまれてきたが、老朽化がひどくなったので取壊され、跡地は小学校用地となった。
引揚者住宅 55戸 昭和27年7月
前記市営住宅の北東側、旧三万坪の真ん中に建てられ、同年8月入居、この団地を緑ヶ丘と呼ぶ。後、昭和41年6月、全部入居者に払い下げられた。
〇昭和30年代
市営住宅 平井B団地 計128戸 昭和31年~昭和36年
引揚者住宅東側の旧三万坪に昭和31年度の40戸に続いて昭和32年度65戸、昭和33年度20戸、昭和34、36年度に2戸と1戸が建築される。
この頃から市営住宅周辺の団地化がすすみ、個人の住宅が次々と建築され、かつての荒涼とした三万坪は殆ど公共の建物や住宅で埋まった。
公務員住宅 市営住宅の建物と前後して、鉄筋3階建2棟・同4階建2棟が次々と建てられ、主として国家公務員(転勤族)の住居に当てられた。
〇昭和40年代
操南団地 昭和40年代はじめ、平井三の割(川崎)地内の田を埋め立て造成された。
平井荘苑 昭和40年代前半に平井地区最南端(操南団地の南)に造成、当初は30戸程度。
東山ニュータウン 湊の南面した高台の藪を切り開いて昭和40年代半ば頃から宅地化がはじめられ、昭和47年頃から住宅建築、入居、ニュータウンを形成した。
国富田地区の住宅 現排水センター東、祇園用水と倉安川にはさまれた地区の住宅、昭和45年頃造成、順次家が建ち世帯数を増し現在に至る。
栄町地区の住宅 平井小学校の西、南流する祇園用水の西側の住宅街、昭和40年代後半に造成、当初は10世帯ほどで発足した。
〇昭和50年代
下電平井ハイツ(東町)旧三万坪の東、小字広間と呼ばれていた地区、昭和40年代後半に土地買収造成、第1期工事を完了、続いて昭和50年代になって第2期造成が進み、順次住宅が建ち、新興住宅街を形成した。
両備サニータウン湊団地 湊地区の最南端、東は倉田、西は平井3丁目東町に接する田甫の中に昭和55年頃から造成してできた団地。昭和56年から入居が始まり、現在約80戸の住宅街になっている。
その他の住宅建設 以上のようなまとまった団地ではないが、昭和50年代後半から60年代にかけて平井地区全域にわたって新しい住宅が次々に建設された。上平井から分離したあすなろ町内地区をはじめ、市場、北川町内の県道岡山-玉野線北側の離れ地区、川東町内のマンション、アパート街付近、土手町内のバイパス沿い地域、四軒屋、湊の山沿いの地区など挙げれば切りがない。
〇昭和60年代以降
積水ハウスサンデスク操南台 昭和61年から62年にかけて湊の山腹に竹藪や雑木林を開いて造成され、その後順次住宅建設がすすみ、現在100余戸の緑の街並が美しい住宅団地である。
市営住宅 平井団地 前記市営住宅B団地の老朽化により、昭和62年から平成2年にかけて建て替えられた新住宅。鉄筋3、4階建て15棟から成り、198世帯が入居。広い道路が通り中央に公園、集会所を持つすばらしい環境の中にある。
その他造成、建設中のもの この稿を起こしている平成6年現在、新たに四軒屋、湊、平井3丁目地内などに大、小の団地が造成されつつある。
都市計画による市街化区域と用途地域
都市計画とは都市の発展を計画的に行い、市民生活が安全で快適でかつ機能的に行えるように、土地利用、都市施設の整備、及び市街地の開発を総合的に計画するもので、岡山市は近隣13市町村と共に県南広域都市計画区域に属している。
岡山市では昭和46年9月7日、最初の市街化区域と調整区域の線引きを行ったが、その際、平井学区は下平井の土手町内一部以北はすべて市街化区域に指定された。続いて昭和54年8月31日に第1回見直しがあり、残る調整区域の内平井分60㌶が隣接地区と共に市街化区域となった。(地図参照)これにより平井学区は最南端の旭川沿いの地区を除いて、殆どが市街化区域となっている。
因みに市街化区域は計画的に市街化を図る区域で、道路・下水道の整備や市街地開発事業を重点的に推進する。一方調整区域は農業・漁業の振興と自然環境の保全を図るため市街化を抑制する地域のことである。
次に用途地域については、元町から上平井へかけての新旧堤防の間と国道2号線バイパス沿いの地区が準工業地域になっている他はすべて住居地域である。第1種住居専用地域、第2種住居専用地域、住居地域などの若干の違いはあり、場所によっては規制が設けられているが、住宅地としての地域に指定されている。これによっても岡山市街地のべッドタウンとして今後も計画的な住宅建設が図られることがうかがえる。
なお、余談になるが平井分(湊を除く)では最初の線引きで市街化区域に指定された地区は住居表示が新しくなっている。
人口、世帯数の推移
過去約90年間の人口、世帯数の推移状況は別表の通りである。湊地区については、昭和50年までは行政上の湊全域(旧湊村)を対象としたものであり、昭和55年以降は平井小学校学区の統計である。昭和20年頃の記録は見当たらなく、また平井小学校誕生(昭和26年)以後昭和54年までの平井小学校区の数字がないのは残念である。
この表によると、平井村時代から終戦の頃までは世帯数、人口共に漸増はしているが増加率は小さく、500余世帯、2,500人程度であった。戦後数年間は軍人、軍属の復員、国の内外からの引揚者、罹災者、疎開者の一時定住などで世帯数、人口共に急伸した。昭和25年以降、経済復興のきざしが見えはじめ、市営住宅の建設、平井小学校の開校などがきっかけとなり、岡山市街地のベッドタウン化が始まり、 数10年間殆ど変わらなかった山野の風景が少しづつ変ぼうを見せはじめた。
現在までの世帯数、人口増のビークは昭和45~昭和50年の頃で、5年間に約1,000余世帯、3,000人程が増加している。これはすでに述べた団地造成ラッシュや道路建設、またバス路線の拡充、自動車の普及などから充分うなずける
昭和55年以降の平井小学校学区の統計によると、特に湊地区の伸びが著しく世帯数、人口共に僅か10余年で倍以上になっている。平井全域で世帯数が3,000を超したのが昭和62年、人口10,000人を超えたのが平成3年7月である。
次に1世帯平均家族数をみると、昭和30年頃までは一家に4.5人~5人程度で推移してきたが、昭和30年以降経済の安定につれて年々核家族化が進んできており、そのことが正確に数字に現れている。平成になって1世帯3人を割り、まだ減少化傾向が続いている。世帯数の増加に比べて人口の伸びが少ないためと思われるが、高齢化社会がすすみ、1人暮し老人や老夫婦の家族が増えつつあるためではなかろうか。
(つづく)
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