「ふるさと平井」シリーズ№19を掲載

投稿日:2021年3月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 19 p.136-142)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

新堤防工事
明治初期の河川改修は低水工事が主流で、堤防よりも、ふだん流れている水を調整し、下流部分の水流の流通をよくし、水運を確保しようとするもので、水制(沈床)と浚渫に力を注いだ。明治29年に河川法が改正され、高水防御を目標とすることに変わった。高水工事は洪水の計画流量を算定し安全に流すだけの河幅をとり河床を掘り堤防を新設かさあげするものであった。旭川は国の直轄河川となり、国の事業として改修されることになった。
大正15年政府は、旭川の河川改修の必要を認め、13年間の継続事薬として800万円で施行ときまった。この改修計画はいろいろ問題があり、昭和5年まで着工がおくれた。その後も百間川などのことで異論があり、ようやく昭和8年11月に起工式が挙行された。しかし1年たたない昭和9年9月室戸台風で大洪水に見舞われ改修計画が大幅に見なおされたが、工事は継続して行われた。
このような経過をたどった旭川の河川改修で平井地区の旭川流域に大きな影響を与えたのは新しい堤防の出現と、そのために古い時代からの生活の場が壊されて、広い河川敷となったことである。この項では古い平井の川岸のようすと新堤防工事について記すことにする。
改修前の川岸のようす 平井地区の川岸を上流からたどると元町の辺りは旧堤防(杉土手)が少し東へまがり、土手外の河原に畑地が広がり、その川下に柳原の刑場跡があった。元町から上平井までの杉土手より外を上砂場といい、野菜畑や桑畑があった。今の平井バス停付近を下砂場といい数軒の家と畑があり、河原の砂地に桑畑があった。
平井バス停下の用水の水門付近から南の一帯は、村前といい、江戸時代から須賀という地名で呼ばれた所である。この辺りは、川岸に小堤があり、堤には石段や一部石積みの護岸があった。古くは池田藩家老の船置場があり、おおがんぎ(船着場の石段を雁木「がんぎ」という)の地名が残っているのもこの辺りである。この小堤より内側には、須賀町内の公会堂をはじめ、10数軒の住宅や畑があり、川岸の堤の細い道にそって小さな社が祭られていた。
おおがんぎの少し下手から、川下のグランド付近にかけて、セメント工場があり、社宅や工場の建物・数本のとっくり煙突などが並んでいた。川岸には船着場の岸壁もあり、セメント工場の「入り湾ど」と呼ばれていた。このセメント工場の下手に今も船置場の入江があるが、これは、大正8年ごろ材木店が筏(いかだ)で運ばれて来る材木を置くために造った貯木場で、通称「新庄の池」と呼ばれていた。池の端には事務所・住宅や大きな倉庫が1棟建っていた。また池の入りロには橋があって、入反地の小堤へと続いていた。八反地には、田圃(たんぼ)があり、川岸にはおおがんぎがあった。それから下は、旧堤防が川岸まで大きく迂(う)回して宮道へと続いていた。
新堤防工事 平井地区の元町から平井、そして宮道、三蟠に向けて旭川東岸に見られる堤防は、旧堤防よりおよそ2m程高く堤の上の道幅も3m位広い立派なものである。旭川史の工事概要によると「平井築堤延長3,540m」また「平井人力掘削353,861㎥」とあり、工事は昭和10年頃始められている。この新しい堤防は、旧堤防を残したまま、その外側を直線的に造るよう計画されていた。川岸近くにあった畑や住宅・工場跡地などは、全部2~3m掘りとられて、河川敷となっていった。平井人力掘削とあるように昭和初期は人の力がたよりであり機械のない時なので大変な工事であった。この工事で活躍したのは、掘りあげた土を運ぶディーゼル機関車と10数台のトロッコと呼ばれて土運搬車であった。新堤防予定地より外の畑や工場などの跡地に線路が敷かれ、トロッコに土が積みこまれる。「機関車が10数台の土を満載したトロッコを引いて築堤現場へ運んでいく。数10人の人達がこの工事で働いていた。活発な工事だった」と平井付近の掘削について当時の現場で働いていた人が語っている。このようにして河原を掘り上げた土で新堤防は造られていった。

花畑網浜地区の堤防のつけかえ工事
(桜橋 瀬埼銀次氏提供)

その頃、下平井の辺りでは、新堤防より内側の低い田圃にトロッコ列車で土が運ばれて畑地に変わった所もあった。また新堤防がほとんどできてから、河川敷の土で旧三万坪や道路の埋めたても行われた。
新堤防工事は、戦前の昭和15年頃にはほぼ完成しているが、太平洋戦争で改修工事は中断された。戦後、花畑網浜地区の引堤(堤防を東へつけかえる工事)、河川敷の整備・護岸など工事期間が延長され、昭和36年頃、百間川改修を残して殆ど完成した。
新堤防とは直接関係ないが河川改修の付帯工事として、木材業者の要請で元町から上平井にかけての川岸に石堤に囲まれた平井貯木場が造られた。
新堤防は、ゆるやかな曲線を描きながら、対岸の浜野の堤防と平行して、河口へ向けて8km余続いている。上流にダムができるまでは、洪水の度に、濁流が河川敷を隠し堤防いっぱいに滔々と流れたが新堤防のおかげで災害は一度も起きてない。現在、河川敷がきれいに整備されて、ゲートボール場や野球場などのグランドが数か所造成され、地域の人々に利用されている。
三万坪の変遷
大正末期に平井地区のほぼ中央部の土地が一度に三万坪も買収されている。現在の平井小学校の周辺から中央町・緑ケ丘・市営住宅団地・養護学校付近一帯の地域である。土地の人達が「三万坪」と呼んでいる地区でこの土地の造成は旭川の改修とかかわりが深いので、ここにその変遷を略記する。
大正15年に計画された旭川改修計画の中に岡山市中島の公園化に伴い遊郭の移転問題が持ち上り、その候補地の1つとして平井地区が挙げられた。この噂を先取りした県北の人が平井製紙会社を建設すると称して土地の買収に乗り出したが交渉は思うように進まず、結局山陽銀行が融資して1反歩1,500円で実測28,000余坪をまとめて買収した。これが三万坪の始まりである。しかし昭和初期の金融恐慌当時、岡山県内でも大規模な銀行の合併が行われ、業績の思わしくなかった山陽銀行は、中国銀行に合併(昭和5年12月)され、所有していた平井の土地三万坪は「中国土地倉庫株式会社」に所有権が移された。
一方計画されていた中島遊郭移転問題は予算の関係で中止となったが、昭和9年9月の室戸台風被害後の大幅な旭川改修計画変更後、再度持ち上がり、平井地区が第1候補地に内定した。しかしこの時も河川改修に当る内務省(現建設省)の強い反対で実現しなかった。平井地区にとっては幸運といえよう。
さて、昭和10年頃から始まった改修工事で新堤防の築堤工事と平行して河川敷の土砂による三万坪などの埋め立て工事が始められた。上平井の古い家並みのはずれ(現木材会社)辺りの河川敷から土砂を満載したトロッコが小型のディーゼル機関車に引かれて新土手のトンネルをくぐり、旧堤防(杉土手)を横切って三万坪まで往復して順次、埋め立てていった。昭和12年頃には広々とした広野三万坪が出現した。なお、前後して新提防(平井バス停)から北へ四軒屋に至る4間(約7.2m)の道路もこの時新設 (一部拡幅)された。
こうして造成された三万坪は、一時期近郊農家の飼育している馬で草競馬が行われたこともあったが、特別な利用計画もなく荒涼とした荒野のまま放置された。春の彼岸の頃の土筆取りや夏草の中で遊んだ想い出を持つ人もいることと思う。
やがて日支事変から第2次世界大戦とあわただしい時代に入り、食料増産のためにこの荒野も一翼を担うことになる。昭和15年頃から師範学校や県立商業学校の学生・生徒たちの勤労奉仕によって開墾され、さつまいもなどが植えられ、また周辺農家でも借り受けて開墾し野菜などの生産に当った。
戦後、この広い土地が地域の中心部にあったことから、小学校や住宅の建設をはじめとして平井地区発展の中核的役割を果たしてきたことは周知のことであり、戦前の広漠とした三万坪を知る者には、将に隔世の感が深い。

昔から旭川河畔に住む平井の人達は、川とのかかわりが深い。特に子供達にとっては、恵まれた自然の遊び場であり、また学習の広場でもあった。水泳は勿論、舟を漕ぐことや、蜆(しじみ)掘り、あおさ採り、魚釣りなどを習い憶え楽しんできた。時には草野球や裸馬を乗りまわすなど、気ままに遊べる空間であった。
その頃の想い出の一片を沖 久治氏が、届けてくれたので紹介する。氏は下平井旧土手沿い市場町内の旧商店の人で昭和10年から約20年間を平井で過ごし、現在は高槻市に住いして、所属する俳句の同人誌にしばしば随筆などを寄せている。すでに古希に近い年令ではあるが、彼岸・盆暮れの墓参りには欠かさず帰参し、また、祖母や姉と過ごした少・青年時代に特別な感慨を今なお持ち続けている人である。

随 想
  船にさばる
昭和10年代の旭川は夏休みの子どもたちにとって良い遊び場であった。満潮の時は岸辺まで水があるので水泳をし、干潮の時は沈床と沈床の間が砂浜になるので、しじみを掘ったり、沈床ではぜを釣った。沈床の石に人さし指くらいのはぜがいる。そのはな先にごかい(餌)のっいた針をおろして、上下するとぱくっとくいつく。見釣りといって、よく釣れた。
干潮になると川幅が半分くらいになる。向う岸で泳ぐ浜野の子供たちの声が聞える。するとだれかが向う岸の子に「ハマノォーノ、ハァマグリィ」(浜野の蛤)と、からかう。向うから何人かの子が「ヒレェノォヒキンド」(平井のひき蛙)と、どなり返してくる。その声に負けずに、10人くらいが1列になって「ハマノォノハァマグリィ」とやる。これを互いに声を限りに叫び合った。こんな仲だったから、旭川横断は敵地に乗りこむ覚悟がいった。
川の中央は、京橋まで石炭や貨物を運ぶ機帆船や、京橋ー牛窓・小豆島間を往復する白い客船、高千穂丸、千代田丸、菊水丸などが、往き来していた。
子供らに一番人気のある遊びは、この船に泳ぎ着いて乗りこむことだった。これを「船にさばる」といった。川下から石炭を積んだ機帆船が来るのを見つけると、川の中央に泳いで行って、平泳ぎをしながら船を待つ。船のへさきに波が盛りあがって、船腹では低くなり、ともの近くでまた盛りあがる。この波に乗って、ともにつないだはしけ(小さな舟、伝馬「てんま」船ともいう。)につかまるのである。船底に吸いこまれないように、船が目の前に来た時、クロールでダッシュしてはしけにさばるのだ。はしけにうまく腕がかかると、船のスピードで体が浮き、はしけにはいあがれる。厚かましいのは、はしけの綱をたぐって本船にのり込で数刻の旅を楽しみ、船腹から川へ飛び込んで帰ってくる。うまくゆけば、反対方向に行く船にさばって、帰ってこられた。
客船はスピードがあるので、おんびんくそ(臆病者)の私はさばったことはない。船尾で廻っている真鋳(しんちゅう)製の大きなスクリューにひきこまれるという恐怖があったのである。しかし、無鉄砲なヤツもいて、この客船にさばりにいった。客船ははしけを引っ張っていないから、舷側に吊るしてある丸太(港の岸壁に舷がこするのを防ぐ)のローブにつかまるのである。船長はさばるのを防ぐために船を蛇行させたりするので、なかなか乗りこめない。だが、成功して客船に乗りこみ、2階の高い所から川に飛びこんで帰って来たヤツは、子供達から畏敬の目で眺められた。
船にさばるなんてことができたのは、旭川の、それも平井の辺だけでできたことではなかろうか。 (沖 久治記)

(つづく)

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