「ふるさと平井」シリーズ№21を掲載

投稿日:2021年4月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 21 p.150-154)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   9.セメント会社と旧土手筋の賑わい

中世から近世にかけて、旭川下流東岸の静かな農漁村として経過してきたふるさと平井も、維新後の急激な変革の中で、さまざまな変貌を遂げてきた。それは新政府の近代化政策によるものもあれば、岡山市区に隣接するという地理的条件による変化もあった。そして今日なおその痕跡を留めているものもあれば、跡形もなく消え去ったものも多い。ここでは人々の記憶から忘れ去られようとしている、商業や工業に関連する事柄について2、3紹介する。
セメント会社
旭川大橋の上手すぐ下のあたりに舟を繋ぐ人工の池があり、その北にグランドが広がっている。すでに書いたように池田藩時代にはここに家老伊木の船屋敷があったが、これを利用しての士族授産事業が起された。維新後職を失った旧岡山藩士族120名余が、明治8年9月篤好社という会社をつくり、政府からの1万円の授業金をもとに金融・機械・醸醤(しょう)などの事業を始めた。その1つとして伊木の船屋敷を利用して石鹸製造会社を設立した。しかし士族の商法ということもあるが、明治17年を中心とした大不況のため、間もなく失敗に終わった。その後明治24年9月、その跡地を大改造して「岡山セメント株式会社」が創設された。

セメント会社(上道郡誌より)

実はセメントの原料は石灰岩と粘土で、その粘土は対岸の福浜新開地で大量に採掘できるので、これを利用することで計画されたが、質が悪く原料としては利用できず、止むを得ず他産のものを船で運び使用することにした。当時徳利型をした中央の膨れた煙突状のものが2本あった。徳利煙突と呼ばれたものである。原料の石灰と粘土を水で練り、長方形レンガの様な形にして、コークスと交互に中央のふくれた部分に詰め、下から火を入れて焼成する。窯づめという。熱が冷めたところで窯出しし粉砕する。ボールミルと呼ばれる大型円筒の中へ鉄の玉と共に入れ、高速で回転させて粉砕し、更に大きなローラーの回転する皿で粉々にするとセメントが出来る。製品は袋詰めにされ船や馬車で各所に運ばれる。ミルやローラーが回転するときは、ガラガラと大きな音が出、風向きによっては2、3里先まで聞こえたし、付近一帯には常に粉塵が漂ったが、当時は余り問題にならなかったという。
岡山セメント株式会社の経営は順調で、特に山陽鉄道(山陽本線)の敷設工事へ大量に出荷して好成績を挙げたが、鉄道工事が遠のくに従って出荷量が減少し、経営不振に至った。その後資本の増資や役員の入れ替えなどにより立て直しを図ったが、結局、明治35年9月倒産、会社は大阪の中央セメント社長鈴木辰次郎に譲渡され、山陽セメント株式会社と改称して再出発した。しかし業績は思わしくなく、明治40年神戸の吉川久七が買収、明治44年1月から他の出資者を加えて徳利窯を1基増設し、吉川セメント株式会社として操業を再開した。大正時代に入り第1次世界大戦の好況に支えられて経営は順調に伸び、大正4年10月には岡山の山下忠四郎が買収し、徳利煙突を2基増築し、粉砕器などを最新式に取り替えたり、名古屋の愛知セメントから技術者を多数呼び寄せるなどして増産を図った。5基の徳利窯がフル操業し、この頃が最盛期であった。上道郡誌によると大正8年現在、職工数64名、製品年額214,500円と記録されている。2棟の社宅には工員家族が一杯で親子兄弟で勤務する者も多く、農閑期に臨時で働く婦人も珍しくなかったという。
大正8年、経営者は変ったが、第1次世界大戦終結にともなう昭和初期の不況で再び経営は困難となる。昭和9年、岡山市を襲った未曾有の大洪水で壊滅的な被害を受け、更にその翌年から始められた旭川改修工事により、敷地の9割が河川敷として買収されることになった。かくして、明治以降30有余年に亘って平井唯一の大事業所は操業の火を消し、往時の従業員は建設中の三蟠火力発電所や内山コルク工場に転職していった。
なお、新堤防の内の残された敷地に昭和13年、岡山市の桑田真太郎などにより中国練炭株式会社が設立された。当時の燃料不足の折からしばらくは好況を続けたが、戦時体制下、物資の統制や政府の企業合同の指導により、日産練炭株式会社と合併、戦後昭和23年まで操業を続け幕を閉じた。
旧土手筋のにぎわい
明治時代 藩幕体制が終わり、人々は封建的な束縛から開放され、どこでも自由に往き来ができ、職業の選択も自由になった。交通手段の発達につれて人々の活動の範囲も広がってきた。
特に海運の発達は目ざましく、三蟠港は岡山の海の玄関ロとして阪神地方や四国との定期船が盛んに発着するようになった。当時の旭川は積年の洪水で押し出された土砂で埋まり、満潮時以外は小型船でも通行できない状況であった。三蟠港を利用する人々は、平井の土手筋を通って岡山と往き来するわけである。明治18年(1885)8月5日、明治天皇が岡山に行幸された時も、三蟠港にご上陸、しばらくご休息されて午後4時頃御馬車で岡山に向かわれている。余談になるがその折万一のことを慮(おもんば)かって交替用の人力車夫の選考が行われ上平井の人が選ばれている。
三蟠港と平井の間は約1里(4km)、平井・京橋間も同じぐらいで、平井は丁度中間地点に当り格好の休憩地となった。下平井の旧土手の両側に飲食店や商店・宿屋・人力車の帳場などが軒を並べ、随分賑わったという。現下平井・市場・須賀・土手町内にまたがる約200m足らずの土手沿いである。古老の話によれば人力車料金は三蟠・岡山間が30銭、ねじり鉢巻の車夫が鉄輪の人力車をガラガラと音を響かせて走るのは、随分威勢のいいものだったそうである。明治24年山陽鉄道(JR山陽本線)が開通し、四国からの各種船舶が三蟠港から発着するようになり、更に明治36年、山陽汽船が高松・三蟠間に定期連絡航路を運行するに至り、三蟠港は大盛況を呈し平井土手筋も随分賑わったようである。しかし、その後明治43年宇野線が開通し、四国連絡の拠点が宇野港に移ると三蟠港は海の玄関としての使命を終わり、更に大正4年、三蟠・岡山間に軽便鉄道が開通し、平井土手筋も交通の要衝としての意義は薄れてきた。
大正・昭和初期 三蟠港・岡山間の休息地としての使命は、陸上交通機関の発達にともなって薄れてきたが、明治期からの賑わいはそのまま昭和20年代まで続いた。近在近郷の人達への生活必需品の供給地としてである。雑貨店・食料品店・酒屋・衣料店をはじめ、鍛冶屋・米屋(精米所)・自転車屋・風呂屋・飲食店・郵便切手販売所・煙草屋など殆どの必需品が扱われ、駐在所もこの地域に置かれていた。軽便廃止後の銀バスもこの道を通り、遅くにはこの区間に停留所が3か所設けられていた。地元の人達は勿論、近村の方々も簡単な買物はこの地区で済ませていた。ネオンやアーケードこそないが平井の銀座と称せられ、一寸とした商店街が形成されていた。
昭和20年代後半から旧三万坪を中心に学校や住宅が建ち、更に40年代道路網の整備や自動車の普及が進み、各種大型店舗の進出をみるに至って、古くから栄えたこの土手筋商店街も、80年余に亘る繁栄の後を若干残し、今日に至っている。

(つづく)

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