「ふるさと平井」シリーズ№20を掲載
投稿日:2021年4月1日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 20 p.143-149)
第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)
8.災 害
風 水 害
旭川の河口に近いところに位置する平井地区は、昔から毎年のように洪水の危険にさらされてきた。しかし操山山塊の南西麓と、旭川の運ぶ土砂の堆積地が主体となすわれわれの故郷は、南部の干拓地と異なり地位が高く、比較的洪水による災害は少なかったようである。
明治25・26年と2年続きの大風水害は記録的なものであった。特に明治25年7月22日夕刻から翌23日にかけての暴風雨は風速30m、降雨量245.5mmを記録、旭川河口付近の水位は6.9mも高くなった。このため各所で堤防が決壊し、上道郡の平野部ではほとんどが冠水し、壊滅的な損害をこうむった。操陽・三蟠地区などでは、屋根に上がって救助を求める人々が見られ、平井や湊の人達が小舟を総動員して救出に当たったという。平井地区では操陽村に接する南部の水田地帯や、旧堤防外は浸水したが、堤防の決壊はなく、大きな被害には至らなかった。
次に昭和9年の室戸台風である。9月20日夜から翌21日朝にかけて関西一円を襲ったこの台風は、岡山県下にも大きな被害を及ぼし、風速28m、旭川上流の湯原での降雨量330.9mm、岡山市京橋では7.15mの高水位に達した。旭川水系の被害が最も大きく、上流各地は勿論、岡山市街地や近隣農村も殆ど水浸しになる未曾有の大災害であった。平井付近の旭川は旧堤防外まで濁流がうず巻き、木材や器物をのみ込んで荒れくるい、水位は刻々と上昇し危険な状態もあった。堤防の低い個所では水が土手を越え、また用水の増水で田畑は水浸しになり、稔りの秋を前に作物には相当の被害があったが家屋(床下浸水程度)や人間には大きな被害はなかったようである。
この大風水害を契機に旭川の改修工事が急ビッチで進められて、現在の堤防が築かれ、以後洪水の心配はなくなった。
疫 病
洪水などの災害の後には疫病が何時も流行した。コレラ・赤痢・チフス・痘瘡(ほうそう)などの伝染病が猛威を奮い、多くの人命がうばわれ、人々はその対策に苦慮した記録がいろいろ残されている。明治時代に入っても有効な手段はなく、神頼み以外はなすすべがなかった。
明治・大正期の県下の大きな伝染病(コレラ・赤痢・チフス)流行の状況は別表のようである。特に明治34・35年の2年続きの出水で、岡山市並びにその周辺地区ではコレラが猖獗(しょうけつ)をきわめた。この時には平井・湊地区にも痢災(りさい)者が多数生じ、西湊地区だけでも10数名の死者を出した。防疫の決め手はなく、人々はひたすら沈静化と安全を神に祈るだけであった。各地から火葬場に運ばれる棺桶が続くのを見て、生きた心地がしなかったということである。
伝染病患者を隔離する避病舎(ひびょうしゃ)は明治10年頃から全国各地で設けられた。はじめは一時的なものが多く、仏心寺(湊)や上生院(網浜)も利用されていた。その後網浜の元放送局のあたりに市営の避病院が設けられ、更に前記コレラ流行を機に明治36年平井・操陽・富山3か村組合立で、東湊の高田に新築された。
行政による疫病予防の諸施策と平行して、明治後期頃から上水道の布設や下水道の整備が各地で始まり、更に医学の進歩も著しく、疫病の流行は徐々に沈静化してきた。
戦 災
終戦後すでに半世紀近く過ぎ、戦争を知らない世代が国民の半数を越える昨今、あの厳しかった時代は徐々に風化されつつある。しかし、今日の平和と繁栄は多くの先人達の苦労と犠牲の上に築かれたことを忘れてはならない。
第2次世界大戦末期、昭和20年6月米軍機B29の岡山空爆の状況を追ってみる。
6月29日午前2時40分頃、敵機は爆音を消して旭川河口(九蟠辺りか)から門田方面を通り、岡山の上空を北西に向けて侵入、防空体制に移る余裕を与えず、周辺部から中心部に迫り、旋回しながら焼夷弾を落とし北西の津島方面へ脱出した。第一撃で全市を混乱に陥れ、その後2時間近く繰り返し波状攻撃を加えた。この大空襲にどうした手違いからか警報は一切出なかった。気がついた時にはすでに敵機は頭上にあり、またたく間に劫火(ごうか)は全市に広がったという。当日牛窓監視所で確認したB29は40機(中部軍管区発表では70機)で投下された焼夷弾は、小型54,000個、大型2,700個ということで、そのうち「モロトフの花かご」といわれる炸裂弾(48発の小型焼夷弾を束ねたもの)80本も含まれていたらしい。僅か2時間足らずの空爆で岡山市の旧市街73%を灰にし、市民の60%が家を失い、死者1,737人、負傷者6,026人と全国被災都市中第8位という大きな被害を受けた。
平井・湊地区はちょうど岡山市街地への進入路に当った関係から、山沿いの湊・元上地区の被害が大きく、上平井・下平井でも点々と焼失した。当時の人々が屋根に登って焼夷弾をたたき落したり、バケツリレーで初期消火に努めるなど懸命に防災に当った姿が偲ばれる。
以下に戦後の昭和22年頃、各町内会長に当時の様子を聞いて調べた記録が「岡長平著作集」に残されているので紹介する。罹(リ)災状況や各町内の様子がよくわかる。
湊 当時、会長の妹尾虎夫氏が不在なので、副会長の妹尾敏太郎氏夫妻に聞く。(22年3月5日)
……この付近の円山、平井へかけて親族知人からの疎開荷物を運ぶトラックや馬車や中車(大八車)が空襲の1週間前ごろから朝も晩もひっきりなしに続いたもんです。この光景を敵は上空から偵察しとったから最後の置き土産に落として行きました。仏心寺が無事だったのを見て敵の偵察がいかに正確なのかに驚きました。
被害は150戸のうち42戸が全焼で、一部焼失は4戸です。死亡1人、重傷なし、軽傷は10人ぐらいでした。死んだ妹尾ナカ(61)さんは裏ロで倒れとったんですが、身体に傷も何もない。心臓マヒでもないそうでショック死ということになっています。残った家は大型が落ちなんだのと近くへ逃げとったからです。
焚(た)き出しは残存農家がやってくれました。翌日に隣の操陽村や富山村などから醬油油や鎌や縄や蓆(むしろ)を罹災者へ持って来てくれたのはありがたかったです。罹災者は同居ばかりで1人も転出せずです。2か月ほどすると38戸建ちました。仮の納屋、倉庫などを建ててそれへ住んでいるんです。現在は158世帯、723人の大繁盛です。
平井上町 当時、会長平井安次郎氏談。(22年3月15日)
……100戸のうち2戸が全焼でした。空襲後60日もたって不発弾が爆発して1人死亡し、重傷なし、軽傷は10人ぐらいです。焼けた2軒のうち1軒は藁(わら)屋根の農家で、それへ大型が落ちたんだからどうにもなりませんでした。どこのうちも自分の持ち家だから避難せずに屋根へあがり、小型の焼夷弾は叩き消しましたから他町に比べて被害が少なかったわけです。
その代わり市中罹災者の来襲と、死体処理や道路清掃なんかで、忙しい毎日でした。焼けた家は復興していません。もとの108世帯が一時は170世帯となり現在は148世帯、660人……。
平井下町 会長吉岡三平氏談。(22年1月調)
当時の会長は藤原愛二さんでした。192戸のうち5戸全焼で、死亡者も負傷者もなしです。焼夷弾は10軒ばかりへ落ちましたが小型だったので消したんです。大型はたんぼばかりだったから助かった。
空襲後の朝は早ようから市内の罹災者の行列がつづいた。むろん下町へも足をとどめて納屋だろうと倉だろうと人間の山を築きました。7月のはじめには320世帯にも達したんです。現在は290世帯、1,260人ほどになっている。
平井元上町 当時、会長吉岡末治氏夫妻の話。(22年3月5日)
……被害は80戸のうち68戸が全焼で、一部焼失と半焼が3戸でした。全部が農家です。
死亡は1人、おおやけど1人、軽やけど3人でした。死んだ人は中風だったのでかつぎ出す時間がなかったんです。おおやけどは三勲小学校の診療所へ入院して治癒(ゆ)しました。
成徳学校を目標にしたようですから、平井では一番大節(おおぶし)をひきました。最初の2か所炎上は消火にかかりましたが、すぐ波状的に旋回しては投下するのですから、みんな逃げました。山や藪(やぶ)へかけこんだ人より川向うの南へ逃げた人が多かったようです。焼けなんだ家は弾が落ちなんだのですが、なかには燃えあがりが手間どって、くすぼっとるのを消したのもあります。
最初の食料は馬鈴薯(しょ)を残存農家が配給してくれました。続いて焼け跡から米と梅干とを掘り出し、これを粥(かゆ)にして1杯平均ぐらい配りました。
当時は転出も疎開もありませなんだ。平井地区内に親族や株内や懇意先の焼けなんだ家があるので、これへ同居したんです。そのうち焼けトタンが建ちだし、2週間ぐらいすると温室を改造して戻り出し、1・2か月もすると仮り小屋が増えだしました。現在は68戸で、うち15戸は焼けトタンです。そして世帯数が78で、390人ぐらいに戻っています。
平井元町 当時、会長平井信次氏に聞く。(22年3月5日)
……35戸のうち29戸が全焼です。死亡は2人ですが防空壕の入りロで直撃です。おおやけど2人は消火中に屋根から落ちたんだが、よう助かりました。軽やけどはずいぶんありました。
大量に疎開荷物を市中の親戚や知人から預かってたし、疎開して来た人もかなりありましたが、それがほとんど灰になりました。敵は遠い空の上から見とったんです。私のうちなんか2世帯も疎開しとられたし、倉も納屋も荷物でいっぱいでした。郊外だから大丈夫と誰も考えたんですがこれが大間違いでした。
どこのうちも男連中は自分の家を離れないで、前の川からバケツリレーで消火につとめたんです。ああ焼夷弾の雨が降ってはほんとに”鉄砲とどき”もしませんでした。
食料は見舞いを方々から持って来てくれたのでくさりはせんかと心配するほど豊富でした。転出も疎開もありませなんだ。みな平井うちへ同居さしてもろうたんです。
農家が多いから焼けトタンは1戸きりでたいてい納屋や倉を建てこれへ当分は仮り住居です。現在は29戸、うち焼けトタン1戸で、36世帯、240人から50人ぐらいの人口になっています。
(注)四軒屋は焼失家屋3軒であったが、記録されていない。
(つづく)
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