「ふるさと平井」シリーズ№22を掲載

投稿日:2021年5月6日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 22 p.154-158)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   10.文明開化の歩み

上水道の布設
平井地区は古くから元上町や湊の山麓にある井戸や、旭川沿い地域の伏流水による井戸などから比較的良質の水に恵まれていた。しかし、コックをひねるときれいな水が湧き出る上水道が、この土地に入ってきたのは何時頃のことなのか。岡山市上水道誌によりその経過を追ってみる。
永い間伝染病の脅威にさらされてきた人々が、ようやくその恐怖から開放されたのは医学や防疫の進歩もあるが、上水道の普及が最大の理由といえよう。岡山市においても例外でなくて、市町村制施行(明治22年・1889)の翌年、緊急の課題として上水道布設計画の議が起こり、中央から英国人技師バルトンを招へいして実地調査・計画書の作成などを行った。しかし膨大な経費を要することや、明治25・6年の大洪水、更に明治27・8年の日清戦争などでこの時は見送られた。その後紆余曲折(うよきょくせつ)を経て計画を練り直し、遂に明治36年2月、三野水源池工事に着工、上水道設置への歴史的な第一歩を踏み出した。そして市長以下関係者の努力が実り、明治38年3月31日全工事を完了通水した。実に全国第8番目の快挙で、岡山市民の文化意識の高さを示したものとして当時高く評価された。
続いて明治45年(1912)人口増に対応するための第1期拡張工事、更に大正13年2月から御野村・鹿田村の編入に伴う第2期拡張工事などが行われた。この第2期拡張工事は人ロ18万人(当時12万人)を対象に1日配水量2,783㎥で施工されたもので、市当局は予想外の需要がない限り、当分の間給水に心配はないと考えていた。しかし、昭和5年(1930)夏、人口13万人余にも拘(かか)わらず水不足で断水を余儀なくされた。これは使用量が増え、1日1人250㎥の算定基礎を大きく破り、他の所謂(いわゆる)文化都市並の水準になったためである。その上翌昭和6年4月1日、かねてから懸案の福浜村・平井村・宇野村の岡山市編入が成り、990戸、11,529人への配水が必要となり、水不足は一層喧(かし)ましい問題となった。
平井地区への水道布設は、昭和6年の岡山市編入を機に始められた。配水管は網浜から倉安川沿いに布設され、四軒屋から南に下がって上・下平井に達していた。当時は水道を引き込む家は比較的少なく、また、水圧が低く水の出も少なかったが、これが平井地区上水道の始まりである。
このような状況の中で岡山市は取りあえず、給水能力の増大を図るため次のような改良増設工事の計画をたてて実施した。その中で平井地区給水に関係のある設備計画を略記する。
配水設備、高地区給水設備 旭東地蔵川用水路以東及び平井方面における人口2万人(当時は約13,700人であったが将来を予測して)に対する給水が不完全であるので、その山麓(門田地区)にボンプ室を設け、電動機直結横型渦巻ボンプ2台を設置して加圧する。
操山配水池 門田地内標高76mの展望絶景の地に量水池及び調整池を設備する。
この工事は昭和7年から10年までの4か年継続で計画され、市議会の議決を経て所轄官庁に申請、昭和8年6月に認可、直ちに工事に着工した。途中昭和9年9月の室戸台風による災害の復旧工事が重なるが、工事は順調に進み、操山配水池工事と並行して配管工事も行われ、昭和13年諸工事を完了した。これにより平井・湊地区への完全給水が開始された次第である。
操山配水池は門田地区となっているが、現在は行政上平井2丁目になり、桜の古木が茂り春の花見で賑わうところである。
電灯のはじめ
岡山市における最初の電灯の実用化は、現網浜さくら住座のところにあった岡山紡績株式会社である。明治22年3月6日(明治21年という説もある。)300余灯のランプに代えて電灯をつけたという。「これにより火災の心配なく、その上明白昼のごとく光力鮮美なるが故に夜業のため大いなる便益を与うべしという」と当時の山陽新報(現山陽新聞)は報じている。大変な評判になり、毎日見物人が押しかけたらしい。
一般家庭への電灯の普及は、明治26年(1893)岡山電気株式会社ができて、電気供給事業に乗り出してからである。岡山市内山下の旧中国電力岡山営業所のところに本社があり、エジソン式直流25kWの発電器1基を設置して明治27年5月から営業を開始した。中国地方では初めての事業であったらしい。ところが、料金が高く(5燭光で半夜灯1か月の料金80銭、当時米1升7銭)おまけに故障の連続で申し込みは少なくて、明治27年末需要家数403戸、灯数935灯程度であった。「赤ふんどしにじんべい、1本歯の高下駄、太鼓を打ち鳴らして電灯のPR……」と、吉岡三平氏は「岡山事物起源」(岡山文庫)の中に当時の普及活動の様子を語っている。こうしたPRにもかかわらず、以後10年程の間は灯数の増加(明治31年4月、1,100余灯)はあるものの需要家数の増えようは微々たるもので、主として旅館や料理屋などで使われていたようである。
さて、平井地区に電灯が入ってきたのは何時頃か、記録がないのではっきりしないが、古老の話や近村の状況から判断して、一般家庭に広く電灯が普及したのは大正の半ば以降ではなかろうか。当時の電灯は経費の関係もあり、殆ど各戸に1灯で夕方から明朝までの送電だった。電灯も10燭光が普通で、切れたら各地区に設けられていた散宿所(交換所)で換えてもらっていた。また、婚礼などの特別な行事の時には、技師を頼んで仮に増設して点灯していた。それでもランプに比べて明るく、毎日のランプやホヤの掃除も省け、火事の心配も少なくなり、この文明の光の恩恵を喜んだようである。
郵便・通信など
江戸時代の通信事業は主として飛脚によって行われていた。維新後、近代化政策を推進する新政府は、明治4年(1871)新式郵便制度を計画し、官営郵便を開始した。官・民の信書を国が低廉かつ迅速に送達する制度で、ここに近代郵便制度の基礎が確立されたわけである
岡山県内では新式郵便制度発足の明治4年12月5日、岡山区栄町(現岡山市表町2丁目)に岡山郵便取扱所が開設されたのが最初であり、翌年9月に岡山郵便役所、明治8年1月 (1875)には岡山郵便局と改称された。この頃、県内各所に郵便取扱所が開設されたが、多くは近世以来の交通の要衝である各往来筋の宿駅等に設置されている。
平井地区については岡山市編入(昭和6年)以前は上道郡に属していたため、明治9年6月に開設された江並郵便局の管内にあった。この局は明治23年4月三蟠郵便局と改称され、所轄区域の郵便事務のほか、内海航路による郵便輸送関係の業務も扱っていたようである。
上道郡誌によると、平井村大字湊・上平井・下平井に郵便箱が設置され、集配度数は四軒屋・五軒屋・元上・川崎・湊などは日に1回、上・下平井は1日2回となっている。切手や葉書は郵便マークをかかげた数か所(下平井・上平井・湊・池の内 各1か所)の取扱店で販売されていた。このように平井地区は三蟠郵便局管内ではあったが、岡山市に隣接する地域であったので、ポストへ投函する普通郵便以外の電報や為替・小包などに関しては岡山市域の郵便局を利用してきたようである。
岡山市編入後、昭和9年8月から岡山郵便局管轄となり、郵便ポストや切手取扱店の数も増え従来より一層便利になったが、地区内郵便局の設置は昭和33年11月まで持ち越された。

(つづく)

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